Episode 1-6


がしゃん!

けたたましい音が鳴る。

ゆるりと視線を足元に落とす。久芳の手はコップを取り落とし、粉々に割れていた。


「あー!俺のコップ、てんめコラ……」

「ナツキくん……俺ら、今までどこで会ってた?」

「は?そんなの……って、なにやってんだ!」


割れたコップを拾うようにして、破片を掴む。

じゃりじゃり。掌で擦る。皮膚が裂け、掌に焼けるような痛みが突き刺さる。

名月が目を見張るのも構わず、一心不乱に、破片を掌に食い込ませる。

真っ赤な血が滴り落ち、床を赤黒い斑点で穢していく。

激痛が唯一、今自分が持ちうる、真っ当な現実の感覚だ。


「俺もう分かんねえよ、ナツキくんが覚えてるような約束も忘れちまったし、之茂のことも、顔もわかんねえ……」

「おいテメエ、しれっと今俺の脳スペックディスったな!?」


久芳は笑いながら、その手を振り払い、ザクザクと皮膚を破片で傷つけていく。

痛い。ちゃんと痛いことが面白くて、笑える。

穴ぼこだらけの記憶から目を逸らしたくて、自身が本当に正気なのか、この痛みが本物なのかすら疑問に思ってしまう自分に、久芳は笑えて仕方なかった。

名月は久芳の異様な様子にやっと気づいてか、顔色を変える。


「よせ、ヒサヨシ!」

「ダメだ、思い出せねえんだもん、ナツキくん俺らどんな話してたの?俺どんな喋り方だったっけ、」

「おい、ヒサヨシやめろ、手、手ェ裂けちまってんじゃねえか、なあ、」


名月が必死に声をかけるも、その声が届いているようには見えない。

手を掴み、破片を握りこむ手を無理矢理開かせながら、久芳に怒鳴る。それでも自傷の手は止まらない。痛みに取り憑かれた目が、真っ赤な手を見つめている。

ならば指を絡ませるようにして手を抑えつけようとしても、君の自傷行為は止まらない。

痛みだけが辛うじて、自意識とこの世界を繋ぎとめることが、それが救いであるような気がしてならず。

名月は小さくクソ、と呟き、「いい加減にしろ、バカ野郎!」と叫ぶ。

直後に外で、雷が白く空を照らし、腹の底に落雷の音が響いた。


瞼の裏で、再び景色が弾けて花開く。

雷鳴が轟く夜のことだった。誰かの腕に抱かれて、雷や雨の怒り狂う音に怯えていた。

狭い八畳半のワンルームで、薄い煎餅布団に包まって、久芳は出来る限り己の巨躯を小さく丸めて、小刻みに震えている。

自分より幾分か小さい手が、久芳の背を撫でて、優しい声を耳元に寄せる。


 「大丈夫」

 「俺たちの命と一緒で、雷も雨も、いつかは止まるから」

 「雨が晴れたら、朝になったら」

 「一緒に逃げよう。どこまでも、遠くへ」

 

