彼の消えた星の降る夜

 二一二四年十月十七日、今宵夜空は雲一つない素敵な日だと天気予報士が言っていた。風がビュウッと私の脇を通り過ぎて、秋の冷たさに背筋が少しだけ震える。人肌が恋しくなる季節だ。


 まだ天体観測をするには早すぎる。太陽も沈み掛けの、静まりゆく夕暮れ。私は片手に持った小さな望遠鏡を空へと向ける。探すのは、宵の明星。


 今から四十年ほど前、宇宙開発機構の発展により、人類は火星並びに金星への移住に成功する。私達人類は、一部の開拓民を派遣した。選ばれた労働者は赤紙が送られ、半ば強制的に近くの惑星へと送致されることとなっている。


 人が地球から火星へ向かう場合、かかる日数は二五〇日。それより僅かに近い近世に派遣されたとしても、片道二〇〇日はかかる。それまでの間、乗組員は物資を浪費しないようにコールドスリープの状態で送られるそうだ。


 今から五年前、私の彼氏にも赤紙が来た。彼は普段土木勤務をしていて、もうすぐ職人として認められそうだと喜んでいる矢先だった。


 あの日のことは忘れられない。


「ごめん美湖みこ、俺行かなきゃならなくなった」


 彼が右手に握りしめた、クシャクシャの赤紙。それを見て私は口から心臓が飛び出でるかと思った。


 全人口の内、宇宙開発に割り当てられるのは十万人に一人の割合だ。世界人口一三〇億人の地球から、火星に七万人、金星に六万人程度しか出ていない。そんな低い確率を、彼は当ててしまった。


「どうして、どうしてあなたのよ」


 私と彼は、近いうちに結婚することも視野に入れていた。結婚指輪は何にしようかなんて二人でジュエリーショップまで何度も足を運んだものだ。


 お互いの両親にも挨拶は済ませていた。もう、人生の新しいステップへ進むつもりだった。それなのに。


「どうして大地だいちさんが行かなきゃならないの。そんなの断ってよ」


「無茶言うなよ。日本どころか、世界まで敵に回すことになるんだぞ」


 そんなことは分かっている。かろうじて回避した第三次世界大戦の後、人類は存亡の危機を感じ取り結託する道を選んだ。国際連合は解体され、国際国家が形成。かつて戦争しようと武器開発に乗り出していたいくつかの国が中心になり、新たな政治体制が作られたのだ。


 その結果、日本を含むほとんどの国が自治権を持った州として扱われ、世界を統治する世界憲法が真の意味で人類共通の法となった。


 つまり彼は、日本政府によって徴収された作業員という肩書きでは無い。地球の代表として選ばれた存在になったわけだ。断れるはずがない。


「でもあなた、英語話せないじゃない」


 なんて言っても、今は蝸牛に取り付けられた翻訳装置のお陰でどこの国とでもスムーズに会話が可能だ。これも、各自治国の方言である母国言語を保護するという国際憲法に基づいた規則である。私たち人類は生まれながらに、体のあちこちが機械へ置き換えられているのだ。


 その過程で、長期間のコールドスリープが実現し、高度な身体機能も発展した。宇宙開発に必要な切符は、今や誰もが持ち合わせていると言っていい。


 だから私は、安心しきっていたのだ。まさか彼氏が宇宙に駆り出されるだなんて思ってもいなかったのだ。


「君のことは愛している。俺だって行きたくないさ」


 彼の気持ちが分からない訳では無い。彼が握りしめた赤紙は一度丸めて捨てたであろう有様だし、よく見ればシミが着いていた。きっと涙していつ切り出すべきか考えてくれていたのだろう。


 それでも私は納得できなかった。


 納得したくなかった。


「すまない、もっと早く美湖に伝えれたら良かったのに。本当に申し訳ない」


 彼はそう言うと、急に立ち上がった。


「ちょっと、どこ行くのよ」


 私が慌てて止めるも、彼は私の手を乱暴に振りほどいて言うのだ。


「明日、俺は地球を出ることになっている。もう決まったことなんだ。美湖にそんなこと言ったら、二人で逃げようなんて言い出すと思ってさ。だから言えなかったんだ。でも、俺の任期はたった五年だ。すぐに帰ってくるから。だから待っててくれよ」


