私たちはそれを選ぶ事ができない

@loro_satoharu

山の音

山の

1.

 なぜ歩き出してしまったのだろうか?

 空は濃淡も無く平たく間延びし、ただ青い。だらしなく続く砂利道の先は遠くの山の緑に飲まれ霞んでいた。

 暑い。

 道の左右は荒れた休耕地が広がり、日差しを遮るものは何もなく、風さえ吹かなかった。

 ネットで事前に航空図を見ていたが、自分がいかに小さい存在なのか、その縮尺を実際に歩き始めるまでは自覚できていなかった。

 気まぐれに駅から歩き始め、人気のある駅前や小規模な住宅地を抜け、小さな鉄橋を渡った後から、いくら歩いてもこの空と道と山だけの密度の低い景色が続いた。

 眩暈がしてくる。

 周りには誰もいない。何の気配もない。振り返っても、超えてきた鉄橋はもう無いのではないだろうか。

 やはりこれは罰だ。

 段々と自分という存在が、この何もない風景に溶けて拡散していく気がする。消えてなくなりそうだ。消えてなくなりたい。

 そう翼が思ったとき、視線の先を小さな白い点が穿った。

 

 道の先の小さな白い点は徐々に大きくなっていく。近づいてくる。ガリガリと砂利を踏み鳴らす音が聞こえる頃には、それが白く四角いミニバンだとわかった。

 とぼとぼと惰性で歩き続けていたが、道幅は狭く、このままバンとすれ違う事は難しそうだった。翼は仕方なく立ち止まり、道の傍らの茂みに退いた。

 バンのスピードが落ちていく。翼の脇でバンは完全に静止していた。助手席の窓が開いていて、運転席の男が似合わない大きめなサングラス越しにこちらを見る。

 何か言われるのかと身構える。辺りにあまりに人気が無かったのは、ここが勝手に入ってはいけない場所だったからだろうか?それとも自分みたいな子供が一人歩いているので咎められるのだろうか?自分が何か間違っているのではないかと少し不安になる。

 男はしばらく黙ってこちらを見ていたままだったが、そのまま何も言わず、スマートフォンを取り出して何か操作した。少ししてから翼のズボンのポケットの中でスマートフォンの着信音が鳴りだす。画面を確認すると”牟田睦むろたむつ”、家を出る前に母から教えられた叔父からの着信だった。

 顔を上げると車の中の男が自分のスマホ画面をこちらに見せて、不器用に口元を歪めている。笑っているのかもしれない。男が手に持ったスマホの画面には、”ノヅキ ツバサ”と翼のフルネームが片仮名で表示されている。「駅で待ってるのかと思ってたんだ」

 そういう予定だったかもしれない。憂鬱で母の話をあまり聞いていなかった。大事な話は一度しかしない母だから、その一度を聞き逃したのだろう。

 「まぁ、とりあえず乗ってくれ」叔父である男がそう言って、体を伸ばして助手席のドアを開けた。


 車は一度、まっすぐそのまま進み、橋を超えて大通りに出た所でUターンして元の道に戻った。他人の家の車に乗ることなど滅多に無かったので落ち着かない。

 叔父の顔を横目で見やる。車をUターンさせてからサングラスは外していた。想像していたより随分若く感じる。母の弟と聞いていたから、当然母より若いはずだが、叔父という響きで何となく年寄りを想像していた。

 父の葬儀の時に会っているのだろうが、いくらその顔を見ても何も思い出せない。随分前の事だから、そもそも殆ど記憶に残っていない。今までそれ以外に親戚という人種に会う事も無かったから初対面に近かった。それは向こうも同じはずだ。

 「暑くないか?」叔父がちらとこちらを見る。

 じろじろと横顔を眺めていた事を悟られないように顔を背けて「平気」と答えた。実際には吹き出した汗でタンクトップが肌に張り付いていた。道が狭いせいか車はとろとろと走り、窓から入る風はぬるい。もう少し愛想よくした方がいいのだとわかってはいたが、これ以上口を開く気にもなれなかった。

 男の背後に母の姿を見ているせいもある。母から自分の事をどう聞いているのか考えてしまい、気分が塞いだ。もしかしたら夏の間中、こんなつまらない気持ちで過ごす事になるのかもしれない。

 背けた顔で外を眺めた。車中から眺めても、景色は変わらず空と道と山だけだ。

 「ここら辺、何もないだろ」また運転席から声がかかる。

 「空と道と山がある」それから雑草だらけで放置された田畑。無視するか迷った末に口を開いたが、これなら黙っていた方がマシだったと後悔する。

 「目の付け所がいいな。あと川ぐらいならある」

 「ふーん」会話が続いてしまい、できるだけ素っ気なく返した。こんな態度を取られて気分を害さないのだろうか?振り返り、顔色を伺う。スマホ画面を見せた時より、口元が自然な笑みに見える。気を使っているのかもしれない。むしろ癪に障る。

 「あれが家だ」

 「え?」

 視線を前にやると、今まで山の緑に飲まれていた山裾の景色が見えるようになっていた。すそ野を沿うように道が折れ曲がって続いていて、その道と山へ続く木々の間にぽつんと一件の平屋がある。

 辺りに他の家は無く、完全に孤立している。「本当に?」思わず口にしていた。地図で見た時も何かの間違いじゃないかと思ったが、実際に見てもひどい場所だ。

 「そんなに悪い所じゃない。買い物も車があれば困らないしな」

 「車じゃなかったら?」

 「ここは陸の孤島だ」

 言い草にぎょっとする。つまり夏の間中、閉じ込められてるも同然ということだ。

 「いや、言い過ぎた。その気になれば徒歩でも人の生活圏まで脱出は可能だ。俺にはそんなガッツは無いが」

 翼の反応を見てか、ごにょごにょとフォローのようなものが加わる。しかし、途中まで歩いて来た実感では、翼も徒歩でどこかに辿り着けるような気はしなかった。例え辿り着いても駅前に小さな商店がいくつか軒を連ねているだけだ。わざわざ行く甲斐は無い。


