狼の仔

相馬みずき

黒い魔犬

第1話

 すでに夕闇に沈みつつある森の中を、懸命に駆ける少年が一人。


 その恰好は旅のものであったが、お世辞にも恵まれているとは言い難い。

 膝丈のブーツも簡素な胸当ても肘当ても、彼の体格には合っておらず、明らかに余っている。

 同じく彼の胴に余る革製のハーネスに提げられた剣も――量産品の何の変哲もないロングソードではあったが――少年の体で扱うには重厚に過ぎると思われた。


 必死の形相で走る少年は何かに追われているようであったが、彼の背後に追う者はいない。

 ギイッと鳥とも獣ともつかぬ高い声がして、走る少年の頬をかすめて固い木の実が飛んだ。ギャアギャアという何十もの声が、まるで少年をあざけるように取り囲んで、森の中を移動していく。


 少年は走りながら頭上の木々を睨みつける。

 ほとんど闇に溶けつつある木々の枝を不吉に揺すって、いくつもの影が渡っていく。

 今は黒い影にしか見えぬが、もし十分に明るければ、毒々しい黄色の毛皮をまとった猿に似た姿が少年の目にも映ったはずである。


 ヨウワ、と少年が声には出さず口の中で舌だけを動かし、続いてぎっと奥歯を噛み締めた。

 彼らはすでに少年に狙いを定めている。

 ヨウワが人を喰うという話は聞かないが、それはヨウワが人を襲わないということを意味しない。


 ヨウワは魔物だ。


 戯れだろうと何だろうと、その残酷な意思が少年に向けられてしまった以上、夜の森を疲労で動けなくなるまで追い立てられ、捕まれば引き裂かれるだけだ。


 少年は走りながら樹上の影の数をざっと勘定する。


 二十、いや三十以上だろうか。

 木の多い場所では剣を十分に振るえない、一方相手にとっては地の利ならぬ樹上の利。


 とにかく少しでも広い場所へと考えるものの、すでに少年には自分の走っている方角すらわからない。


 木の上から一つの影が地面に飛び降りて、からかうように少年の隣についた。

 並走しながら、お前なぞいつでも引き倒せるぞと言わんばかりに、長細い腕をちょいちょいと少年の方へと伸ばす。その腕は骨と皮ばかりにがりがりに痩せているのに、まるで女の髪がそこにまとわりついているように黄色い毛が生えていて、少年をひどく不快にさせた。


「このっ!」


 何度目かにその気味の悪い腕が伸ばされた時、少年はとうとう我慢の限界を迎えた。


「あっち行け!」


 少年の手がロングソードの柄にかかるのを見て、ヨウワの赤い目がぐにゃりと歪む。

 わらったのだ。

 そこに宿る悪意が魔物の証だ。

 獣はわらわないが、魔物はわらう。


 猿猴えんこうの素早さをもつヨウワにとって、人間の子供の斬撃を避けることなど造作もない。

 逆に剣を抜き、振るうことで足を止めた少年は、あっという間に群れに囲まれる。

 そうなればもう逃げられず、四方八方から嬲られて最後は八つ裂きだ。


 血の予感に歓喜したヨウワは、しかし次の瞬間もんどりうって地面に顔を打ち付けていた。

 猿に似た顔にある真っ赤なくちばしから「ギャッ」と濁った悲鳴が響く。

 嘴と同じく真っ赤な目に映るのは、斬り飛ばされた腕とそこから噴き出す血潮であった。


 とたんにギャアウ、ギャアウと耳をつんざく声が夕闇の森を震わせる。


 若い仲間をやられたヨウワの群れが生意気な獲物を敵とみなした声だった。

 彼らは小さな人間を戯れに追いまわすことをやめ、今すぐその爪と嘴で引き裂くことにしたらしい。

 小さな牙のびっしり生えた赤いくちばしを大きく開き、口々に喚きたて、次々と木から飛び降りてくる。


「チクショウ! 来るな!」


 少年が剣を構えた。

 ヨウワ達は怯まず、しかし一気に飛び掛かることはせず、少年をぐるりと取り囲み、じりじりとその包囲網を縮めてくる。

 最初の仲間がやられた時点で、この少年の剣の腕がそこらの大人よりも達者であることを見抜いたのである。

 一跳びで少年に爪が届く距離まで輪を狭め、何匹もで一斉に飛び掛かるつもりだ。


 少年にも魔物の思惑はわかっていた。

 しかし、打つ手はない。

 何十もの赤い瞳が不気味に少年を取り囲む。


「来るなって!」


 普通の子供ならば震えてしまって、剣を持つどころか立っていることすら困難な状況だろうが、少年は剣の構えを崩すことなく、周囲の魔物どもを怒鳴りつけた。


 魔物ヨウワの群れの後方で一際大きく不吉な鳴き声が上がる。

 それが合図だった。

 少年を取り囲んでいたヨウワ達が一斉に輪の中心に向かって跳躍する。

 黒く鋭い爪がもう少しで少年にかかるという瞬間だった。


 突如、少年のまわりに風が吹き荒れた。

 そのとたん、今まさに少年に飛び掛かる途中であったヨウワ達の体に見えない刃で斬りつけられたかのような裂傷が生じ、血を噴きながら耳障りな声をあげて地面に倒れていく。


 輪の外にいたヨウワの群れがざわつき怯んだその時、身の毛もよだつような叫び声が響いた。

 人の声ではない。鶏の悲鳴のような音で始まった叫び声は、最後は獣の唸り声のような低い音になり、すぐに消えた。


「間に合ったみたいだな」


 呆然と佇む少年の後ろから男の声がした。

 振り返ると、杖を持ち、薄汚れたマントを羽織った若い男が立っていた。それだけなら特に珍しい風体ではない。少年が奇妙だと感じたのは、その男が頭部に幅の広い白い布を巻きつけていることだった。

