千年の眠り 百年の孤独

茅野 明空(かやの めあ)

第1話



 まるでスローモーションのように、粉々に砕けた破片が飛び散り、一拍遅れて、決定的な音が二人の間に響いた。

 俺は自分が何をしたのか理解できなくて、手を振り下ろした状態のまま、床に散らばる残骸を見下ろした。まるで血だまりのようにじわりと広がるコーヒーの真ん中で、一瞬前までカップだったものが見るも無残に割れている。

「…じらんない」

 地の底から這い出てきたような声が、俺の目の前からした。はっと顔を上げると、吊り目気味の大きな瞳と目が合う。

「信じらんない!それ…それもうどこにも売ってないのに!!」

 手に持っていたクッションを思い切り俺に投げつけて、彼女は堰を切ったようにわぁっと泣き出した。彼女の目からあふれ出る涙を見て、俺は止まった思考と共に硬直してしまう。彼女が泣くところを見るのは、初めてだった。

「わ、悪い…そんなつもりじゃ…」

 凍りついた舌を必死で動かして、のろのろと謝罪の言葉を口にするが、彼女が泣きながら叫んだ「もう知らない!!」という声にあっけなくかき消された。叫ぶと同時に、彼女は脱兎のごとく駆け出して玄関のドアに手をかける。

「待てよ――」

 静止の声も、見計らったようなタイミングで激しくしまったドアの音に消された。

 彼女の素早すぎる行動に呆気にとられていたが、やがて俺は、自分の犯した最大の罪を見下ろした。コーヒーがつうと床を伝って、俺のスリッパにささやかなシミを作り始めている。

 しゃがみこんで、そこらにあったタオルで床をふいた。

「いつっ」

 鋭い痛みが指先に走った。見ると、人差し指の先からぷくっと血の玉がふくらみ、鮮やかな赤が滴った。自分の愚かさを呪いつつ、俺はふくのをやめて破片を先に拾い始める。

 そして破片の一欠けらをつまみ、俺はじっと食い入るように見つめた。

 色は秋空のような薄い透き通った青で、小さな四葉のクローバーの模様がまばらに浮き彫りになっている。地味だが、凝ったデザインだと感心した覚えがある。

『すっごく可愛いでしょこれ!きっとこれ使ってるとなんかいいことあるよ』

 このカップを贈ってくれたときの彼女の声が、耳に蘇った。

『大切にしてね』――。

「割れちまったもんはしょーがねぇだろっ」

 それは、誰に対する言い訳だったのか。でも確かに、あれはちょっとした事故だったのだ。彼女がぎゃんぎゃん叫び続けて、いい加減頭に来た俺が「うるせぇ!」と手を振り回したとき、運悪く机に置いてあったカップに当たってしまったのだ。

 最早、なんでケンカになったのかもきちんと覚えていない。彼女がいきなり怒り出したような気もするが、俺がその前にカチンとくるようなことを言った気もする。

 なんだかもう全てが面倒くさくなって、俺は破片を適当に拾い集めて床を乱雑にふくと、くさくさとした気分のままベッドに寝転んだ。

 もう今日は、このまま寝てしまおう。明日になれば、きっとなんとかなるって。美沙とケンカするのは、何もこれが初めてではない。


 しかし、眠ろうと目をつぶった俺のまぶたには、美沙の泣き顔がこびりついて離れなかった。



 次の日、俺は大学に着くや否や美沙を探した。彼女の時間割は大体把握してるから、いそうな教室を全て回って探した。中庭や食堂も覗いてみた。

 が、授業が始まる五分前になっても、美沙は姿を現さない。

「なぁ金子、今日美沙見なかった?」

 よく俺と美沙とつるんでいる友達に尋ねると、彼は少し黙り込んで非難するような目を俺に向け、人差し指をつきつけてきた。

「お前、昨日美沙ちゃんとケンカしたんだって!?さんざんひどいこと言ったらしいじゃねぇか」

「言ったのはあいつのほうだよ!つかなんで知ってんだ」

「さっき美沙ちゃんから聞いた。目真っ赤に泣き腫らしてたぞこのボケ」

「なんだ、やっぱあいつ来てんのか」

 めんどくせぇな、と呟いて教室を出て行こうとしたら、金子にぐわしと腕をつかまれた。

「な、なんだよ」

「今は行くな、話がややこしくなるだけだ」

 知った風な金子の態度に俺は少しイラッとしたが、ちょうど教授が教室に入ってきて授業が始まったので、しぶしぶ席に着いた。

 授業中の教授の言葉は、右から左へと耳を素通りしていく。シャーペンを無意識に指先で回しながら、俺はぼんやりと思考の渦におぼれていた。

――俺…なんかひどいこと言ったっけ?

