第11章-⑥ 情報戦
ナジュラーンの宮殿と市街をラドワーン王の軍とともに出撃した教国軍は、2月25日にメッサーシュミット将軍率いる帝国軍第二軍集団と接敵した。両軍の兵力は
特にメッサーシュミット将軍は、地理不案内で補給線が長く、黄砂が向かい風で吹きつける戦術環境を嫌って、早い段階で撤退を決意した。
教国軍及びラドワーン軍は足並みを揃え、慎重に追及し、戦線は本格的な戦闘のないまま、なんともとの帝国と同盟の国境あたりまで移動した。帝国軍はこのラインで踏みとどまり堅固な陣営を築いて、両軍を迎え撃つ姿勢である。
ここでクイーンが期待するのは、シュリアに委ねた離間計の効き目である。理想はメッサーシュミット将軍の解任と、その後任として無能な将軍が赴任してくることだが、少なくとも前線の大将軍と本国の政治指導者のあいだに亀裂を生じさせることができれば、状況を有利にできると考えていた。後方に不安があるようでは、さしも名将の聞こえ高いメッサーシュミット将軍でも、本来の実力を発揮できまい。そうなれば付け入る隙がある。
しかし、求める結果が得られないことも考えうる。シュリアはそもそもはイシャーン王を裏切って当方に寝返ったばかりの男であり、彼の忠誠心が真実であるとは限らない。また仮に真実だとして、彼の流言をヘルムス総統や軍の幹部が信じるとは限らないであろう。
だが、調略は3月14日には早くも奏功した。
帝国軍の陣営が置かれているヌーナ街道上に配した間諜から、帝都方面から物々しい高級将校の一団が派遣されたこと、それと入れ替わるようにして、メッサーシュミット将軍と
「メッサーシュミット将軍ともあろう者がこうもたやすく前線からしりぞけられるというのは、眉唾物だ。うかうかと信じてはかえって足をすくわれるかもしれませんぞ」
「その通りです。私自身、帝国軍の陣地を偵察しましょう」
軍議の席上、第二師団長カッサーノ将軍の当然の危惧にクイーンはそう答えた。答えたときには、彼女はもう愛馬のもとへ歩き出している。唖然として止めようとする側近らを
「ここは戦場です。どこであろうと、安全な場所などありませんよ」
少数だが精鋭揃いの近衛兵を連れ、つぶさに帝国陣地を望見して、クイーンは断言した。
「帝国軍の指揮官が変わったのは事実でしょう」
「何故、そう思われるのですか」
近衛兵のクレアが不思議に思った。本営の指揮官の姿が見えるわけでもなければ、陣営に立つ軍旗も変わっていない。軍の配置も以前のままである。少なくとも彼女には、昨日までの帝国軍陣営と変化があるようには見えなかった。
「表面的には見えなくとも、指揮する者が違うのは明らかです。指揮官の能力や性格は、兵の動きに表れるものです。案の定、帝国兵は不用意に近づきすぎているように見える私の姿を目にして落ち着きを失い、今にも出撃しようという構えです。以前の帝国軍陣地は、軍馬士卒にいたるまで身動きひとつせず、付け入るほころびも挑発に乗るそぶりも微塵もありませんでした」
そのように言われてみると、なるほど、つい先日までの帝国軍とは様子が異なるように見えてくる。どことなく、帝国軍全体に気息の乱れがある。気息の乱れはやがて規律の乱れにつながるであろう。
「ただ、指揮官の交代が事実であったとして、戦う相手を知らねば方策を立てるのも困難です。メッサーシュミット将軍の後任がどのような人物か、新たな偵察要員を派遣して調べてください。例えば、功名心があるか、嫉妬心があるか、
「承知しました、本陣に戻って手配します」
クレアが単騎で駆け去ったあと、エミリアが脱帽して言った。
「メッサーシュミット将軍が前線を去ったのは、シュリアの手柄でしょうね。おっしゃった通り、流言は時として10万の味方を得るのにも匹敵します。元来、彼を使うことには反対しておりましたが、私が間違っておりました」
「誰もが反対しました。特にラドワーン王が反対していましたね。決して信用してはならぬ、と」
「ラドワーン王にも、今回の件を伝えましょう」
さらに数日、両陣営はにらみ合いを続けた。ただし、水面下では教国軍による偵察活動と情報収集が活発さを増している。メッサーシュミット将軍の本国召還の裏取りと、新たに指揮官となった将軍について知るためである。
女王位をめぐる内戦において、情報の収集とその操作によって優位に立ったように、今回もクイーンは情報を重要視していた。
その戦略思想は、実に明快である。
「第一に補給、第二に情報、次に移動の速さ」
例えば兵力が同じであったら、補給に優位性がある方が勝つ。補給状態も同じであれば、情報戦で優位な側が勝利する。それほど、情報は戦いにおいて重要な意味を持つ。