 私はその時何と言って彼を止めただろうか。散々酷いことを言った気もする。行かないでと狂ったように泣き叫んだ気もする。過呼吸になって、耳の奥がツーンと痛くなって、鼻水で目が霞んだ、そんな気がする。


 それでも彼は、私の静止を振り切って玄関を閉めてしまった。


 必ず帰るから、そんな言葉を残して。


 それから私は、結局彼のことを追うように、毎日欠かさず望遠鏡で空を眺めているのだ。


 宵の明星、彼が飛び立って言った、金星を探して。


 彼は向こうでどんな仕事をしているのだろうか。やっぱり土木作業がメインなのだろうか。彼は昔から力持ちだったから、きっと重宝されていることだろう。アンドロイドメンテナンスも行き届かず、人工知能の助けも得られない未開拓の惑星では、結局肉体が重視される。英語が喋れなくとも、彼の筋肉がきっと、向こうでの生活を守ってくれることだろう。


 もし彼が帰ってきたら、なんの話しをしたらいいだろうか。私は彼がいない間、彼と生活する空間を作るのに精を出した。あんなに毎日駄々を捏ねながら出社していた会社でも、今は役職が上がって給与も良い。彼と一緒に暮らしていたアパートも引越しして、今はローンを立てて一軒家暮らしだ。


 彼は私に「たった五年」と言った。何がたった五年よ。五年も待たせておいて、本当に許せない。


 そう思いつつも、金星の輝きはいつも美しかった。


 しばらく眺めていた金星だったが、少しずつ時が経つにつれて水平線の彼方へと沈んで行ってしまった。


 寂しさを胸に、空を見上げる。今日も星が綺麗だ。


 ふと、私は思い出したようにラジオをつけた。


 エルメスイビュラというジャズバンドが、最近流行りのポップスをジャズアレンジした音楽が流れてくる。私はいつもこの時間になると、エルメスイビュラを流してくれるこのニュース番組を聞くのが好きだった。


「こんばんは、今夜のニュースです」


 曲の終わりと共に、男性アナウンサーが落ち着いた声で言葉を発する。


「金星開拓第一七六号団が地球帰路に経って、本日で二〇四日となりました。予定到着日を過ぎたものの、以前信号には問題なく――」


「早く帰ってこいよ、バカ」


 彼氏の乗った宇宙船が、もうすぐ地球に帰ってくる。でも、予定日を四日も過ぎている。宇宙旅客機は磁場嵐の影響で数日ほど到着が前後するのは当たり前だった。だが、それを理由に遅くなっていいわけが無い。


「私は待ってばっかりなんだぞ」


 望遠鏡を片付けて、もう一度空を見上げる。相も変わらず雲一つない星空が、キラリと瞬いた。


「――ここで緊急ニュースが入りました」


 突然、ニュースキャスターの声色が変わる。不協和音の警告アラームが数度鳴って、それからアナウンサーは読み上げを再開した。


「金星開拓第一七六号団から届いていた信号が、救難信号であることが分かりました。これに対し、宇宙開発局は磁場嵐の影響で信号受諾にタイムラグがあったと説明しており――」


 私は一瞬にして心が張り裂けそうになった。どうして? 必ず帰ってくるって言ったのに?


「信号を受信できた理由は、恐らく大気圏内に宇宙船が突入したからだとのことです」


 ……大気圏内に突入? ということは、無事に地球へ帰ってくるということだろうか。それなら安心だ。何か問題が起きたようだが、地球には帰ってこれた。彼はちゃんと、私の元へ帰ってきてくれたのだ。


 私は理解の追いつかないまま、空を見上げた。


 一つ、大きな流れ星が、ゆっくり時間をかけて、水平線の彼方へと沈んで行くのを見届けながら。

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