 叔父の家は近くで見ても印象が良くなることは無かった。

 建設現場のプレハブ小屋を少し大きくした程度の四角い家だ。見た目もプレハブ小屋と大差が無い。古びてはいないものの、ベージュの壁は砂埃で白茶けている。

 家の前の道は休耕地を走る道とは違いアスファルトで舗装されていて、舗装された道と家の間には塀もなく、また砂利敷きのスペースに変わり、車はそこに横づけされた。

 先に車を降ろされた翼は軽く辺りを見渡したが、道中と変わる事無く見所は何も無い。アスファルトの道はカーブして山陰に消えていくため、その先に何があるのかわからなかった。

 車のエンジンを切り、叔父が車を降りてくる。「荷物はそれだけなのか?」

 見てわからないのだろうか?「必要な物は後で送るって、……お母さんが」だから二三日分の着替えと簡単な物をリュックサックに詰め込んだだけだった。

 「ああ、何かそんな事言ってたな」叔父がちゃらちゃらと手に持った車のキーを鳴らしながら、家の正面左端にある茶色いアルミサッシの玄関を開き、中に入っていく。

 立ったままサンダルを脱ぎ、視界から消える。開いたままの玄関からその様子を眺めた。しばらくして叔父がひょこっと顔を出す。手に茶色い液体の入ったグラスを持っている。「何してんだ?あんま外にいると体に悪いぞ」

 「う、うん」少しむっとする。確かに暑さで頭が茹だりそうだったが、好きで突っ立っていた訳ではない。どうぞとも何も言われなかったから入るのに躊躇していたのだ。 

 叔父がまた姿を隠す。

 こうしていても仕方がない。玄関に向かって歩き出す。まだ躊躇がある。躊躇の理由を探す。何となくここを超えたらもう元の場所へは戻れなくなるような気がしていた。


 2.

 土間は狭く、段差が殆ど無い。さっき脱ぎ捨てられた叔父のサンダルと、一足の汚れた運動靴だけが転がっている。左手の壁に薄い靴箱がつけられているが、中身は空なんじゃないかと思えた。

 あまり行儀よくするのも馬鹿らしく、翼も足を揃えて立ったままサンダルを脱ぎ、家にあがった。

 玄関はそのまま8畳ほどのダイニングキッチンになっていて、家の正面側の壁に沿ってキッチン、というより台所があり、右手の壁際に冷蔵庫、中央に小さなダイニングテーブルと、それを囲んで4脚の椅子が置かれていた。

 部屋の奥は型板ガラスのはめ込まれた4枚の引戸で仕切られていて、真ん中2枚の開いた部分から横に伸びた板張りの廊下と向いにある閉じられた襖が見えた。

 叔父はダイニングテーブルと冷蔵庫の間に立ち、ペットボトルからグラスに麦茶を注いでいる。「飲むか?」と翼に気づいてグラスを差し出す。

 手に持っているグラスはさっきも持っていたグラスだ。一杯目の麦茶を飲んだ後、洗いもせずに二杯目を注いだように見える。首を横に振る。

 「いや、飲んどいた方がいいぞ。かなり汗をかいてる。熱中症になったらどうしたらいいのか、俺は知らないんだ」自信ありげに頼りない事を言う。何だか間が抜けている。

 「喉、」乾いてない、と言いかけて、「……わかった」と突っぱねるのも面倒になり、グラスを受け取った。嫌悪感はまだ残っていたが麦茶をあおる。実際には喉が渇いていた。「叔父さん、一人でここに住んでるの……?」

 母が弟の所に行けと言った時、祖父祖母に関する話が出なかったので、ここが母の実家でない事は察していた。家の様子から他に人気も無い。何よりこの調子では結婚などしていそうには思えなかった。

 「おじ……」

 「……何?」

 「いや、親族関係の表現として使ってるのはわかるんだが、そういうのまだナーバスな年頃というか、ついにナーバスな年頃というか」

 「おじさん?」ナーバスとは何だろうか?

 「ああ。背筋が寒くなる」

 本気で暗い顔をしている。嫌がっているのはわかるが、事実叔父なのだから仕方がない。「だってカツオだってタラちゃんの叔父さんでしょ?」

 「でもタラちゃんはカツオの事、カツオ叔父さんとは言わないでカツオお兄ちゃんって呼ぶだろ?」心なしか語調が強くなっている。少し怖い。「いや、すまん。怒っている訳ではなく、理不尽な時の流れに恐怖しているだけなんだ。許してくれ」

 「う、うん。……じゃ、じゃあ、何て呼べばいいの?」流石にお兄ちゃんと呼ぶのは抵抗が強い。

 「いや、好きに呼んでくれて構わない」

 「おじさん」

 「それはダメだ」

 「じゃあ、……睦?」

 「む……」

 「だって親戚を苗字で呼ぶのっておかしいでしょ……?みんな同じ苗字なんだから」母は自分の親類の話を全くしないので、どんな家族構成をしているのかわからないが、大半は同じ苗字になるはずだ。そうなると睦しか無難な呼び方は思いつかない。

 「なるほど。確かにそうだ。じゃあそれでいい」

 叔父、睦が麦茶のペットボトルを冷蔵庫に仕舞う。”さん”付けにしなかった事には気がつかなかったようだった。


 「狭い家だが一応案内しておく」

 そう言って睦が廊下へ出る。後について翼も廊下に続く。床材がビニールから板張りに変わる。幅は人一人分の細い廊下だ。ダイニングキッチンから出て左手はどん詰まりで、ダンボール箱が3箱縦に積まれ壁が殆ど見えなくなっている。隙間から光が漏れているので、その奥に明り取りの窓が付いているようだった。睦はもう右手に伸びる廊下を進んでいる。

