第9話 バス停
薄暗い空からは雨が降っていた。屋根のあるバス停にはベンチが1つ置いてあり、そこには特殊シートを脱いだ博士が座っている。少女を待つ博士の他には誰もいない。
――『私はどうして不安なんだろう? 今日の事故さえ防げば、全て良くなるはずなのに』
博士が過去に戻った目的は、事故を防いで顔の傷を消すことだ。それはずっと願ってきたことだったし、そうすることでしか、自分を救うことはできない。なので今、博士は自分が何をしたいのかよくわからずにいた。
――『予定は変わったけれど、事故を防ぐには彼女が乗るバスを一本遅らせるだけでいい。その前に、少し話すくらいは構わないわ』
そこに傘をさした少女がやってくる。バス停につくと、チラリと博士の顔を見て、少し離れたところに座った。
「カワイイ指輪ね」
博士が少女に唐突に話しかける。
「大切なものなの?」
指にはめた指輪を眺めていた少女は、少し驚いた様子で博士を見た。
「誕生日のプレゼントにもらったの。もちろん大切なものよ」
少し時間をおいて、少女が答える。
「バスが来るまで時間もあるし、少し話を聞いてもらってもいい?」
博士が尋ねると、少女は黙ってうなずいた。
「私は今日、遠いところから来たの。ほら、私の顔には大きな傷跡があるでしょ。この傷を消すための治療を受けに来たのよ」
少女は博士の顔をまっすぐ見つめ、静かに聞いている。
「あなたも、自分の顔にこんな傷ができたら嫌でしょ?」
少女は遠慮気味にうなずく。
「この傷が原因でとても苦労したし、つらいこともたくさんあったわ。けれど今は、治療を受けるか迷っているの」
「どうして?」
少女が博士に聞く。
「この傷を消したいとは思うの。けれどそうしたら、これまでの自分もなくなってしまう気がして。なんだか悲しい気がするの」
博士は自分の気持ちを正直に伝えた。
少女は少し考えて、博士に答える。
「私だったら治してもらうわ。顔に傷があるのはつらいと思うから。けれどお姉さんは、本当は治したくないのね」
少女の言葉に博士はハッとする。博士の体の表面を覆う透明な殻にヒビが入る。
なぜだろうか? 博士は自分の中からドロドロした黒い感情が溢れるのを感じた。
「・・そうね、こんな顔じゃ、プリンセスにはなれないものね」
博士を見上げる少女の表情から明るさが消える。
「私も子供の頃に憧れていたわ。あなたもそうなんでしょ? おとぎ話のプリンセスのような、たくさんの人に認められて、キラキラした、自分が世界の中心と思えるような生き方がしたいんでしょ? 男の子にカワイイ指輪をもらったら、勘違いもしちゃうものよ」
博士はトゲのある口調で続ける。
「私の顔を見て、自分は普通で良かったって思った? けれど、あなただってこうなるかもしれないのよ。ある日突然、自分が大切にしていたものが無くなるの。そうしたら、何かに憧れる余裕もなくなるわ。現実はとても残酷で、その中で生きていかないといけないから。私は子供みたいな夢はとっくに諦めたわ。だって私は大人だから。あなたも、早く気がつけるといいわね」
博士は、自分がどうしてこんなことを少女に言っているのか、わからない。
自分の大切な部分を否定された少女は、青ざめた表情で博士が話すのを聞いていたが、しばらくして、意を決した様子で答える。
「どうして急にいじわるを言うの? そうよ、私はプリンセスみたいになりたい。子供っぽいし、無理かもしれないけど、そうなりたいの。憧れるの。それはいけないの?」
少女が自分の大切なものを守ろうとする姿を見て、博士の胸がギュッと締め付けられる。博士を覆う透明な殻のヒビが大きくなる。
――『この子は自分のしたいことがわかっているのね。私のしたいことは何だろう? それははっきりしている。私は自分を好きになりたい。そのためには傷を消して、誰かに私の顔を見てもらわないといけない。そのためにここに来た。そう、それが正しいの』
博士は自分を落ち着かせるために、論理的に自分の考えを整理しようとした。
――『・・けれど、この傷があったら、やっぱり自分を好きになれないの? 自分を愛するためには、本当に、誰かに評価されないといけないの? 今のままの私ではいけないの?』
