第32話 ひどい人間

僕はひどい人間だ。

 アンジェリカから逃げてもいいと言われて。彼女が溶岩に立ち向かっていくのを見て。

 情けなく思うよりも、赤髪の少女のことを心配するよりも。

 安心していた。

 これでほぼ死ぬと分かっていながら戦わないで済む。

 クリスティーナと一緒に逃げられる。

 そう感じただけで胸に暖かいものを感じていた。

「ヴォルト?」

 許嫁に不思議そうにそう言われたので、どうしたんだろう、と思ったけど。

 理由はすぐに分かった。意に反して足が動いていない。いつの間にか抜いていた杖を、クリスティーナを掴んでいないもう片方の手で持っていた。

 段々と遠ざかっていく人々の悲鳴を聞きながら、慰霊碑が目に入る。

 この蒼き山から人々を守るために命を落とした、英雄と言われる人たち。

 ここまでやってきても、使えるようにならないのなら。僕はどうせ一生、最上位魔法は使えるようにならないだろう。一生、うだつが上がらないままだろう。

 ここで生き残っても、人々を見捨てたとあざ笑われるネタを一つ増やして、生き恥を晒すだけだろう。

 嘲笑され、見下され、虚仮にされるだけの人生が待っている。

 それならせめて英雄になりたい。僕をあざ笑った同級生を、殴って蹴って罵倒した父親を、見返してやりたい。

 人はいずれ死ぬのなら。ここで死んで英雄になるのも悪くない。

 でも。

 クリスティーナを道連れにするのは、いやだ。

 いや。英雄の未亡人、という位置づけになれば。彼女への周囲の接し方も、少しは変わるのだろうか。

 ごちゃごちゃして考えのまとまらない中、僕はたった一人の婚約者を見つめる。

 僕と目が合うと、水色の瞳に僕だけを映していた。風に舞う砂ぼこりに目を閉じることも、瞬きすらもせず僕を見つめていた。

 彼女は余韻を楽しむように、見つめ合った後でゆっくりと首を縦に振る。

「死ぬときは、一緒」 

 腰からミズナラの杖を引き抜いた。



 僕とクリスティーナも隊列に加わった。この場に残ったのは、百名程度。

 長い歴史の中で、最上位魔法がなくとも人間は蒼き山の、蒼き海の災厄に立ち向かってきた。

 実際、魔法の使い手が力を結集させればなんとか止められるらしい。そしてその果てに待つのはわずかな生き残りと大多数の、死者という名の英雄。

 この場にいる多くの使い手が、慰霊碑に新たな名を刻むのだろう。

 悲壮な顔をした人たちの列に加わることで、さらに恐怖が増した。噴き出した溶岩が山を下り、涼やかな風に熱気が混じり始める。

「無理すんな、若いの」

「あんたはここの人間じゃない」

 隊列に加わった上位魔法の使い手の優しげな声。彼らからそう言われるたびに心が揺れる。目に涙が滲んできて、袖で強引にぬぐい取った。

「君だけでも逃げていい」

 僕はクリスティーナに何度もそういうのだけれど、そのたびに彼女はなぜか笑顔を浮かべて首を横に振る。

 溶岩はさらに山を下り、僕たちが馬車を降りた高さまで近づいていた。

 大気に混じる熱が徐々に増えていき、涼風と熱風が交互に吹きつけてくる。ちらと、山の切れ目から喪服を着て下山していく人たちが見えた。

 付き添いの魔法使いたちが土魔法で地面をならし、風魔法で追い風を起こし歩くスピードを上げた。

 火魔法や水魔法の使い手は、列の最後尾で蒼き山を睨むように杖を構えていた。溶岩と共に降ってくる噴石に備えているのだろう。

 逃げられるといいな。ただ純粋に、それだけを願う。

 徒歩で溶岩から逃げるのは、ほぼ不可能だから。



 馬のいななきが数頭、響いた。

 そのうちの一頭にアルバートが乗馬し、さらに馬車を引いていた馬を引き連れて溶岩から逃げるようにして坂を下ってくる。イケメンの表情は恐怖に彩られ、普段の凛々しさは見る影もない。