 廊下右側、襖が並んだ空間から少し離れた所に内開きの扉が開いていて、睦がその中を指す。「とりあえず、ここがお前の部屋だ。うるさくしなけりゃ好きに使っていい」

 睦に追い付き、中を覗く。扉から左奥に向かって部屋は広がっている。ダイニングキッチンより少し狭い6畳程の洋間で、床にはさつまいもの皮のような古臭い赤紫色のカーペットが敷き詰められている。窓のある奥の壁にベッドが寄せられ、左の壁と廊下側の壁の隅に化粧台とセットの椅子が置いてある。家具らしき物は他にプラスチック製の丸いゴミ箱ぐらいしか無い。右手の壁には収納スペースがあるようだが、そこは和風で襖になっていた。

 視線の先に合わせるように「元々、雑に物を置く部屋に使ってたんだ。適当に転がしてあった荷物を無理矢理押し入れに詰めて場所を作った。中は見るな」と睦が言う。

 確かに絨毯にダンボール箱の底のような四角い跡が何か所か残っている。廊下の端にあったダンボール箱も元はこの部屋にあった物なのかもしれない。

 「ベッドは使えるかわからん。少なくとも布団とシーツぐらいは一度干した方がいいだろうな」

 「え」

 「この家を借りた時に置いてあったままなんだ。そこの化粧台もそうだ。問題があれば言ってくれ」

 そう言われると部屋全体が少し埃っぽい気がしてくる。今日からここで寝起きするのだろうが、すぐに使えるのだろうか?

 こちらが不安になっているのを余所に睦は部屋から離れていく。逃げていくようにも見える。

 狭い廊下で翼と無理矢理すれ違い、反対側、扉もなく、青い暖簾だけがかかった場所に入っていく。ダイニングキッチンの隣の空間。リュックサックを降ろし、仕方なく後を追う。

 脱衣所だろうか?中に入ると右手に洗面台があり、その脇に籐製の脱衣籠のような物が置かれている。しかし、それらが目に入る前に天井に張り巡らされた紐からぶら下がった大量の洗濯物に視界が阻まれる。男物のパンツやシャツ、父が亡くなってから家では見かけなくなった物。睦は既にそれらの先に行っている。顔をしかめ、身を屈めて洗濯物を避けながら先に進む。非対称に扉が二つ並んでいる。一つは右側の奥まった所にある丸ノブのついた細い扉で、もう一つは残りの壁の殆どを埋める磨りガラスの引き違い戸だ。睦が細い扉のノブに手をかける。「トイレだ」開いた先の狭い空間に洋式のトイレがある。壁は地の板が剥き出しであまり綺麗には感じられないが、もしかしたら和式便所なのではないかと思っていたので少しほっとする。それからもう一つの扉、引き違い戸を開く。「風呂だ」

 「温泉みたい……」

 「いや、銭湯じゃないか?」そう言われても銭湯には行った事が無かった。温泉もあまりないが、要するにこの家には不釣り合いな程、立派な風呂場があった。

 青味がかった黒いタイルが壁と床を覆っている。奥の壁に凹凸ガラスのルーバー窓があり、左手の壁の中央に流し場がある。そして浴槽は埋め込み式ではなく、床が四角く掘られている。広さも足を伸ばせるどころか、翼なら軽く泳げそうな程だった。

 「ここを建てた爺さんの趣味だったんだろうな。俺もこれを見て借りるのを決めた。実際にはお湯を張るのに時間がかかって面倒臭くて殆ど使ってない」

 「勿体ない」

 「お湯の方が勿体ない」

 「使ってもいい?」

 「使った後の掃除を任せてもいいなら」

 「わかった」


 洗濯物と暖簾を潜り廊下へ戻る。「中は大体こんな感じだ」睦はそう言って廊下の先にあった細い外開きの金属扉を開く。裏口だろう。睦の背に阻まれた四角く開いた空間から、明るい外の景色が覗けた。

 睦が外に出るので、翼も後に続こうとして足が止まる。「ああ、悪い。ちょっと待っててくれ」睦が引き返してきて、廊下を戻りダイニングキッチンへと消えていく。視線を扉の外へ戻す。顔を出して足元を見ると草臥れた玄関マットがあり、日焼けしたピンク色のサンダルが一足だけそこに置かれていた。サンダルを履き、外へ出る。丁度睦が玄関からサンダルを履いて、家の表を抜けて戻ってきた所だった。

 「どこまでなのかわからんが、庭らしい」睦が辺りを見渡して言う。

 家の背後にある山の木立と家の表側を走るアスファルト道の間に、白茶けた剥き出しの地面が広がっている。恐らくその空間が庭なのだろう。物干し台が二つ並び、その奥に家庭菜園の残骸のような物がある。裏口の脇、庇の下には、日焼けして白くなった洗濯機が置かれていた。

 「後はまぁ、大したものは無いな」

 それから睦はアスファルト道の先を指し、「何かあって助けを呼ぶならあっちに行った方がいい。買い物ならT駅の方が近いが、こっちへ行くと家が何件かある。こっちの方が近い」と言い、家の裏手に回った。

 家の背後は木々の影になり薄暗く、家から数歩離れると、すぐに地面は緩やかに傾斜し始めて、林が山に続いている。

 アルミ製の背の高い物置が家の壁伝いに置かれていて「釣り竿と虫取り網が入ってるが、他に危ない物も入ってるから、勝手に開けるな」と睦が歩きながら注意する。あまり興味が湧かない。物置の影には室外機とゴミ袋の山が隠れている。

 家を半周し、表へ戻ってくる。目の前をこの家までやってきた砂利道が伸びている。「あそこを真っ直ぐ行くと沢がある」言われて振り返る。背後の山の木立に切れ目があり、殆ど起伏のない道の様なものが奥へと続いていた。「昼間なら迷う事も無いだろうから行ってもいい」


 中に戻ってから遅めの昼食を摂った。「子供ってどれくらい食べるんだ?自分が喰う分しか作らんからわからん」と、袋に入った3人前のやきそばを叔父が焼く。「どうだ?多いか?少ないか?」「普通」「そうか。俺、この3袋入ったやきそば、いつも2袋喰うから、半端で困ってたんだ。丁度いい」この手のタイプのやきそばは冷凍保存が効く。余るのなら冷凍しておけばいい。翼は今朝までいた川崎の家の冷凍庫の中身を思い浮かべたが、口には出さなかった。

 食事中、他に会話もなく、テーブルの上に置かれたポータブルTVだけが音を立てた。テーブルの上には他に、醤油や塩、ガラス製の灰皿などが置かれている。睦は煙草を吸うのだろうか?母は煙草を吸わないし、死んだ父も多分吸っていなかったから、身近に煙草を吸う大人はいない。嫌な臭いがするというが、本当だろうか?吸い殻は無い。

 食後、睦が後片付けを始める。廊下の向こうにある襖の部屋が案内されていない事に気づく。「ねぇ、あの部屋は?」「あ?」洗い物をする睦が頭だけ振り返る。「消去法でわかるだろ?」少しイラっとくるが、確かにその通りだ。中はどうなっているのだろう?