それは、体を覆う殻にできた亀裂から漏れてきた、博士の心の声だった。
「あなたはまだ子供だからわからないの。誰もがそんな風になれるわけじゃないのよ。顔に傷がなくても、生まれつき外見が優れていたり、お金をたくさんもっていたり、家柄が良かったり、人から認められて、選ばれるには、いろんなものが必要なの。そんな夢は見ない方がいいの。心が傷つくだけだから。少なくとも、私たちには無理なのよ」
博士は冷静に話すように努めたが、その声は震えている。
少女は博士の目をまっすぐに見つめ、泣きそうになりながら、大きな声で答えた。
「私は私のしたいようにするの! 他の人のことなんて知らない!」
博士はその時、目の前の少女は、あの日のモモに似ていると思った。少女ははっきりと自分の希望や想いを口にする。けれど今の博士には、自分の本当の願いを口にする勇気がない。大人に成長する過程で、様々な知識と経験を身に着け、自分は強くなったと思っていた。しかしこの少女を見て、博士はその過程で失ったものもあることに気がついた。
博士はこの少女を、過去の自分を、心から愛おしく思い、守りたいと思った。しかし、彼女を守るとはどういうことだろうか? それはこの顔の傷を消すことだと思っていた。しかし、本当にそうなのだろうか?
――『あなたは選ばれない女のつらさがわからない。明日からはじまる苦しみや悲しみを知らない。だからそんなことが言える。けれど、私はもう自分を否定したくない。私はどうしたらいいんだろう?』
博士は自分のすべきことがわからずうつむいた。足元にできた水たまりに、博士の顔が映っている。博士は水面に映った自分を見つめた。毎日鏡で見ていたはずなのに、自分の顔をちゃんと見るのはすごく久しぶりな気がした。
「そう、これがわたしだ」
「顔に大きな傷のあるわたし」
「つらいことがたくさんあって、生きる事をやめようとしたわたし」
「誰にも選ばれなかったわたし」
「それでも今日まで頑張って生きてきたわたし」
「本の世界や学ぶことの楽しさを見つけたわたし」
「モモが好きなわたし」
「お父さんとお母さんが好きなわたし」
「まだ彼が迎えに来てくれることを期待しているわたし」
「素敵な靴を履きたいわたし」
「今でも、プリンセスみたいになりたいわたし」
「本当は、この顔の自分を好きになりたいわたし」
博士の目から、とめどなく涙が溢れる。
「・・やっと私を見てくれたのね」
水面に映った自分が博士に話しかけた気がした。その瞬間、博士の体を覆っていた透明な殻が割れて落ちていく。
「ごめんなさい。あなたはいつも私と一緒にいたのに」
零れ落ちた涙が水面を揺らす。
いつからだろう? 他人の評価が自分の評価になっていた。他人に選ばれないといけないと思っていた。顔に傷ができてから、人に心を傷つけられることがたくさんあった。そんな他人を見返そうとして、いつのまにか自分ではなく他人の人生を生きてしまった。自分がどうしたいかよりも、他人にどう見られるかを大切にしてしまった。
――『きっと、そうだ。自分を愛するために、他人の評価など必要ないんだ。昔の私にはわかっていたのに、すっかり忘れていた。私はこの傷を消したくない。これまで生きてきた自分が好きだから。そして、傷があっても平気で生きられる自分になりたいから。つらいことがあっても、あの日のモモのように、この少女のように、前を向いて生きたい。その姿はきっと美しいから。その美しさが、私にしかわからなくても構わない』
「どうしたの? 泣いているの? 大丈夫?」
隣にいる少女が博士に話しかける。
心配そうに見つめる少女に博士は答える。
「心配してくれてありがとう。私はもう大丈夫よ。あなたのおかげで、とても大切なことを思い出したから。さっきは、いじわるを言ってごめんなさい」
博士は少女の顔を見て、優しく笑いかけた。
「あなたは何があっても大丈夫よ。プリンセスにもなれるわ。私が約束する」
少女は不思議そうに博士を見つめる。
そこへ、雨の中やってきたバスが少女の前で止まり、扉が開く。少女が振り向くと、隣にいた博士はいなくなっていた。
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