術士奇譚-⑦

 翌日、エルスの導きによって、彼は術者となった。

 人気ひとけのない静かな場所を選び、エルスは右手に杖、左手はひざまずいたセトゥゲルの額に触れ、術者となる唯一の道を開いた。

「目を閉じ、左右の人差し指と中指を交互に組んでください」

「これでいいか」

「そして、あなたの心の奥、さらにその奥底にある思念を余すところなく引き出し、全て解放するのです。術の使役は解放です。自らの本質である思念の解放こそが術となって表れるのです」

 もし失敗すればそれはすなわちあなたに術者たる資格がないということ、あきらめてくださいと言った。

 小半時ほど、セトゥゲルは黒く孤独な世界の内で自らの思念を引き出そうともがいた。いや、正確にはエルスがいた。エルスの指先には何がしかの力の波動のようなものがあるのか、時に迷い、途切れがちな彼の思念を律し、道を示している気がした。

 汗が流れ、息が荒くなり、体力が尽きかけたとき、彼は闇の向こうに一条の光を見た。

 最後の力で、彼は奔騰するすさまじい思念の全てを解き放った。

 瞬間、彼の周囲に異様な気配とともに無数の小さな雷光が走り、消えた。

 セトゥゲルはゆっくりと目を開け、生まれ変わった己のその変化を楽しむようなゆとりをもって立ち上がった。

 事実、彼はおかしかった。

 彼を守護し、彼の剣ともなり、彼に恩恵を施すものは、野心の力、雷の術式だったのである。

 やはりそうか、と思うと、どうにもこらえきれず、唇の端に笑みが宿った。

 その様子を、エルスは両手で杖を握りしめ、思いつめたような表情で見つめている。

 彼女にすれば、最も目覚めてほしくない種類の新たな術者であったろう。

 常は情愛に満ちた微笑を浮かべているはずの口元が、この時は石のように張り詰めこわばっている。

 セトゥゲルは物言わぬ娘の顎をくいと上げ、奪うようにして唇を重ねた。

 この日から、セトゥゲルの愛はエルスよりも己の力に注がれるようになった。日夜、彼は自らの思念を高め、術を強化し、自在に使いこなすことに没入した。

 雷の術は強力である。セトゥゲルの思念とそれを操る意志の強さたるや並外れており、その力は天に届き、天の彼方から雷竜を呼び寄せ、思うままに使役してときに破壊し、ときに殺戮した。

 彼の操る稲妻をもってして、エルスの生み出した小麦畑を一面の焦土に変えた時の彼女の衝撃は計り知れなかった。雷は強大な妖力で狂奔し、他者を害し、奪い、破壊するだけである。だから雷の術者は、常に世界の調和を乱すはぐれ者とみなされ、ほかの術者から鼻つまみにされるものであった。

 野心の赴くまま、己の力をふるい、死ぬまで暴走を止めることがない。

 そのような男が、今まさに目の前にいる。

 しかもこの害獣を生み出したのは、自分の罪であった。

 ただ、彼女はセトゥゲルを責めなかった。沈黙によって、かすかに抗議した。

 非難なのか、悲嘆なのか、あるいは軽蔑なのか憎悪なのか、セトゥゲルは彼女のただならぬ心情が含まれた視線を痛いほどに感じながら過ごした。

 セトゥゲルも、あえて弁明しようとはしなかった。

 一度、彼はエルスをまた以前のように抱いたのだが、彼女のあの包み込むような情愛の恵みは感じられず、行為の終わったあとには砂を噛むようなむなしさがこみ上げてきた。

 そして、二人の溝を決定的にした事件が起こった。

 その日、エルスは日課である食料の調達に出ていた。護衛の兵らが穀物や野菜を収穫、あるいは家畜を屠殺とさつして荷車に放り込むのと同時に、彼女がそれを再生してゆくのである。要塞には既に数年分の食料が備蓄され、恐らく世界で最も食うに困らぬ地となっていた。

 彼女の表情に日々鬱々としたかげりが差し、声も弾まず、美しい顔にややもすればやつれの色が見られがちなので、その人柄を仰ぐように好いていた兵たちはみな一様に心配していた。

 先日来、異常気象が続き、毎日のように雷雲が出現していることと関係があると推測する向きもあったが、真相を知る者は無論、皆無だった。

 この日はこのところでは珍しく晴天で、太陽が中空にさしかかった時分に、エルスは突如、わなわなと震え、顔面蒼白となり、一目散に要塞へ駆け込んでセトゥゲルを探し当てると、果然、そこには彼の腹心の部下がたたずんでいた。