 自分だけ一方的に言われていたような気がしていたが、何も言われてないのに美沙があんなに怒るわけがない。なぜかケンカが始まって最初のほうの記憶がすっぽりとぬけているから、そこで何か彼女を怒らせるようなことを言ったのだろう。

 何言ったんだ?が、思い出そうとすればするほど、脳がその事実をひた隠しにするように、記憶はぼんやりと薄れたままだった。よほど頭に血が上っていたか、よほど思い出したくないらしい。よって俺は、思い出すのを放棄した。自分が酷いことを言ったのは確かだろう。

 とにかく、授業が終わったら美沙を探し出して、謝って、帰りに何かおいしいものを食べに行こう。いつもケンカをしたときには、そうやってなし崩しに不器用な仲直りをするのだ。次の日にはいつもどおりの様子の俺たちを見て、まわりの友達は昨日のあれはなんだったんだよーと苦笑する。

 今回も、そんな風にこのケンカはなかったことになるだろう。

 そう、俺はたかをくくっていた。隣の金子の、今までにない心配そうな視線に、気づかない振りをした。



 授業後、再び一通りの教室をまわってみたが、美沙の姿はどこにも見当たらない。そこらの友達に聞いても、朝見かけたという人以外彼女を見かけた者はいなかった。

「っかしーな、帰ったのか?」

 あきらめかけて教室に戻ろうと踵をかえしたそのとき、誰もいないはずの教室から聞こえてきた声に、俺はつんのめるくらい慌ててたたらを踏んでいた。そっとその教室の出入り口に近づき、耳をそばだてる。

「…でさー、あいつったら――」

 美沙の声だ。俺は少しほっとして、嘆息した。どうやら美沙は友達と二人で話しこんでいるらしい。時々美沙の話に相槌をうつ声は、俺も知った女友達のものだった。

 ドアノブに手をかけたものの、今話している内容が自分のことだと知っているから、どうも入りづらい。そんなこんなで逡巡していた俺は、次いで聞こえてきた言葉にはっと息を呑んでいた。

「卓弥には、私なんか必要ないのよ…」

 そんなことないよ美沙―というもう一人の声も、俺には聞こえていなかった。

 何言ってるんだ、あいつ…?

「もうね、なんか私、疲れちゃった。確かに、ケンカするほど仲がいいっていうけど、私達のはそういうのじゃない気がしてきたんだ。単にどれだけ一緒にいても分り合えないっていうか…」

 今まで聞いたことのない、弱々しい声でそう語る美沙を、俺は別人のように感じていた。

「好きでケンカしてるわけじゃないのよ。私だってケンカするのは嫌なの。だからいつもあいつに気を遣って、もめごととか起こさないように必死なのに…あいつちっともそういう気遣いしようとしないんだもん!あたしばっか疲れて馬鹿みたいじゃん!」

 その言葉の最後は、涙で濡れていた。

「もういや!もう…終わらせたい」

 俺はまるで、落雷をもろに食らったかのように目を見開いた。現に、全身を電流が走ったような衝撃が襲った。今回のケンカは、いつものようにはいかないんだと、やっと自分がしでかしたことの重大さを知る。

 俺は静かにドアノブから手を離し、美沙のいる教室に背をむけた。背後から、心臓をわしずかみにするような、美沙の震える声が追いかけてくる。

「だって、あのカップも割れちゃったし…割れちゃったものは、もとには戻らないんだよ!もうおんなじものはないんだよ!」

「…マグカップ割ったら終わりなのかよ。けっ、アホらし」

 言葉とは裏腹に、俺の歩調はどんどん早くなり、気づけば逃げるように廊下を駆けていた。ざわざわと、胸の奥が騒ぐ。



――アホらしい。

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