- IV -
沈黙が数分は続いた。ピアノの音が静まってもなお、彼女の視線はずっと僕の左後ろを見つめ続けているのを感じる。…僕の奏でる曲はもうここで終わっている。これ以上先はない。この先を演奏する気も全くない。明るく色鮮やかな世界を目指しているのに漆黒の世界からも抜け出せていない現実。僕の自己理解は未だにその程度だったということだ。思考を極限まで張り巡らし、本を多く読み、思いつく場所は抜かりなく訪れた。それでも天使のような、あの彼女の演奏には到底届かない。彼女はどこまでこの世界のことを知っているのだろうか。大空・海・山・川・大地・自然・動植物・人間…それらが持つ、数多くの美醜を表現することなど彼女には容易いことなのであろう。重ねてきている智の層が僕なんかよりも遥かに分厚い。
「あなたはまだ『自分の音』を完全に見つけきれていないようですね。美しい世界への入り口を目指しているけれども、黒く苦しい世界から抜け出せずに足掻き、もがいている。奏でている音からもその焦燥感を感じます。・・・でもそれが『生けるものにしか出せない美しい音』でもあるのですよ。悩み・苦しみ・喜び・怒り・悲しみ。それらを味わっているからこそ作り出せる音。たとえ今『自分の音』が未完成だったとしても、その先の曲はこれから自身の手で様々な形へと創造していくことができる。…私はぜひ触れてみたいと思いました。『完成したあなたの作品を』」
嬉しかった。彼女がこんな僕に興味を持ってくれていた事実が何より嬉しかった。
僕は急ぎ過ぎていた。『自分の音』が、答えが何もないのに目の前の淑女に縋ろうと傲慢だった。結局、まともに一曲を弾ききることさえもできない。実に愚かだ。
おそらく彼女もそれを見透かしていたはず。敢えて沈黙を貫き、立ち止まった僕がどういう手に出るか見たかったのだと思う。あの場面でもし僕が無理にでも『偽りの音』を奏でていたらどうなっていたのだろうか。それでも彼女は同じことを言うのだろうか…いや、そんな選択は僕自身は絶対にしない。そういう確証が既に彼女の中にあったというケースもある。
一つ一つ丁寧に答えを見つけていこう。いきなり実体を求めようとせずに、複数ある点をいくつも見つけ、そこから線を描いていく。線と線を結べば自然と形は見えてくるはずだ。
また再び彼女とこの機会を作れる保証はどこにもない。けれども、僕が『自分の音』を見つけ出して作品を完成させたその時には、真っ先に彼女に聴いてもらいたい。自分が分からず、体たらくでいた今の僕とは違う『天宮拓海としての音』を創り上げて、その一曲を自信を持って表現できる僕を。
今はまだ漆黒の世界に囚われていても、いつか…いや、必ず辿り着いて見せる。命が輝き踊る、色鮮やかな世界へと。
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