 3.

 食後、部屋の掃除をした。窓を開け、空気を入れ替える。山の方から喧しく蝉の声が響く。ベッドの布団は翼が思った通り埃っぽかった。その下には毛布とタオルケットが重なっている。掛け布団と毛布は、夏場に必要ではない。邪魔なのでどこかに仕舞おうと、中は見るなと言われていた押し入れを黙って開けた。上下二段の収納に、みっしりとダンボール箱が詰まっている。何が入っているのか、手前のダンボール箱を開く。男性向けの古臭いポルノコミックが出てくる。興味に抗えずページを捲ろうとして、廊下に人の気配を感じる。慌てて元に戻す。「おい!」開きっぱなしにしていた扉から、手に雑巾を持った叔父が顔を出す。

 「布団、使わないから仕舞いたい」平静を装うためにわざと不機嫌な声を出した。ドキドキしながら顔を睨んだ。

 ダンボール箱の中身まで覗いた事はばれずに済み、「プライバシーという概念を理解しろ」と注意を受けただけで、掛け布団と毛布がダンボール箱と天板の隙間に押し込まれると、押し入れは閉じられた。

 その後、タオルケットとシーツを洗濯し、物干しに干した。なぜ物干しがあるのに脱衣所に洗濯物を干しているのだろう?

 マットレスを外へ出して貰い、壁に立てかけ日に当てた。シーツがかかっていたのでそれ程埃っぽく感じなかったが、一応、手で叩く。布団叩きは見つからなかった。

 部屋に戻り、良く絞った雑巾でカーペットを拭いた。床から剝がしたら洗濯できるだろうか?かなり大変だろうし、元に戻す自信も無く、諦めた。最初は足が黒くなるほどだったが、床全体を二度拭きしたら、気にならない程度になった。作業に飽きたとも言える。

 ついでに化粧台も拭く。小さな白い化粧台で、これは悪くないと思った。引き出しの中には使いかけの化粧品が残っている。

 いつの間にか夕方になり、外に出していた物を取り込んだ。ベッドを整えてひと段落すると、夕食になった。

 特に会話もない。掃除の間も、押し入れの件とマットレスを運ぶ時以外で会話は無かった。家を案内した時点で必要な事の説明は済ませたので、特に話をする気もないのかもしれない。その方が翼としても気楽だった。あまり干渉されたくない。

 風呂の沸かし方だけ教えてもらい、お湯を張った。確かに言われていた通り、時間がかかった。

 

 浴槽の縁に頭をやり、手足を伸ばして体を浮かせる。気持ちがいい。この浴室を写真に撮り、母に送りたくなる。浴槽の2面に段差があり、腰掛ける事も出来た。本当に温泉みたいだ。

 くたくただった。そうしていると眠気で瞼が重くなるので、翼は浴槽のお湯で顔を洗い、半身浴に切り替えた。それから母に本当にメッセージを送るか考える。

 気が重くなる。

 あれから殆ど母とまともに口を利いていない。喧嘩をして、お互い口を利かなくなる事は過去にもあったが、今回はよく分からない。母は怒っているのか?確かに自分が悪いような気もする。馬鹿な事をした、という罪悪感はある。

 りんこちゃんはあれからどうしているのだろう。どうなったのだろうか?二三日の間、クラスメイトたちがあれこれと嘘か本当かわからない事まで含めて、色々とメッセージアプリで翼に情報をくれたが、返信する気になれず、新しいメッセージが来ても読む事もしなくなっていた。今では誰もメッセージを送ってこない。新学期の事を考えると今から憂鬱になる。

 ふぅ、と溜息をついてもう一度顔を洗い、肩まで浸かった。一日中、汗で張り付いた服を着て暑い中過ごしたので、湯船に浸かるのが本当に心地良かった。

 ……どうしよう。

 ループするようにまた母について考えている。

 普通、子供一人でどこかに出したら、無事に着いたかどうか心配して、電話の一つもかけてくるものじゃないだろうか?

 やはりメッセージを送るのはやめよう。

 それとも叔父が、母に何か連絡したのだろうか?だから母から何も連絡が無いのだろうか?


 風呂上り、パジャマに着替え、今日着ていた服や下着を外の洗濯機に放り込んだ。翼は夏場にあまりパジャマを着ない。家では大抵、部屋着をパジャマ代わりにして過ごしていたので、本当に余所の家にいるという気分になる。