 馬から飛び降りるようにして下馬すると、まずはアデラ様をまたがらせ、一頭に括り付けた。

「窮屈でしょうが、やむをえません、アデラ叔母様」

 だがアデラ様は口元を血で汚しながらも馬から下りようとした。

「バカな! なにをやっているのです!」

「私を、下ろして…… 代わりに、領民を乗せて。領民と領地を守るのが、私の仕事だから」

 彼女は呼吸をするたびに、血混じりの痰を吐く。 

「いい加減にしてください!」

 アルバートが足をせわしなく動かしながら、一喝する。その迫力にアデラ様も、隊列に加わっていた人やシスターたちも肩を震わせた。

「最上位魔法を使えるのは叔母様しかいないのですよ? 次の噴火が起きるまでに、病気を治していただかねばもっと大きな犠牲が出ます」

「真っ先に助けるべき命、というものはあるのです。それが現実です」

 アルバートが拳を握りしめながら、声を絞り出す。

「行ってください」

 隊列に加わっていたアールディス家の使用人の一人が、そう断言した。

「なーに、死にゃしませんよ。戻ったらとっておきのワインを開けましょう」

「病み上がりにワインは酷だぜ」

 どっと、笑いが巻き起こる。さっきまでの悲壮な空気が、嘘のように晴れた。

 僕が今までの人生で見てきた中で、一番の笑顔で、一番悲しい笑いだった。

 アデラ様はもう、喪服に身を包んだ明るい雰囲気の人たちの方を振り返らない。

 溶岩はもう、すぐそこだ。

 乗馬の試験で一番のアルバートが、馬のあぶみに足をかけそこないながらも背中にまたがり、大声で言った。

「姉さん! それにクリスティーナさんも、馬に乗って! もう二人くらいなら乗れる」

 アンジェリカは目を見開き、同じ髪の色の弟を睨みつける。

「アルバート…… あなた、何を言っていますの? わたくしに貴族の義務を放棄しろ、そう言うのですか」

「姉さんは公爵家の令嬢で上位魔法の使い手じゃないか! こんなところで死なせるわけにはいかない! クリスティーナさんもその若さで才気に溢れている、死なせたくない。姉さんたちだって、真っ先に助けるべき命だ」

 アルバートはそう言いながら、すぐ隣にいる僕やカーラには見向きもしていない。

 僕の存在などガン無視で、アルバートは僕の許嫁に手を差し出す。童話で見た、お姫様を救いに来た白馬の王子様のようだ。

 僕はさしずめ、お姫様の隣であたふたする小人の役か。

だがお姫様は差し出された手を振り払い、代わりに小人の腕を掴んだ。

「ヴォルトと一緒が、いい」

 その声は溶岩の熱とは対照的に、あまりにも落ち着いていた。

「な、なぜ…… 死ぬかもしれないんだよ?」

「ヴォルトが残るから。私はヴォルトの許嫁だから」

 指同士を絡めてくる。こんな時だというのに指から幸せが伝わってくる気がした。

「彼の隣が私の場所。死ぬときは一緒」

 その言葉と、潤んだ瞳に。胸が高鳴った。

 好きだと言われたことはない。でもこんなにも僕を思ってくれている。甘い言葉が、なめらかな指先の感触が、僕の胸をくすぐる。

 いつも人生を諦めたかのような目が、珍しく熱を帯びていた。

「若いってのはいいねえ」

「母ちゃんと結婚したての頃を、思い出すわ」

「アルバート坊ちゃん、人の恋路に口をはさむと馬に蹴られますぜ?」

 後わずかで命がかかった状況になるというのに、笑い声が場に満ちた。

 いや、こんな時だからか。よく見ると顔と声が笑っていても目がひきつっている人も多い。緊張でおかしくなりそうだから、逆に笑いが必要なのか。

「せめて、姉さんは馬に!」

 笑い声を断ち切った悲痛なアルバートの声。だがアンジェリカは弟の手を取るどころか、蔑むように口の端を歪めた。

「悪いけど、逃げるならあなた一人でお逃げなさい」

 アンジェリカの歪んだ口から、ぞっとするような冷たい響きの言葉。

「な、何を言って……」

「その言葉を、カーラさんやヴォルトさんになぜ言いませんの?」

「そ、それは…… そう、カーラ君はクリスティーナさんを襲ったかもしれないじゃないか! ヴォルト君は許嫁を守れなかった、無力な存在だ」

「学友の前で、この数日間寝食を共にしてきた人たちの前で、そんなことを言える人は。公爵どころか、貴族でさえありませんわ」

「死んだら終わりじゃないか!」

「わたくしが死んでも、あなたが死んでも代わりはいますわ。弟にでも妹にでも家を継がせればいい。でも命を懸けている人たちを見捨てたなど、アールディス家には拭い去れない汚名をつけることになりますわ」

「それが、姉さんの答えか。でも僕はアデラ叔母様を助ける!」

「確かにアデラ叔母様だけは代わりがいませんわ。でも偽善ほど、醜いものはありませんのよ」

「な、何を言って……」

 アンジェリカは弟の動揺を鼻で笑った。彼女のこんな下品な仕草を見るのは初めてだ。

「あなた、自分が真っ先に助かりたいだけでしょうに。馬に乗ってアデラ様を連れて逃げれば、誰よりも早くこの場から離れられる。アデラ叔母様を逃がす役目など、他の誰かに代わってもらえばいかがかしら?」

 口論している間にも、溶岩が更に近づいてくる。上位魔法の射程まで、もうすぐだ。

 アルバートは言い返さず、溶岩に背を向けて真っ先に駆け下りた。たちまちのうちに歩いて避難する人たちを追い越し、姿が見えなくなっていく。

 

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