この数日のうちに、クイーンはメッサーシュミットの後任としてこの方面の指揮をとることとなったレーウ大将という者についてすっかり調べ上げた。将兵からの人望や用兵手腕はもとより、密かに囲っている愛人のこととか、前線勤務が苦手であることとか、あるいは過去の成功や失敗について。そして、彼の現在の階級は彼の能力ゆえではなく、前国防軍最高司令部総長ヨルゲンセン元帥の甥という縁故を利用してのものであること。
それらの情報を総合して、クイーンはこの新たな敵手が無能であると断じた。そして各師団長を集めて開いた軍議にて、ドン・ジョヴァンニ将軍の遊撃旅団を遠く迂回させてヌーナ街道の帝国軍兵站線を切断するとともに全面攻勢に出る作戦を立案した。
だが、ラドワーン王と作戦について示し合わせ、明日はいよいよ遊撃旅団が夜陰に紛れて潜行を開始するというときに、計画は
帝国陣地に配した密偵より、大規模な軍事力の移動が確認されたからである。一個師団規模の軍が、前線を離れ、ヌーナ街道を帝都方面ないし教国方面へ進んでいるという。
背景としては、帝都西のブリュールに上陸した教国軍第四師団を完全掃討するため、第二軍集団の一部が引き抜かれたという事情によるものだが、通信の連携に時間がかかりすぎるために、第四師団のこうした動きは遠征軍にはまだ伝わっていない。
いずれにしても、帝国軍のこのあまりに不自然な動きにさすがのクイーンやラドワーン王でさえ真意をつかめず、やむなく作戦を一旦は中断した。
が、教国軍は引続き諜報活動をさかんに行い、放胆にも帝国軍の兵士を装ったヒメネスという十人長が帝国陣地に入り込んで、真相を明らかにした。クイーンはこの情報によって、帝国軍が西、東、南にそれぞれ戦線を抱えていることを知ったのである。
そして、戦力の低下した帝国軍を一挙に撃砕するべく作戦の再発動を決意し、ラドワーン王にも連絡を取った。
教国遠征軍の幹部としては、まず正面の帝国第二軍集団を撃破し、帝国領土を侵襲して南下し、カスティーリャ要塞にとりついている帝国第一軍集団を本国の味方と呼応して挟撃し、国都へ帰還するという未来図を、充分以上の確信をもって描いている。確信しうるだけの材料が揃ってもいた。
ただ、帝国軍でも手をこまねいているだけではない。ヘルムス総統がハーゲン博士に研究させていたいわば秘密兵器の戦場投入が迫っている。
戦いには、ある種の狂気を生み出す何かがあるのだろうか。我が命を差し出して、戦場に向かおうとする者には、確かにそれだけでも狂気が必要であろう。だが、戦場で槍を交える者たちには、狂気とともに誇りや尊厳といった心情を持ち合わせているというのも、それは事実である。悲惨で、ともすれば発狂しそうになる戦場の恐怖、殺意、狂騒、悲鳴といった世界のなかで、それは戦う者の精神をかろうじて現世につなぎとめる一筋の光であるのかもしれない。
しかし一方、戦場に立たぬ政治家や研究者にとって、戦場などただ彼らが目にする数字が操作され、実演されるだけの場でしかない。いかに無駄なく味方の命を消費し、いかに効率よく敵を殺すか、彼らにとってはそれだけが重要なのである。
戦いにおいて最も非人道的な者は、戦場で槍を振るい、敵を刺し殺す兵士ではない。自らの野心や政治的利害を満足させるため、彼らを死地に送り込む政治指導者であり、あるいはそれに媚びへつらう政治屋や将軍、学者や軍産業者といった連中であろう。戦場に悲劇と災厄をもたらしているのは彼らであり、こうした人種が絶滅しない限り、戦争は人類の歴史からなくなることはありえないであろう。
ロンバルディア教国のクイーン・エスメラルダが兵士から熱狂的に支持と歓呼を受け続けた要因のひとつとしては、彼女自身が常に戦場にあり、将兵と痛みや苦しみをともにし、彼らが死ねばともに号泣し、彼らを守ることを自己の責任の最大なるものとして考え実行していたことにある。
彼女のそうした精神性は教国全軍を貫くようにして支配しており、であるからこそ、捕虜の虐待や虐殺、戦地での略奪、暴行、その他の風紀の低下はほとんど見られず、教国軍の統制と規律の見事さを当時にも後世にも印象づける結果になったものであろう。
それだけに、より一層、帝国軍の繰り広げた戦いというものがいかに非人道的で醜悪で悲惨であるかが、歴史上に大写しに写されたのかもしれない。
しかし、まずは何より、3月19日、シュレースヴィヒの町近くのキティホークで行われた会戦の模様から確認しなければならない。
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