パンツはどうでもいい
オズワルド様が私に気づき動きを止めた直後、娘さんの泣き喚くような声が聞こえた。
『オズワルドさまぁ!』
呼ばれた彼はハッと外を見、すぐさま音を立てぬようにドアを閉めた。私の視界は再び暗闇になり、本能的な恐怖に思わず彼に向かって手を伸ばしかけた。けれどその瞬間、『オズワルド様! ここにいるのは分かっています!』と苛立ちを含んだ声がドア越しにはっきりと聞こえ、私は恐ろしさに身震いした。
何故。先ほどまで彼女と睦み合っていた彼がここに来たのか、修羅場なら余所でやればいい、私は何も関係ない、何も! どうか出て行って欲しい、と願いながらも私は彼に向かって闇の中を進んだ。
『オズワルドさま!』苛烈な叫びをすぐ向こうで感じたとき、指先が
『そんな年増のどこがいいの!』
そう捨て台詞を吐いて娘さんは何処かへ行ったようだった。遠くで外へ出たであろう物音があり、オズワルド様は強張らせていた体の緊張を解いた。けれど私は、囲う腕の強さや頬に走るような鼓動と熱に浮かされながら私を『年増』と称した彼女のことを思っていた。彼女の言う通りだ早く彼女の元へ返さなければ、と身を
「離して下さい、オズワルド様。娘さんを」
娘さんを、と言葉にしたとき全身を痛みが駆け巡った。血が逆流したような痛みだった。思わず先が途切れた。追いかけて、と言えなかった。
そうか私は嫌なのだ、痛みに溢した涙で彼の上衣が濡れる。
一方で、頭の片隅では激情に流されてはいけない、冷静になれと理性が叫ぶ。
けれど、彼が顔を私の肩口に埋める刺激にそれはかき消えた。「離さない」隙間を許さぬように首筋に何度も鼻先を擦りつけられ、知らずあわめいた背中を太い腕が押さえつける。
「ぁ、はなして」
ほとんど泣き声だ。本当は離して欲しくない、行って欲しくない。だからこんなに苦しいのだ。あぁ彼を好きなのだ。けれど、それでは彼は。私は。
「嫌だ。マイ、君が好きなんだ」
あぁ。
カタ、と静かにオズワルド様が窓を開けた。
私達はしばらく抱き合い、彼は力の抜けた私をベッドに運んだ。まさか、と身を縮めたけれどそれは杞憂に終わり、彼はすぐに離れた。そして部屋に月明かりと雨上がりの匂いが入り、私の熱に浮かされた気分を和らげた。それは彼にしても同じだったのかもしれない。
オズワルド様は真っ直ぐこちらへ来ると、二人で夕食をとったときと寸分違わぬ距離で私の前に跪いた。そうして力なく垂らしていた私の手を戴き口づけを落とした。
「マイ、君しか考えられない。どうか俺の伴侶になってくれ」
「オズワルド様」
彼は顔を上げたけれど、窓を背にしているので表情がよく分からない。きっと私の情けない顔はよく見えるのだろう。
「君が異なる世界から来たことを一時でも疑い、君の言葉を『馬鹿げている』と罵ったことを謝罪したい。そして君に酷い態度をとった。本当にすまなかった」
私の手に額ずく。
「君が話した、赤
「不思議な、力?」
オズワルド様はあぁ、と深く肯いた。
「君の腕を取り落として俺は君の名を叫んだ。その瞬間、狭衣が光った。そして君を助けるために俺は水に飛び込んだ。水に入ると、まるで魚になった気分だったよ。水の中でも呼吸が出来た」
私は朧気に虹色に輝く光を思い出し、あれはオズワルド様だったのかと合点がいった。そうか、狭衣が光ったのか。
「そして君に触れた途端、君の世界が見えた」
「えっ、どういうことですか!」
私の剣幕に彼は逡巡し「隣に座ってもいいか」と尋ねた。私ははい、と答えて話の続きを待った。手を離さずに彼は隣に掛ける。ぎし、と沈んだベッドに一つ鼓動が跳ねた。