リズミカルに、背を叩かれて、その時やっと、眠りについたことを覚えている。

窓を、天井を、絶え間なく雨が叩いて合唱していた。

雷の音が、睡魔に連れ去られていき、静かな眠りの世界に己の意識がすいこまれる。

いつだったか、全ての生き物は眠るために生きているという論文を見た。

眠りが生物の本質ならば、覚醒している自意識は、一体なんのために生かされているのだろうかと、無性に空しくなったことを、何故か思い出した。


ぴしゃん、と雷鳴の音が、久芳を正気に引き戻す。

ガラス玉のようなヘーゼルグリーンの両目が、必死に久芳の意識を探しているみたいだった。


「はあっ、はっ、……は……」

「……」

「ッ、痛ぇ……」


名月の目と、己の真っ赤な掌を交互に見た。

じわじわと耐えがたい痛みを自覚して、高揚感はすうっと失せて、代わりに呻き声が漏れる。

思わず切った右手の手首を抑えつけ、嫌な汗がこめかみから頬を伝う。


「落ち着けよ、らしくねえ」

「……俺らしいっつったらどんなん?けらけら笑ってた方がいいか?」

「知るかよ、そんなお前はキモいだけだっつーの」

「キモい言うなよもー、…………」

「そんだけ軽口叩けるならいいんでねーの」

「まー……そうだな。もうやらねえから、大丈夫」

「そうしてくれ。ったく、あーあ、床とコップが……」

「手洗ってくる」

「おう」


名月はぐちぐちと愚痴を垂れつつ、久芳の手を離して、コップと血まみれの床を綺麗にする。

その間に、血まみれで細かな破片のついた手の傷を洗う。

冷水の冷たさが傷口に滲んで、小さく悪態をついた。

戻ると、ナツキが消毒液を持ってきて、君の掌にビャッと乱暴にふりかける。


「痛って!!!優しくしろ!!」

「家主に自分の不始末掃除させといてそれかよ。我慢しろよ、大人のくせに」


下手くそに、掌にガーゼを当てて、包帯でぐるぐる巻きにする。

大した傷じゃない、という言葉は飲み込んで、ミイラにされてしまった右手を見て、苦笑いを浮かべた。


「……ヘタクソ……」

「うっせ、チリョーとかしたことねーもん」


雨足が強まってきた。雷がしきりに小さく、雨雲の奥で唸り声を上げている。

どうにも、雷の音が無性に苦手だ。いつ、どうして苦手になったかは覚えていないけれど。

名月は窓の外を見て、ふわわ、と欠伸をひとつする。


「……もう寝るかあ。明日ミサってぇことは、かなり早ぇんだよな……」

「えっマジで?何時?」

「朝7時とかだっけ?ミサとか行ったことねーから分かんね」

「早……だるっ」

「おらおら、寝ろネボスケ。朝起こしてやんねーかんな」

「え~やだ~自分で起きれなーい」

「うるせ~クソバカ永眠しろ」

「…………」

「じゃあ俺、寝るから。起こすんじゃねーぞタコ」

「起こさねーよ、お前起こそうとすると蹴るじゃん」


名月はベッドに飛び乗り、毛布の代わりに、ぶかぶかのモッズコートを被った。

まるで鳥の巣だ。傍に敷いた布団の上に寝そべりながら名月を見上げ、モッズコートの色と大きさに既視感を覚えた。

なあそれ、俺のコートじゃねえの。

そう尋ねようとした直後、ピシャン!と白い閃光が、部屋をひときわ明るく染める。

直後、


「わぎゃあ──────っ!?」


開きかけた言葉を遮り、名月は悲鳴を上げて転がった。

びくっと肩が跳ねる。雷の音そのものより、名月の悲鳴に驚かされた。

そのまま衣服を巻き込んでゴロゴロ転がると、壁に激突する。


「わはは、人間手巻き寿司」

「うっせ!!うっせえ!!テメエを簀巻きにして外に放り出してやろか!!」

 

名月は悶絶すると、オオオ……と小さく呻きつつも喚く。

雷が苦手なのは、どうやら自分だけではないらしい。

久芳から毛布を剥ぎ取り、自分の頭の上に乗せると、ナツキは縮こまる。


「……お~?ナツキくんは雷がこわいんでちゅか~?」

「べっべべべべべつに怖くねーし!!ちょっとうるさいから寝れねえだけだし!?」

「また意地張っちゃって……」

「だいたい、お前だってクソビビリの癖に笑ってんじゃねーぞコラ!!」

「うおっ」 また雷が一つ落ちて、久芳の体が跳ねる。

「ほらー!!ほらぁ────!!」 

「うっるせーうるせーーお前の方がビビリだろーが」

「テメーもビビってんじゃねえよイキってんのか?ああ!」

「何の事かわかんねー!!!!」

「は?雷とかヨユーだし?どっかの誰かさんと違って俺はこんなことで狼狽えたりなんz」

 

 ビシャアアア────────────ン!!!

 どこか近くで雷が落ちたのか、地響きと凄まじい閃光が響き渡り、雨音が一瞬消えた。ついでに電気も消えた。

 しまいには二人とも、


「うぎゃあああああ!!!!!」

「おびゃあああああ────────!??」


と近所迷惑どころの騒ぎではない絶叫を上げた。

久芳は名月の布団を剥いで飛び込み、(名月は「おぼべあっ!?」と悲鳴を上げながらヘッドロックを受けて悲鳴を漏らした)、二人揃って布団かまくらに籠城。

名月は「暑い!」と悲鳴を上げながら、久芳の足を軽く蹴飛ばした。

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