第5話

 黒い獣は赤い目に底知れぬ悪意を灯して、人間達を睨みつけている。

 その漆黒の体は血に濡れたようにぬらぬらとして、口からしたたよだれは赤黒い。

 その体から放たれる異臭は、正体を現す前よりも強くなっていた。


「……黒妖犬ブラック・シャックか!」


 セオドアが忌々し気に吐き捨てた。

 リードも杖を構えなおす。


「こいつは割に合わねえな。セオドア、お前のスケベ根性が招いたことだぜ」


「はあ!? スケベはてめえも同じだろうが! 昨日も部屋を抜け出してたろ!」


「俺は寝た男に魔物退治を押し付けるような女とは遊ばねえよ」


「魔物は偶然だろ! そこを笑い飛ばせねえからお前はモテねえんだよ!」


 セオドアは地面を蹴って黒妖犬ブラック・シャックに斬りかかった。

 魔物は横に跳んでそれを避ける。

 しかしセオドアが剣を返す方が速く、魔物の横腹を剣が掠めた。


 耳障りな叫び声をあげて地面に落ちた妖犬は、跳ね上がるようにしてすぐに体勢を戻す。浅い攻撃では傷を負わせるどころかひるませることも難しいようだ。


「ちゃんと狙え、セオドア」


「うるっせえ! 狙ったわ! お前こそさっさと呪文唱えろ!」


「もうやってるさ」


 むちを鳴らすような音が連続して響き、黒い魔物の足を見えない刃が切り裂く。

 濁った悲鳴とともに、ブラック・シャックは今度こそ地面に叩きつけられ、その場で唸り声をあげながら藻掻もがいていた。


 セオドアは感心したように口笛を鳴らしたが、リードはいぶかしむように形の良い眉を顰めていた。


「頑丈だな。足を切り落としてやるつもりだったが」


 震える四肢を踏ん張って唸り声を上げ続けていた魔犬が、急にぐうっと息を吐いて腹ばいになり、赤い目を閉じた。


「お、弱ったか?」


 セオドアが剣の先で魔物をつつこうと前へ出た。


「この馬鹿! セオドア!」


 気が付いたリードが叫ぶのと、黒い塊がカッと目を開き、思い切り跳び上がったのは同時だった。


 黒い魔犬は決して低くはないセオドアの頭を飛び越え、その後ろを狙っていた。

 その赤い邪眼の先には武器を持たない村人と、荷を積んだロバがいる。

 魔物は獣とは違う。彼らは十分に狡猾だ。


 魔妖犬の黒い爪と村人との間に、ルドルフは飛び込んだ。


 爪を受け止めた剣ごと地面に押し倒される。


「ロル!」と大人二人の声が聞こえた。


 目を閉じて剣を必死に押し返すが、ぎりぎりと押さえつけられ、じりじりと白い牙が顔に迫るのがガチガチという不快な音でわかった。

 魔物の熱い息とひどい臭気。

 血が混じったような赤黒いよだれがルドルフの頬を汚す。

 その気持ち悪さが、ルドルフを妙に冷静にさせた。


「くっ……」


 ルドルフは目を開いた。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 赤い瞳と間近で目が合った。

 俺を殺すのか。

 殺したいのか。

 ならば。


 次の瞬間、ブラック・シャックの力がわずかに緩んだ。

 その一瞬でルドルフの剣が滑るように魔物の前肢を払う。

 剣先が魔物の皮膚を裂き、黒い油のような返り血がルドルフの顔に一文字の跡をつけた。


 黒妖犬は飛び退すさり、その禍々しい巨体をひるがすと、森の中へと黒い疾風のように吸い込まれていった。


 ルドルフはずっと力を入れていたせいで痺れてしまった腕を下ろし、地面に膝をついた。手の指はすっかり固まってしまって、剣は握ったままだ。


「ロル!」


 セオドアとリードがルドルフに駆け寄る。


「大丈夫か? 悪い、油断しちまった」


「大丈夫」


 ルドルフはそう答えてから、二人に尋ねた。


「あの魔物、何で急に逃げたの?」


 セオドアとリードはどちらからともなく視線を交わらせた。

 やや不自然な沈黙の後、リードが口を開く。


「魔物の考えなんかわからねえよ。でも、あいつはな……」


 その時、遠くから遠吠えが聞こえた。


 それは高く低く、葬式の鐘のような不吉さを孕み、聞く者全てを憂鬱ゆううつにさせる魔物の呼び声だった。


 ロバが早くこの場を去りたそうに足踏みをし、その横の村人も同様であった。


「……行こうぜ。さっさとこの場所から離れよう」


 薄れていく硫黄の匂いの中、セオドアがそう言った。

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