第675話 side:ミリア

「な、何をやっているんだ、あの人は? 安易に触れていい像ではないと聞いていたのだが……」


 メルティアさんが『ルミラの天使像』の頭部に乗っている人物を見上げ、不安げにそう漏らした。


「ふざけるな、降りろ!」

「ルミラ様の像を足蹴にするなど、何様のつもりだ!」

「僧兵にあの女を捕えさせろ!」


 怒った人達が、彫像を見上げて罵詈雑言を浴びせている。

 やはり何かの祭事というわけでもなさそうだ。


「みんな殺気立ってる……。何のつもりか知らんが、のこのこ降りてきても撲殺されかねないぞ」


 メルティアさんが苦い表情でそう口にした。


「で、でも、メルティアさん、誰にも気付かれずにあの巨大な彫像の頭の上まで登ったって……あの人、普通の人じゃありませんよ。名のある武人か、魔術師の人なのかもしれません」


「そんな人物が、何の目的で天使像を登るというんだ? 聖都のシンボルでもある『ルミラの天使像』に攀じ登るなど、聖騎士団が今は不在とは言え命知らずな真似を」


 私は天使像の頭上に立つ人物を見上げた。

 そのとき、法衣に隠れている口許が微かに動いた。


「〖ルイン〗」


 天使像の頭で、七色の光が爆ぜた。

 轟音と共に巨大な岩塊の頭部が綺麗に吹き飛んだ。


 煙が晴れたとき、天使の頭がなくなっていた。

 謎の人物は、彫像の首の上に浮かんでいる。

 背には、白い光が形を成した翼があった。


「い、今の光……王都で、見たことある……」


 あの七色の光……。

 魔王騒動の際に王城を破壊して現れた光の竜が、王都アルバンをあっという間に半壊させた魔法だ。

 忘れたくたって、忘れられるものじゃない。

 あのときの光景は目に焼き付いている。


 その場に集まっていた人達は、悲鳴を上げて天使像から逃げていった。

 私はどうするべきなのかわからず、茫然と空高くに浮かぶ謎の人物を見上げていた。


 爆風で頭部を隠していた法衣が外れ、彼女の顔が露になった。

 流れるような水色の長髪に、筋の通った高い鼻。

 整った顔立ちではあったが、彼女の顔からは一切の感情を感じられなかった。


「あんな魔術師、聞いたことない……」


 魔法の規模を見ただけで分かる。

 彼女は、私が今まで見てきたどの魔術師よりも遥かにレベルが高い。

 三メートル以上の直径を持つ岩塊を跡形もなく一瞬で消し飛ばすなんて、目前で見た光景が信じられなかった。

 こんな人間が実在するなんて、今まで噂でも耳にしたことがない。


「ど、どこかの国の魔術師が襲撃に来たんだ! リーアルム聖国は、随分無茶な外交もやっていたと言う! 恨みを買ったのだろう! リリクシーラと聖騎士団が不在の間に、先兵を送り込んできたのだ! 逃げるぞ、ミリア!」


「待ってください、メルティアさん! ぼ、冒険者が真っ先に逃げるわけにはいきません! 避難の誘導を……!」


「今の魔法の規模を見ただろう! 私達にどうにかできる次元じゃない!」


 そのとき、逃げる人達とは反対に、天使像へと向かっていくお婆さんの姿が見えた。


「な、何をしているんですか! 逃げないと……!」


 お婆さんは泣き崩れるように、地面へと倒れ込んだ。


「おお、おお……まさかとは思っていましたが、やはり間違いない……この御姿に、白き翼、虹の魔法……! 古き伝承に名を遺す、歴代最強と謳われる聖女ヨルネス様に違いない……!」


「ヨルネス……?」


 名前は聞いたことがある。

 聖女は五百年おきに、魔物の王の手から世界を守るべく、勇者と共に現れるとされている。

 今代の聖女リリクシーラや、先代の聖女ルミラのように、過去にも何人もの聖女が存在する。


 だが、ヨルネスは実在したかどうかさえ定かではない、遥か遠い過去の人物だ。

 こんなところに現れるわけがない。


「お婆さん、しっかりしてください! あの人が聖女ヨルネスなわけがありません! だったら、どうして天使像を壊さなくちゃいけないんですか!」


 私はお婆さんに駆け寄り、強引に身体を起こした。


 そのとき、謎の女性が両手を掲げた。


「〖サンクチュアリ〗」


 彼女を中心に巨大な魔法陣が展開される。

 聖都全体が青白い光に包まれた。

 いや……違う。

 聖都を囲むように、巨大な青白い光の壁が出現したのだ。


「う、嘘……」


 私は口を開けて、首を回した。

 完全に光の壁に聖都全体が囲まれている。

 彼女が行使した魔法によるものだと、信じられなかった。


 私は今、夢でも見ているのか……或いは、幻覚でも見せられているのではなかろうか。

 だって、そう考えた方がずっと辻褄が合っている。

 こんなの、常識外れの規模の魔法で説明がつく範疇を、何周も超えている。


「見なさい! やっぱりヨルネス様だったんだよ! ヨルネス様は、三十の若さで、自ら聖神様に我が身を捧げるために命を絶たれた……。でも、その魂は死なずに、聖神様の御許で天使になっていらっしゃったんだ! この世界を救済なさるために、現世に戻ってきたんだよ!」


 お婆さんが私へと興奮気味に言う。


「そんなの、有り得ない……」


 口では否定しながらも、私は彼女が過去の聖女だという、その話を信じ掛けていた。

 だって、目の前で既に信じられないことが起きているのだ。

 自分の常識の外の理が行われているとしか考えられない。

 それに、お婆さん以外にも、謎の人物をヨルネスと呼んで頭を下げている人達が何人も出始めていた。


 巨大な彫像の頭を一瞬で消し飛ばしたり、大都市である聖都リムド全体を光の壁で覆い囲んだり……。

 こんな馬鹿げた規模の魔法……確かに、大昔の聖女が天使となって帰還した、くらいのことが起きていなければ説明がつかない。


「〖悪神の霊雨〗」


 ヨルネスらしき女性が、今度は左腕を空へと掲げる。

 あっという間に空に黒い靄が広がり、聖都リムドが暗雲に覆われていく。


 明るかった街は、陽の光が遮られて影が落ちた。

 聖都の空を一瞬にして黒い雲が覆い尽くしたことに、私は既にさほど驚かなくなっていた。


「お、お婆さん、やっぱり逃げましょう」


「なぜヨルネス様から逃げなければならないんだい?」


「変ですよ! やっぱり! どう考えたって! 仮に聖女ヨルネスだったとしても、おかしいです! ほら、見てください! 逃げている人の方がずっと多いんですよ!」


「でも、逃げるって……お嬢ちゃん、どこへ逃げるつもりなんだい?」


 お婆さんが周囲へ目をやる。


「そ、それは……」


 私は言葉に詰まった。

 この聖都自体が、ヨルネスの魔法の壁に包まれているのだ。

 一体どこへ逃げられるというのか。


「で、でも、とにかく、離れないと……」


 私がお婆さんを説得しようとしたときだった。


「聖神様と今代の聖女リリクシーラの契りに従い……我が祖国に、神罰を」


 ヨルネスが祈るように指を組んだ。

 空を覆い尽くす暗雲から、聖都へと黒い雨が降り注いだ。

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