シュレディンガー先輩 中編

 今日は珍しく、先輩はやって来なかった。俺は小暮の昼飯の誘いを断り、屋上への階段を登った。

 屋上に続く扉に、鍵はかかっていなかった。

「猫柳先輩〜?」

「やぁやぁ山嵐くん! 待っていたよ〜!」

 猫柳先輩は屋上の真ん中で、竹の筒を三脚の上に乗せようとしていた。

「……えっと?」

「流しそうめんだよ」

 猫柳先輩は俺の聞きたい事を察したのか、先んじて回答した。

「いや、そうじゃなくて」

「う〜ん? 今、食べたかったから?」

 また、猫柳先輩は問いより先に回答を出した。なぜかその行為にむっとしてしまった自分がいた。その微かな憤りは、どこから。どうして。やってきたのだろうか。

 その疑問は、竹筒の上を流れる水の音に流されていった。

「ほらほら、山嵐くん。早く食べないと全部流れていっちゃうよ〜」

 地面に置いてあった高級料亭の名前が書かれている割り箸袋から割り箸を取り出し、流れてくる素麺を掬い上げた。そこで俺は、自分の犯した過ちに気がついた。

「猫柳先輩、はめましたね」

「ふふふ。なんのことやら」

「麺つゆも無しに食べろと?」

 猫柳先輩は流しそうめんの源流で、上機嫌そうに俺を撮っていた。しかしすぐに麺つゆの入ったお椀を取り出し、俺に差し出してきた。

「仲良く食べよ?」

「え……」

「僕とは嫌かい?」

「嫌じゃないですけど……」

 俺は素直にお椀を受け取り、素麺を潜らせる。冷たい素麺が喉を通り過ぎ、胃の中に収まる。

 猫柳先輩も、俺の隣で素麺を食べる。ちゅるちゅると素麺を食べる姿は、小動物のように愛らしい。

「やっぱり寒いね」

「そりゃこんな所で流しそうめんが許される季節なんて、真夏くらいですから」

「少しだけ目、閉じて?」

 猫柳先輩の指示通り、俺は目を瞑る。すると猫柳先輩がすぐに肩を叩いたので、目を開けた。

 目の前に流しそうめんを流すレールなどは跡形もなく、代わりにキャンプで使うような椅子が二脚置いてあった。

「最近さ、この力がどんどん強くなってるんだ」

 俺は瞬きをする。瞬きの一瞬でその椅子は消え去り、代わりに教室で使っている机が現れた。

「それに比例するみたいに自分自身の姿がどんどんぼやけるような気がして、さ」

 猫柳先輩はその場に座り込む。俺も隣にしゃがみ込み、震える猫柳先輩の肩に手を置いた。

「僕、これからどうなるんだろう」

「……」

 俺はただ無言で、猫柳先輩のそばにいた。でも、ここで声をかけなければ猫柳先輩が本当に消えてしまいそうな気がして。

「俺が、隣にいますよ」

 つい、そう言った。

 猫柳先輩は顔を勢いよく上げ、俺の手を掴んだ。

「本当に……?」

 俺は猫柳先輩の目に気圧され、尻餅をついた。その目は肉食獣が獲物を見るような目で、俺は到底感じた事のない威圧感を全身でビリビリと感じた。

 猫柳先輩は掴んだままの俺の手を、自分の胸に押し当てた。

 柔らかい。心臓の音がする。しかし硬い。俺と同じくらいだろうか。女性の胸など触ったことはない。しかし、これは。不明確。不明瞭。まるで空気に触れているようで。まるで人の肌ではないようで。

 されど。人の証明であるかのように心臓は動いていた。

 それはまるで何重ものカモフラージュを被せられた真実のように、虚構のように、不確かだった。

 シュレディンガーの猫。そんな言葉が脳裏をよぎった。

「う」

 俺は猫柳先輩を突き放す。そしてその場を離れ、屋上の隅で吐いた。

 何がトリガーだったのか。いや、分かりきっている。心臓。猫柳先輩と接している時、俺は人と接している感じがしなかった。だから今まで平気だった。だが、心臓の音を聞いた。鼓動を感じた。脈を触った。それら全てが、俺の中の猫柳先輩の存在を確立してしまった。人間であると認めてしまった。


 俺は顔を上げた。猫柳先輩の悲しそうな顔が見える。

「ごめんね、残酷なことして」

「違う、違う!」

「山嵐くん、一年の頃覚えてる?」

 猫柳先輩は屋上のフェンスにもたれかかりながら聞いてくる。俺は、首を振った。

「君が入学したての頃、不良の一年生達に僕が絡まれてたの。助けてくれたよね」

 身に覚えがない。

「空き教室に無理やり連れ込まれた僕を、助けてくれた。それが嬉しかった」

 猫柳先輩は涙を流す。

「いつも存在が曖昧だった僕は、誰からも助けてもらえなかった。誰かと時間は共有できても、それを正しく覚えておける人はいなかった。でも! でも山嵐くんだけは、僕を助けて、僕を正しく覚えてくれていた」

 俺が瞬きをする。その瞬間、猫柳先輩の背後のフェンスが消える。

「好きだった。こんな僕が。化け物の僕が君に恋するなんて。無茶だったんだ」


「僕のおふざけに付き合ってくれてありがとう。嬉しかったよ、バイバイ」


 猫柳先輩はそう言って、屋上から身を投げた。俺は慌てて走り出し、猫柳先輩が落ちた場所から下を見た。しかしそこには、誰もいなかった。ただ、背中を嫌な汗だけが流れ落ちた。