 男の周囲には導きの余韻で異様な力が充満し、部屋は凍るように冷えていた。

 セトゥゲルが、彼を導いたのである。

 エルスは絶望し、悩乱して、取り返しのつかぬ愚行を犯したかつての想い人を責めた。

「セトゥゲル様、まさか導きをなさったのですか」

「エルスか。やはり同じ術者だからか、鋭敏だな」

「気付きます。何故このようなことを」

「言ったはずだ。お前を守る。ともに世を変えるのだと」

「嘘です」

「嘘。お前は私を疑うのか」

「術を扱うのは、選ばれた者のみであるべきなのです」

 もし選ばれぬ者が思念の赴くまま術を使えば、光は欠け、水は腐り、大地は枯れ、雷が荒れ狂い、山や草木は燃やされ、人々は凍え、大風が吹きすさび、全ての命が尽く。だからよき者として選ばれし術者が、我が血を引く能力のあるよき者を選んで術を授く。このことわりを、術者たちは連綿と続けてきたのである。野心のある者が術者となっただけでも由々ゆゆしきことであるのに、その者が自儘じままに導きを行い、私的な思惑で術者を増やせば、どうなるか。術者がその巨大な力を背景に人々を支配するだけではない、やがて術者同士が相争い、世界は恐怖し、破局へと向かうだろう。

 術者の家系では、それを「滅びの鐘」と呼んで、末代まで忌避すべきとされていた。

 それゆえ、心にほんのわずかでもけがれのある者に術者の導きを行うことは絶対の禁忌だったのである。

「私はあなたを信じて、導きを行いました。しかしあなたは私を裏切って、術を天からの恩恵としてたっとぶではなく、自分の道具として利用しようとしています」

「そう極端に考えることはない。恐れることもない。古来より、人は神より力を授かってはそれを己のものとしてぎょしてきた。やわか、この術だけが人に御しえないものか」

「あなたは術の力を誤解なさっています。術者の思念は途方もなく強力で、まさに世界を破滅させるに足るのです。それを知らず、御しえるとおっしゃるのは小人の過信なのです」

「私には御しえる。ここにいるバルにも御しえるだろう。お前やお前の家系は、人は弱く愚かだと思っている。確かにそうかもしれないが、強い意志を持つ者もいる。賢者もいれば、高潔な者もいる。過ちを犯すこともあるが、いずれ人は力を正しく扱えるようになるのだ」

「しかし」

「もういい」

 と、セトゥゲルはうつむき、嘆息した。このまま議論を続けても、彼らはついに妥協点を見出しえぬであろう。既に新たな術者は誕生している。今更、エルスの未練がましい恨み言や愚にもつかぬおとぎ話に付き合っていても、無駄というものである。

「お前は私を信じて、術者へと導いた。これからも私を信じ、慕って、ついてくればよい。お前とともに生きていきたいと言ったのはまぎれもない本心だ。だから、今は何も言うな」

 エルスは口をつぐんだ。

 セトゥゲルはそれを、自分に対して従順であるためだと理解した。どう状況が変化しようとも、最後の選択においては、二人を結んだ情愛を守るであろうと考えた。

 それから三日三晩、エルスは部屋にこもり、飲食をった。心配した兵どもから報告を受けるたび、セトゥゲルは彼女の無言の弾劾を受けているようで、不快であった。

 彼はその弾劾を無視し、さらに二人の部下を導いた。その気配は、同じ要塞にいるエルスには伝わっているに違いない。

 その千々ちぢに乱れているであろう心情に思いを馳せると、セトゥゲルは沈鬱な気分になるが、一方で彼女の言説は杞憂きゆうに過ぎないと充分以上の自信をもって考えてもいた。この救いようのない傲慢さが、エルスの最も危惧するところであることを、この男は想像だにもしていない。

 3日目の晩が明け、エルスはひそかにセトゥゲルの部屋を訪ねた。

 別人のように痩せ、生気を失った彼女の様子に、セトゥゲルはさすがに声を失った。

 絶望と孤独のなかで一人泣き続けていたのか、目の下の皮膚が病人のように荒れ、黒ずんでいる。

 天女が舞い下りたような情愛の深い微笑、汗に濡れ性の悦びに震える絹のような肌、透き通るように純粋無垢な瞳、セトゥゲルの知る彼女の姿は今や面影さえうかがうのも難しいほどである。