 ダイニングにまだ明かりが点いているので顔を出す。叔父が廊下側の椅子に座り、文庫本を読んでいた。

 「……お湯、そのままにしておいたから」給湯器の使い方を教わった時に、後で入るからそのままでいいと言われていた。

 睦は文庫本から顔も上げずに「ああ」とだけ答える。今更、夏の間、この叔父とやっていけるのかと考える。母からは名前と住所以外何も教えられていない。

 「麦茶、飲んでもいい?」

 「ああ。好きにしろ」欠伸を挟んだ以外、さっきの調子と何も変わらなかった。

 キッチンの水切りカゴから切子の入ったグラスを取り、冷蔵庫から出したペットボトルの麦茶を注ぐ。グラスに口をつけながら「ねぇ、睦って何してる人なの?」と聞いた。

 「何ってなんだ?」睦がようやく文庫本から顔を上げる。

 「仕事、……とか?」仕事を尋ねる以外の意図は無かったが、ついぼかしている。

 「してない」

 「え?」

 「今はしてない。逆に聞くが、おまえは何をしてる人なんだ?」

 「いや……、小……学、生?」そんな切り返し方をされるとは思わず、戸惑いながら返す。

 「そうか。多分、そうなんじゃないかと思ってた。当たってたから嬉しい」

 「う、うん」

 それ以外の可能性があるだろうか?中学生に見えるとは思えない。睦はまた文庫本に視線を落とす。

 「……仕事って、しなくて大丈夫なの?」

 「ああ。貯金があるからな。金があるなら仕事はなるべくしない方がいい。現代の生産はほとんど破壊と同義だ。趣味じゃない」

 「ふ、ふーん」言ってる意味はよくわからなかったが、要するに無職という事だろう。そんなに胸を張って言う事だろうか。

 麦茶を飲み終わり、シンクの蛇口でグラスをゆすぐ。ゆすぎながら、まだ何か聞こうか悩む。どう相手をしていい男なのか、段々わからなくなってきていた。背中に目をつけたように背後の叔父を警戒する。

 「ねぇ、……お母さんから連絡あった?」考えあぐねて結局、そんな事を口にしていた。

 「ん?俺にか?いや、無いな」

 「そ」

 ゆすぎおわったグラスを水切りカゴに戻し、蛇口を閉めた。


 4.

 ……音が違う。匂いも。

 蝉の声が五月蠅い。木が多いから蝉も多いのだろうか?外を走る車の音がしない。電車の音もしない。TVの音がしない。母の立てる音が無い。

 土の匂いがする。それから刺々しい埃っぽい臭いがまだ残っている。消臭剤やポプリ、いつもしていた名前のつけられない匂いが無い。

 タオルケットもいらなかった。今日は昨日よりも暑いのかもしれない。ベッドの上で寝返りを打ち、翼はスマホで時間を確認した。9時20分。平日だったら1時間目がとっくに始まっている時間だ。外で何かがガタガタと物音を立てた気がして随分前に目を覚ましたのだが、何の予定も無いせいで、今まで起きる気が湧かなかった。本当だったら今頃、何をしていたのだろう。遅く起きた母と朝食を食べ、どこかへ出かけていたかもしれない。友達の家に呼ばれていたかもしれない。

 寝汗で額に張り付いた前髪を払い、仕方なく身を起こし、ベッドに腰掛けた。空腹だ。叔父はまだ起きていないのだろうか?気配はない。

 そっと部屋を出る。ダイニングの戸を開け、閉める。

 テーブルの上に昨日は置かれていなかった食パンを見つける。食べてもいいのだろうか?多分、ダメとは言わないだろう。

 冷蔵庫を開け、マーガリンを見つける。他にも色々目につくものはあったが、どこまで勝手にしていいのかわからず、マーガリンだけ取り出し、テーブルに置いた。

 袋を開け、食パンを手に取る。冷蔵庫の上へ視線を向ける。高い。冷蔵庫の上に親子亀のように電子レンジとトースタが重なっている。電子レンジは辛うじて操作できる高さにあるが、その上にあるトースタは、手は届くものの操作できる高さではなかった。

 一応、食パン片手に背伸びをしてみたが、無駄な足搔きだった。諦めてテーブルにつき、生の食パンを齧った。妙に硬い。パサついている。袋に書いてある消費期限を見ると3日も過ぎていた。


 引戸のガラスの向こうで襖が開き、人影が現れる。ようやく起きだしてきたらしい叔父は、ガラス越しにしばらくこちらを見て、廊下の先に消えていった。模様の入ったガラス越しなので良くは見えなかったが、下着姿のようで、翼は固まってしまった。

 またしばらくすると廊下の先から戻ってきて、今度はダイニングの戸を開ける。上はシャツ一枚着ているものの、下はそのまま、毛の生えた脚を見せている。最悪だ。

 「何で生で食パン齧ってんだ?」眠そうな目をして不思議そうに言う。顔を洗ってきたらしく、短い前髪がまだ少し濡れている。

 「……生の方が好きだから」恨みがましく答える。

 「変わった奴だな」睦はそう言って首を傾げ、冷蔵庫からトースト用のチーズを取り出した。袋から消費期限の切れた食パンを二枚引き抜き、その二枚を少し迷った仕草を見せてからテーブルの上に直に置いた。翼がテーブルに出しっぱなしにしていたマーガリンを、パックの中でバターナイフを使って練ってから食パンに塗る。チーズを乗せ、トースタにセットする。「ああ」納得したように呟く。「お前も焼くか?」

 今見た光景が信じられなかった。普通、食べ物をテーブルの上に直に置くだろうか?パックの中でマーガリンをねちねちと練る姿はとても汚らしい。正気を疑う。首を横に振る。大体、もう半分以上食べてしまっているのに、今更焼くかと聞かれても困る。そして、残りを食べる食欲も失せてしまった。


 椅子の上に素足で胡坐をかく男を眺めながら、何とか残りの食パンを胃に押し込み、脱衣所で顔を洗って部屋に戻った。

 服を着替え、鏡の前で髪を梳かして纏めると、もうする事が無くなってしまった。

 ベッドに横になり、スマホをいじる。

 アンテナは立っていない。圏外だ。昨晩、部屋に戻ってから気づき、ダイニングに取って返すと、この家の中では携帯電話は繋がらないと言われた。「山陰にあるせいか、電波が届かないんだよな。まぁでも、家からちょっと歩けば繋がる。wifiのパスワード教えるけど、設定の仕方わかるか?」

 パスワードを書いたメモを貰い、wifiに接続すると、とりあえずの不便は無くなったが、流石に驚いた。本当に人の住むところではない。

 スマホのホーム画面からメッセージアプリを起動し、通知をチェックする。未読のメッセージは溜まっているが、昨日今日のメッセージではない。

 それから少しだけゲームをする。学校の友達たちとやっていたゲームだったが、学校に行かなくなってから起動しなくなっていた。そういう気分ではなかった。今やっても、何が面白かったのかわからなくなっている。