 午後の授業が終わり、なんの変哲もない放課後がやってきた。

 俺は下駄箱で猫柳先輩を待っていたが、いつまで経っても猫柳先輩はやって来なかった。

「よ、こんな時間まで待ってるとか珍しいな」

「小暮……」

 学生鞄を肩に引っ掛けながら、小暮が俺の肩を軽く叩く。

「何してたんだ? ちなみに俺は生徒会活動だ」

「……猫柳先輩と喧嘩してしまったんだ」

 小暮は難しそうな顔をした。そうだとも、こんな個人のいざこざに無関係の人間を巻き込むわけにはいかない。

「猫柳先輩? ……先輩って言うからには三年生か?」

「……分からない」

 分からない。俺は、猫柳先輩の事を知らなかった。どこに住んでるのか、学年、クラス、出席番号、誕生日、性別、部活。何もかも。

「どんな人だ?」

「……不思議な人だよ。っていうかお前も面識あるだろ」

「いいや、無い。俺は人の名前と顔は忘れない。生徒会をやるにあたって全校生徒の顔と名前も覚えたが、そんな名前の人物知らない」

「……今朝も会っただろ?」

「いいや?」

 小暮は至極真面目な顔でそう答えた。

「……去年の体育祭、二年男子リレーのアンカーは誰が務めた?」

「青田、栗原、城ヶ崎、峯田……あれ?」

「今年の春休み明けテスト、学校内で唯一満点を取ったのは誰だ」

「……満点者はいたな、だけど……誰だ?」

「マジかよ……」

 俺はその場にうずくまった。

 ひどくなっている。記憶の欠落ならば、代わりの記憶が埋め込まれるはずだ。人体はそうできている。しかし、そうではない。

 今起きているのは認識阻害。正しく認識できていない。

「……その猫柳って人はどんな容姿だった」

「猫柳先輩は            」

 記憶がぼやける。

 確かに人の形はある。だが、全て朧げ。定まらない。言葉が出ない。思い出そうとすればするほど、猫柳先輩の姿が分からなくなる。

「……?」

「お、おい泣くなよ!」

 小暮はポケットからハンカチを取り出し、俺に手渡す。

 記憶の中から猫柳先輩という形だけが、ボロボロと崩れ去っていく。名前も、どんな人かも覚えている。でも、姿形。在り方だけが消え去った。

 俺も、すぐに小暮みたいに猫柳先輩の名前も、存在も、忘れてしまうのだろうか。そう思うと、震えが止まらない。

「一旦作戦会議だ、場所を変えよう。立てるか?」

 小暮に支えられながら、俺は立ち上がった。




 結論から言うと、いい案は出なかった。

 俺は泣き疲れて真っ赤に腫れた目のまま、翌日学校に来た。

 午前の授業が終わるとすぐに教室を駆け出した。階段を登り、登り、屋上へと続く扉の前までやってくる。

 扉には古い南京錠がかかっており、数年は開けられていないようだった。

 ガチャガチャと南京錠を乱暴に扱うが、外れも、壊れもしなかった。

「おい山嵐、これ使うか?」

 階段を登ってきた小暮の手には、バールが握られていた。

「用務員さんに無理言って貸してもらった」

「……悪い」

 小暮からひったくるようにバールを受け取り、南京錠に振りかざす。南京錠は簡単に壊れ、俺は屋上に転がり出た。

 そこには、転落防止用のフェンスが張ってあるだけの、普遍的で、よくある、ありきたりな、ただの学校の屋上だった。


 特別な物など何も無い。特別な者など何も(居)ない。


 俺は、観測してしまった。

 誰も居ない事を。

「お、おい。本当に大丈夫か?」

「……小暮、猫柳先輩って、存在したのか?」

 全て、全て俺の作り出した妄想だとしたら。

 小暮以外に人との関わりがない俺が、寂しさから作り出した幻想だとしたら。

「なあ小暮。俺は昨日まで、どこで昼飯を食べていた?」

「教室で、俺と一緒に」

 俺は頭を抱えて座り込んだ。記憶にない事を答えられたからではない。

 記憶にある事を答えられたからだ。

 俺は昨日、確かに小暮と教室でお昼ご飯を食べた記憶がある。

 しかし、しかしだ。ぼんやりとした輪郭の存在と、屋上で流しそうめんをした記憶もある。

 流しそうめん。

「そんな、非現実的な事……あるはずない?」

 非現実すぎる。どうやって素麺を流す竹筒を運んだ。水はどこから。風が強くて素麺など飛んでいく。

 俺の記憶は、あまりにも現実離れしていた。

「現実じゃ、なかったのかもな」

 俺はもう一度屋上を見る。フェンスが一部途切れた場所がある。俺は吸い込まれるようにそこに向かった。

 そこは、昨日猫柳先輩が最後に消えた場所だ。

「なぁ、山嵐。もう戻ろう」

「……」

 俺はその場に座り込み、地面を見た。遥か下方に茶色い地面が広がっている。場所的には校舎裏だろう。

 そこから、俺を見上げる人物が見えた。

 俺の隣から、小暮も地面を見る。

「あれ……お前か?」

 紛れもなく、そこに立っていたのは俺だった。

 昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。俺はそれを合図に弾かれるように走り出した。

「小暮! 午後の授業サボる!」

「え、おい! ……分かった!」

 小暮の言葉を背中に受けて、俺は階段を駆け降りた。小さな希望と、胸の高鳴りを感じながら。

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