「エルス、無事か」

 かけてやる言葉が見つからず、絶句しかけて、それだけを言った。

 水も断っているために、彼女の喉は乾き、声はかすれていた。

「セトゥゲル様、お別れを伝えにまいりました」

「別れだと、どういうことだ」

「私は姉とともに、祖父の元へ帰ります」

「待て」

「新しき術者の件を話し、全てをゆだねたいと思います」

 冷静沈着をもって知られるセトゥゲルが、この時ばかりは気の毒なほどに狼狽ろうばいした。

 当然であろう。

 詐欺師というものは、第三者の干渉を最も嫌う。彼はエルスの純真を利用し、いわば惑わせ、懐柔することによってうまうまと術者になりおおせた。そこへ彼に対してどのような情も持たない彼女の姉や祖父が介入してくれば、即座に断罪して、場合によっては殺そうとするかもしれない。

 彼に対抗できる力はない。彼も彼の腹心たちも、術者として目覚めたばかりで、まだ完全にその能力を使いこなせてはいないのだ。術者の血を濃厚に受け継いでいる彼らと戦うべくもない。できれば術者の血統などは消え去って、自分たちだけの特別な能力としたいくらいなのである。それにエルスが従ってついてくれば言うことはないが、その血族どもは彼の覇道の邪魔にしかならないであろう。

 セトゥゲルは言辞を尽くしてエルスをなだめたが、彼女は肩を落としうなだれているばかりだった。今となってはセトゥゲルを論難する気力、精神的な張りすらもないようであった。

 セトゥゲルの狼狽は次第に焦慮へと変わった。この説得が不調に終われば、彼の野心は道半ばでついえることとなる。

 だが、エルスは聞く耳を持たない。

 そして、部屋を出ようとした。

 振り返って、部屋を出ようとした。

 セトゥゲルは咄嗟とっさにその腕をつかみ、抱き寄せるようにして、エルスの左肺のあたりに深く短剣を突き立てた。

「あっ」

 と、エルスは小さくうめいて、目を丸く開いた。

 やがて、その瞳に情愛が宿り、彼女が初めて愛した男を見た。

 ひどく安らかで、穏やかな表情になった。

 その表情に、セトゥゲルはついに彼女の情愛を、その想いの深さを知り、愕然とした。

「エルス、まさかお前は」

 彼女の肺を血が満たし、口からとめどなくあふれた。

 彼女の体には、その最期のとき、愛する男と口づけを交わしたかったのか、わずかに力が入ったように思われたが、すぐにむなしくなり崩れ落ちた。

 エルスの短い生が終わり、セトゥゲルには自失の時間が与えられた。

 彼はエルスの魂の抜け殻となったその体を静かに抱き上げ、さまようような頼りない足取りで要塞の大門を出た。

 エルスが懸命に育てていた花壇のランは、全て枯れている。彼女の手で切り開かれた田畑も木々も牧場も、以前の荒野に戻っていた。術者によってもたらされた恵みは、その死とともに効果を失うものであるのか。

 大地が、寂しさにこらえかねて泣いている。

 そのようにすら思われるほどに、以前は活き活きと感じられた豊かさというものが、この渺々びょうびょうたる天地のどこにもない。

 セトゥゲルはしばらく歩き、土を掘って、まだぬくもりのある彼の愛人を安置した。

 そして埋めようとした瞬間、咳き込むように声が出て、慟哭どうこくした。

 彼が生きている限り、エルスほどに彼に情愛を注いでくれる者は現れないであろう。

 野心を捨て、術者として偉大な力を持つエルスを敬愛し、彼女と互いにいつくしんで、幸福のうちに静かに寿命を終える人生もあっただろう。彼女を失った今ではその、野心ではなく情愛に生きるという人生を知るよすがもない。

 要塞に戻った彼は、すぐに怜悧で自若たる野心家の顔に戻って、エルスの死を公表し、同時に哨戒を厳しくするよう警報を発した。

 死因は明らかにしなかった。要塞の兵はエルスの死に動揺している。また、もはや前線とは言えないこの基地に敵襲の脅威はないのに、警戒命令が出されたことで怯えている。そこに、エルスを殺したのが自分であると広まれば、兵らの不安や猜疑さいぎを招くおそれがある。

 さらに、腹心の三人の部下を呼び寄せて、事情を漏らし、一心不乱に術を磨くように指示した。

 彼はもはや岐路にはいない。ただひたむきに、野心に生きるという一本道だけが、彼の前に伸びている。

 たとえ術者の一族と、互いの生死と世界の命運を賭けて争うことになっても、我が取らざる道を振り返ることは許されないのであった。

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