 ゲームアプリを終了する。ログイン履歴を友人たちに知られるのが鬱陶しく思え、アプリをアンインストールした。そんなことをしてもアカウント情報は残っているので、履歴が消える訳ではない。嫌なものを隠しただけだ。

 しばらく自己嫌悪で何もできなくなる。

 結局、スマホを放り、うつ伏せになって、丸めたタオルケットに顔を埋めた。家に置いてきたムーの手触りが恋しくなる。

 帰りたいと思い、同時に帰りたくないと思った。気に入ったあらゆる物だけを持って、どこかへ行きたい。それが駄目なら全てを元に戻して欲しい。

 溜息をつき、背を丸め、タオルケットに更に顔を押し付ける。罪悪感と同じくらい理不尽さも感じている。

 息苦しくなり、タオルケットを離して大の字になった。いつの間にか体中が汗ばみ、着替えた服もべた付き始めていた。

 今一番欲しいのはエアコンかもしれない。

 部屋には扇風機さえ無い。窓は全開にしていたが、喧しい蝉の声が入り込んでくるだけで少しも涼しくはならない。

 また溜息をつく。今度はただの排熱かもしれない。さっきまで何を考えていたのか、急にわからなくなった。シャツの胸元を掴んで上下させ、風を送る。暑さで落ち込む事さえ難しい。

 こうして寝転んでいても、暑さでバテてしまうだけだ。

 ぼーっとしかけた頭で体を起こした。お風呂にでも入ろうか?この家で唯一気に入ったものだ。水風呂にしたら、ちょっとしたプールみたいになるだろう。

 しかし、昼から風呂に入るのは少し気が引ける。

 それに風呂から上がっても着替えが無い。風呂上りにこの汗まみれになった服をもう一度着る事を考えたら、急に気持ちが萎えてしまった。

 「……暑い」そして、退屈だ。

 せめて涼しい所へ行きたい。

 

 廊下で物音がしたので、部屋を出ると案の定台所には叔父の姿があった。「どうした?」冷蔵庫を覗き、身を屈めていた睦が振り向いてこちらを見る。

 「沢に行っていい?」

 翼がのぼせた頭で出した結論がそれだった。昨日聞いた時には興味が湧かなかったが、きっとあの部屋にいるよりは涼しいだろう。

 「ん、ああ。別にいいぞ。あそこを真っ直ぐ行くだけだ」

 「どれくらいで着く?」

 「んー……、10分か20分ってとこか?計った事無いからわからん。別にそんなかかんないな。一緒に行った方がいいか?」

 「いい」

 「そうか」そう言って、睦は視線を冷蔵庫に戻すと、中から昨日の昼食と同じ3袋入りの焼きそばを取り出した。「昼飯、またやきそばなんだけどいいか?」

 「いい」

 「おう」小気味よく返事をして台所へ向かう。

 違う。そういう意味じゃない。「お腹空いてないからいらない」

 「え?」

 「お腹空いてないからいらない」もう一度繰り返す。

 振り向いた睦の顔が信じられないという表情で固まっている。あんな遅い時間に朝食をとって、何でもうお腹が空いているんだろう?それに暑さと朝の様子を思い出すとで、食事をする気にはなれなかった。

 「じゃあ、行ってくるから」荷物も特に必要ない。そのまま外に出ようと玄関に向かった。あまり褒められた態度じゃないことは翼にもわかったが、人に好かれたい気分ではなかった。

 「いやいやいや、待ってくれ」

 制止され、サンダルを履いたところで、一応、立ち止まる。返事もせずに顔を上げ、ねめつけた。

 「いや、……虫よけくらいかけた方が、いいぞ。それと、水筒貸すから待ってくれ」

 「……わかった」

 部屋に引き返していく叔父の姿を見ながら、自分が今、あまり人と一緒にいたくないのだと翼は自覚した。特に大人とは一緒にいたくない。近づきたくない。そういう状態だ。ついイライラしてしまう。

 睦が小ぶりな水筒を持って部屋から戻ってくる。中を濯ぎ、麦茶を詰めた物を受け取る。「目ぇ、瞑ってろ」靴箱の上にあった虫よけを全身にスプレーされる。嫌な臭いが身体を包んだ。部屋で嗅いだ埃っぽい刺々しい臭いに、同じ臭いが混ざっていた。

 「もういい?」

 「ん、ああ。……あんまり遅くならないようにしろ。暗くなると道がわからなくなる」

 「わかった」


 玄関を出て、木々の切れ目から山に入り、しばらくは無心で先に進んだ。10分か20分程度で着くと言われたが、もうそれぐらいは歩いた気がする。それは大人の歩幅での話だったのかもしれない。

 ショートパンツのポケットからスマホを取り出し、時間を確かめる。いつの間にか昼をとっくに過ぎていた。急に空腹を感じたが、今更引き返す気にはなれない。

 山の入り口付近では道の傾斜や、地面を這う太い木の根に四苦八苦したが、この辺りは比較的なだらかで周囲も拓けていた。気分も落ち着いてきて、翼は少し歩を緩め、周りを見渡した。

 どちらを向いても木と藪が青く茂っていて遠くは見えない。立っている道自体も、その密度が少し薄いだけで、実際、殆ど周りと変わらない。獣道とはこういう道の事を言うのだろう。

 翼が視線を巡らした先に、節くれだって幹が白く粉を吹いたような木が何本か立っていた。その根本に女性物の薄汚れた黄色いサンダルが片方だけ放られている。山に入ってから人工物を見たのはこれが始めてだった。こんな所にやってくる人が他にもいるのか。

 カーンとどこかで音が響いている事に気づく。

 道を外れたそんな場所になぜ片方だけサンダルが落ちているのか、その経緯を何とはなしに考えて、足が止まっていた。

 今度は音に気を取られて顔を上げる。何時から聞こえていたのだろう?