「……君の庭が見えた。いや、庭と言うには小さく感じたが、背の低い木や花を君は世話していた。君の、夫君も見えた」
え、と驚いて彼を見上げた。けれど彼は背を丸めて項垂れてこちらを見ようとはしなかった。
「きっとそうだろう、君があんなにも幸せそうに笑いかけていたんだから。……俺には一度も見せてはくれない笑みだった……こことは全く違う服や生活とすぐに分かった。夫君はその、ズボンと言ったか、それを履いていたし、君は……ここの女性よりも短い
あぁ、ホースで水遣りをしている場面か、と理解した。いつのことだろう、夫が生きているときの記憶だろうか。
「……水から引き上げた君は息をしていなかった。真っ白な顔をして……息を吹き返しても熱が下がらない……また、俺は愛する人を失うのか、と何度も絶望した」
ぎゅ、と骨が砕けてしまうほどの強さが私の手を包んだ。彼はまた、と言わなかったか。もしかして。
「オズワルド様も、どなたか……亡くされたのですか」
彼は首を
だから彼は妻子を亡くした思い出から新しい縁談に踏み切れなかった、と話した。彼は健康で端正なイケオジで島の人々から慕われる
子の出産時に二人共儚くなったそうだ。ここの文明では出産で亡くなる人も多いのだろう。そう思った瞬間、私は再び血が逆流するような心地を味わった。彼が一度は結婚したと知って、女性を愛していたと知って。――同時に彼は領主なのだから、公族なのだから、これまで妻を望まれないはずがなかったろう。そしてこれからも、先ほどのように。
寝込みを襲われて彼女を傷つけないよう抵抗したんだ、と彼は破れた上衣を見下ろす。
「俺もそろそろ国内の誰かと縁づかなければとは思っていたが、もうそのつもりもなくなった」
じ、とオズワルド様は私を見ているようだった。けれど私は開いた窓の外に見える隣のコテージをぼんやり見ていた。目を合わせる勇気がなかった。
椰子が月明かりに濡れて光っていた。
私はここで生きていくのだろう。何もかも違うこの世界で。仕事も友人も出来た。きっと日本には帰れないのだ。
ただ、私はまだ誰かと一緒に生きる決意が出来ない。それがオズワルド様であっても。
彼に握られた手を見た。彼の腕を肩を、情けなく下がった眉、オリーブ色の翳った瞳。
「また、ひとりになるのが怖いの」
彼の顔が滲む。両肩を掴まれた。
「俺もだ、マイ。ひとりになるのは怖い。だがそれ以上に、俺はもう君を失うのが心の底から怖いんだ」
「……友人ではダメなのですか。その方が穏やかに共に過ごしていけると」
オズワルド様はくしゃり、と顔を歪ませた。
「君の世界では、単なる友人でも君を腕に抱く権利を得られるのか」
「……いいえ。ですが」
娘さんの笑顔がちらつく。またしても体に痛みが走って思わず身を硬くした。これは嫉妬だ。なのに友人でいたい? あぁ支離滅裂だ。「私はもう若くありません」痛い。
「違う! そんな話はしていない。マイ、俺は君に触れていたい、腕に抱きたい。街を二人で歩いたときのように横に並んで共に生きられればそれでいい」
「……君は、俺をどう思っている」と、オズワルド様は熱っぽく目を染め返事を待たず私の肩に顔を埋めた。ずるい。そんな聞き方は誘導だ。さっきまで私達は恋愛を語っているのではなかった、でも彼はその先を私に望んで私に触れる。ずるい人だ。肩が濡れる温度に、遂に私もつられて頬を濡らした。彼の背にそ、と手を回してしまった。
「私も、貴方が好きです」
続く
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