 男は布の下にある切れ長の目で、ヨウワの死体に取り囲まれるようにして剣を構えている少年を見て、ふんと鼻を鳴らす。

 それから周囲の生き残りの魔物どもをぐるりと見回した。


「さて、どうすっかね。魔物退治は引き受けてねえんだ。金にならないことはしたくねえ」


「おーい」


 少年が来た方向、つまりヨウワの群れの後方から野太い声が聞こえた。


「群れの親玉はぶっ殺したぞ! リード! 追われてた奴は無事か?」


 そう言いながら、夕闇の中からぬっと大男が現れた。

 幅広の剣を無造作に右肩に担ぎ、左手で何かの塊を引きずっている。

 男がその塊を雑な動作でどさりと投げ出すと、ヨウワの群れはじりじりと後退し、キイキイとか細い声を出して散り散りに森の中へと消えていった。


「無事だよ、ほら」


 リードと呼ばれた男が投げ遣りな口調で返し、杖の先で無造作に少年を示した。


「ああん?」


 大男は少年を見る。こちらはいかにも傭兵か冒険者といった風情のいかつい男だ。赤茶けた長髪を後ろで縛っているが、髪質がこわいのだろう、てんで好き勝手な方向につんつんと飛び出している。


 男は太い眉をしかめてこれでもかと口を曲げ、かあーっと大袈裟に喉を鳴らしてしゃがみ込んだ。


「何だよ、若い女じゃねえのかよ! 助け甲斐がねえなあ!」


 はああ、と恩着せがましく溜め息をついて、男は少年を見た。


「ボウズ、お前一人か?」


 少年が黙ったまま頷くと、男は片目を細めた。


「美人の姉とはぐれたとか、そーゆーのねえの?」


「やめろ、馬鹿。ガキが困ってんだろーが。……俺達もそろそろ道に戻るぞ。ヨウワなんかより厄介な魔物が出てきたら面倒だ」


「……そうだな。おいボウズ、お前どうせ迷子だろ。どこから来たんだ」


 立ち上がりながら大男が言う。

 少年は抜いたままになっていたロングソードを鞘に収め、答える。


「俺は西に行きたいんだ」


 まだ声変わりの終わっていない声。

 少年の答えに大男は苦い顔をした。


「んん? 俺は家はどこかって聞いたんだぜ」


「家はもうない。家族もいない」


「おいおいおいおい、ちょい待てボウズ。てェことは……」


「……セオドア、お前また厄介事を引き寄せやがったな」


「俺のせいかよ!?」


 セオドアと呼ばれた大男はリードに言い返し、すぐに真面目な表情に戻り、少年を見た。


 十三、四歳だろう。

 耳は尖っていないし、長い髭もないのだから、エルフやドワーフではない。人間の少年だ。

 空にかろうじて残っていた紫色の陽光の名残すらも消え、周囲に夜の闇が忍び寄る中、満月のような金色の目が、おくすことなくセオドアを真正面から見つめている。

 小汚い服装に体に合っていない装備。

 森の中、旅人や地元の人間のための道から外れて、こんな子供が夕暮れ時に一人でうろついていたという事実。

 どう考えてもまともではない。

 相棒の言うとおり、厄介事の予感がする。

 しかし、セオドアの中に少年を見捨てるという選択肢はすでに存在しなかった。

 これも相棒の言うとおり。

 トラブルの原因の八割はいつもセオドアが選び取る。

 先ほども魔物の群れが獲物をもてあそぶ声を聞きつけたのはセオドアが先だった。

 しかし、風の精霊の力を使った魔法で群れの位置を把握したのはリードであったし、そのおかげで群れを挟み撃ちできたのである。

 相棒の力がなければ、セオドアだって夕闇迫る森で、自分から魔物の群れに近付いたりしなかっただろう。たとえ誰かが襲われている気配に後ろ髪を引かれたとしてもだ。


 二割はお前のせいじゃねえかよ馬鹿野郎が、と心の中で毒づいて、セオドアは肩の力を抜き、少年に向けて口の端を上げて見せた。


「いいぜ。俺達も西に向かうところだ。一番近い町までは連れてってやる」


 セオドアの言葉を聞いて、少年の目が丸く見開かれる。


「いいの?」


「ここに置いてったら、お前は今夜のうちに魔物のエサだぜ。それは嫌だろ」


「嫌だ」


 子供らしい素直さで即答する少年に、セオドアは思わず噴き出した。


「じゃあ行こうや。俺はセオドア、こっちはリードだ。ボウズ、お前の名前は」


 少年はセオドアとリードを順に見て、軽く背筋を伸ばした。

 武装した見知らぬ男二人に対峙して、全く呑まれた様子を見せないのは大したものだ。


 力強い金色の瞳にばかり気を取られていたセオドアは、ふいに吹いてきた夜風に揺すられた少年のざんばらに切られた短い髪が、全ての光を吸い込むような純粋な黒であることに、今になって気が付いた。


「ルドルフ」


 変声期特有のかすれた声が夜風に乗る。


「俺はルドルフだ」

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