 音は木霊して聞こえ、どこから聞こえてくるのかわからない。

 それほど大きな音ではないので、距離は遠そうだった。一定のリズムでコーンとも聞こえる音が響く。

 規則性があるので、人の存在を感じさせる。過去に誰かがいただけでなく、今もこの山のどこかに人がいるのだ。

 その音を聞きながら、再び歩き出す。更に距離が開いたからか、徐々に音は小さくなっていく。

 何度も聞いている内に、それが斧の音だとわかった。カーンと聞こえるごとに木に刃を打ち付けているのだろう。


 視界がひらけたのは突然だった。

 音に気を取られていたのと、道が曲がりくねって起伏し、先が見えなかったのもあり、何を目指して歩いていたのかさえ、翼は忘れかけていた。

 唐突に道が消え、眼下の窪地に山を裂くようにして岩場が横たわっていた。その岩場の間をちろちろと静かな音を立てて水が流れている。

 足元に気をつけながら岩場に降りた。木々の天幕の下を這いだし、直接日光を浴びる。それだけでも気分が良い。不揃いな岩や小石の上をバランスを取りながら進み、水流に面した大きな平たい岩の上に辿り着く。

 水面を覗いた。底は浅く、流れは穏やかで水は綺麗だった。岩陰に小さな魚が何匹か泳いでいる。上流の方では岩の段差が重なり、岩場全体の傾斜と共に水流が山奥へと続いている。下流の先と対岸は、斜めに張り出して伸びた木々の陰に隠れ、鬱蒼として、どこも苔むしていた。

 落ち着けそうなのはこの辺りだけのようだった。下手に動いて帰り道を見失っても困る。翼は一度振り向いて、自分が出てきた場所を確認し、その場にしゃがみ込んだ。

 俯いて、顔を水面に近づける。爽やかな匂いがする。生臭かったり、不快な臭いはしない。指先で触れるとひんやりとして心地良かった。見た目通りに綺麗な水のようだ。

 しばらくそうして、小さな黒い魚たちが尾を振ってその場に静止しているのを眺めた後、サンダルを脱ぎ、足を浸した。程よい水温の水が、足首から下を舐めるように流れていく。

 ふぅと一息ついて、水筒から麦茶を飲み、横になった。

 ようやく一人になれた。空を流れる雲を眺めながらそう思った。母とのここ数日の関係や、よく知らない叔父から離れて、急に緊張が解けたみたいだった。

 思った通り涼しい場所だ。段々と力が抜けていく。足元から水の流れに自分が溶けだしていくのを想像した。それは悪くない想像だ。目を閉じて、瞼の上に腕を重ねると、本当に自分がそのまま消えてしまえるような気がした。


 5.

 翼が瞼を開くと、燃えるような陽の色と肌寒さに辺りは包まれていた。眠ったつもりはなかった。ただ瞼を閉じて、時が過ぎ去るのに任せていただけのつもりだったが、事実としては眠ってしまっていたのだろう。体を起こして、剥き出しの肩を撫でた。冷えすぎている。いつの間にか足は水から引き上げていて乾いていた。

 帰らなくちゃ……。憂鬱にそう思った。頭を切り替えなくてはならない。

 ……カーン。斧の音がする。もしかしたら、この音のお陰で目が覚めたのかもしれない。夕暮れの色合いのせいか、急に寂しげになった景色に混ざるように、斧の音が定期的に響いている。いつから鳴っていたのか、どこから鳴っているのか、ここへ来た時と同様にわからないが、そんな事を気にしている場合ではなさそうだった。叔父の言葉を思いだす。『あんまり遅くならないようにしろ。暗くなると道がわからなくなる』。

 帰り支度をしようと、腰掛けていた岩の上に置いたサンダルを探した。寝返りでも打って落としたのか、揃えて置いておいた筈の左のサンダルが見当たらなかった。岩に腰かけたまま、身を乗り出して辺りを探す。そんな遠くには無いはずだ。空を見上げなくても、だんだんと日が傾いていくのがわかった。少し焦りが出てきて、横着せずに立ち上がり、右手に片方のサンダルを持ちながら、岩の陰や川の底を覗いた。見つからない。川の下流へ視線をやると、もう日の光は精彩を失い、全てが灰色がかって何も判別できなくなってきている。

 諦めた方がいい。振り返ると、出てきた木立の切れ目さえ周囲と見分けがつきづらくなっていた。

 素足のまま、岩場を渡る。不安定な足場で転びそうになりながら、地面の露出した斜面に辿り着き、よじ登って、何とか出てきた道へと戻った。

 昼間でさえ薄暗かった道は更に暗さを増していて、思わず足が止まった。行きの記憶を思い出す。少し時間はかかったが、確かに一本道だった。まだ完全に日が落ちた訳ではなく、目が慣れてくると、立ち並ぶ木々や藪によってできた道は、ぼんやりとだが識別できる。気をつけてさえいれば迷う事もない。今ならまだ帰れるはずだ。考えるよりは急いだほうがいい。

 恐る恐る歩き出して、気づけば足早になっていた。進めば進むほど辺りは暗くなっていく。素足で土を踏む感触が気持ち悪い。固い地面を歩いている時はいいが、柔らかく湿った地面を踏む時、虫やよくわからないものがそこから纏わりついてくるように思え、肌が粟立った。

 一歩一歩踏み出す度に、闇が深くなっていく。しばらく歩くと闇に慣れた目も限界だった。日は完全に沈み、周囲に光を発するものは何も無くなっていた。何も見えない。足がどんどん重くなっていき、ついには一歩も動けなくなってしまった。そのまま蹲りそうになる。風で木の葉が鳴るだけで、何か得体の知れない者の気配に感じられた。

 スマホを持ってきている事を思い出し、ショートパンツのポケットからスマホを取り出した。闇の中、手探りで電源ボタンを操作する。スリープ状態から立ち上がった端末画面が光を放ち、その明るさが目に焼き付いて、瞬間、周囲の闇を一層深く重くした。闇は不定の存在で、そこにはありとあらゆる危険が蠢いているような気がした。そこに潜んでいる者を想像し、そして想像すらできず、形にならない物に圧し潰されそうになり、体が震えた。恐怖に耐えながら、スマホの操作を続け、やっとの事で背面ライトをつけて辺りを照らした。意識して息を深くし、気を落ち着けて、周囲に視線を向ける。

 どこだろう、ここは……?

 元々見慣れた場所ではないし、目印になるような物もない道だ。ぐるりと見渡してみても、昼間とは全く雰囲気が違って見え、知らない道に迷い込んでしまったようだった。まさか本当に違う道なのではないだろうか?岩場から山道に戻った時に、うっかり別の道に入ってしまったのだろうか?まだ記憶は鮮明だが、そもそもよく知らない場所の事で、確かな自信は持てない。同じ道だとして、自分は今どれほどの位置にいるのだろうか?あとどれくらいこの闇の中を彷徨えば、知っている世界に辿り着けるのだろう……?

 時間間隔が吹き飛んでいる。どれだけ歩いてきたか考えても、まるで始めからここに置き去りにされていたようで心許なかった。

 カーン……。

 まだ斧の音が響いていた。

 斧の音、人工的な音、人。人がいる。この山のどこかに人がいる。

 意識すると斧の音は相変わらず一定のリズムを刻んでいた。こんなに暗くなったにも関わらず、昼間と変わらず作業を続けている。

 耳を澄ます。やはり音が木霊しているせいで、どこから聞こえてくるのかはわからなかった。

 考えている内に息が詰まってくる。こんな所に一人でいるのはもう限界だった。

 「あ、あのっ……」喉から声を絞りだした。体が震えていて、自分でも聞き取れないような声しか出ない。カーン。鳴り続ける斧の音を確認し、翼はもう一度声を上げた。「あのぉ……っ!」今度は上擦った声が闇の中を突き抜けていった。

 唐突に斧の音が止んだ。わたしの声が聞こえた……?辺りを見渡す。闇が耳を澄ませているような奇妙な静寂。何か反応が無いか、しばらく呼吸も止めて様子を伺った。何秒にも何分にも思える時間が過ぎる。さっきまでしていた斧の音は幻聴だったような気さえしてくる。「誰かいるんですか?どこにいるんですか!?」縋るような気持ちで叫ぶ。何だか馬鹿らしくさえ思えた。声が届くかどうかもわからないし、どんな相手かもわからないのだ……。

 カーンッ!

 突然背後で大きく響いた斧の音に、心臓が凍りついた。

 え、何!?

 ……カーンッ!

 今度は前方から音が響く。

 カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 再開した斧の音はテンポを早めて鳴り続けた。音は強く、距離が近い。咄嗟に音源を探し、スマホのライトを左右に振った。

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 翼を取り囲むように周囲の闇に斧の音が満ちていた。何も見えない。音だけが響き続け、肌を裂くほど空気を震わせている。

 何……?どういうこと?音はすぐ周囲でしているのに、明かりの一つも見えないなんてありうるだろうか?異常だ。何も見えない闇の中で斧を打ち続けるなんて……。

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 異常な斧の音が徐々に激しくなっていく。

 「やめてっ……!」思わず叫んだ。

 カーンッ!一際高い斧の音が背後で鳴り響き、斧の音が止む。

 ……見られている。体中の皮膚が粟立った。

 振り返る。何も見えない。けれど、そこには何かがいる。……人影?

 それが何かもわからない内に前に向かって駆け出していた。斧の音が再び鳴り始める。

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 どれだけ走っても、音は周囲で激しく鳴り響き、気配は常に背後に迫っていた。

 自分が何を見たのか本当にわからなかった。張り出した枝や葉がたまたま何かの形に見えただけかもしれない。それでも何かが自分を追ってきているし、斧の音は鳴り止まない。

 すぐに息が上がり、心臓も肺も破裂しそうになった。体が燃えるように熱く、汗が止まらない。藪に突き当たっても、そのまま通り抜けるしかなかった。どうしたらいいかわからず、いつの間にか涙が溢れていた。

 右足に衝撃が走り、「あっ!」と叫んだ時には、既にバランスを崩していた。地面から剥き出しになっていた木の根に、足を取られたのだとわかった。つま先が痺れ、脚の付け根まで激痛が走った。次の瞬間にはどうしようもなく、地面に倒れ込んでいた。

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 斧の音は際限なく大きくなっていき、他に何も聞こえなくなる。

 顔を上げると、手から抜け落ちたスマホのライトに辺りが照らされていた。周囲は平坦で起伏がなく、幹に醜い瘤がぼこぼことできた太い一本の木だけが立っていて、他には草さえ生えていない。背後には既に気配が迫っていると、なぜか見ないでもわかった。

 逃げようとしても疲労した脚が痙攣し、咄嗟に立ち上がる事もできず、掌と膝をついて、四つん這いで這うしかなかった。

 どちらに行けばいいかもわからず、背後の気配に追い立てられるように、瘤のできた木の根本へと進む。視界の左端に鈍い金属の光がちらついた。斧の刃が闇の中でぶらんと揺れている。脚の痙攣は震えへと変わり、黒くさえ見える斧からただ逃れようと縺れ、木の根元に達した時には仰向けに尻もちをついたような姿勢になっていた。

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 斧の音。

 それに負けない位に激しく、制御不能な心臓の鼓動、吐息。それだけで体が壊れそうになる。

 やだ、来ないで。

 目の前の闇の中に影が立っている。視界にちらついていた斧がはっきりと現れる。

 木に阻まれ、それ以上進めないのに、後ろに退いた。背がごつごつとした幹に触れる。

 来ないで。

 影が、斧の刃が、近づいてくる。

 脚や腕を闇ががっちりと掴んでいるような感覚に、全く身動きが取れない。

 カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 斧の音。

 影が右手に持った斧をゆっくりと頭上へ掲げていく。

 鋭く重く硬い金属塊の前に、どうしようもなく柔らかい肉塊としての自分の姿が、無防備に晒されている。

 やめて。声にならない。

 カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 斧の刃先が天を差し、止まる。それも束の間で、微かに揺らぎ、急加速して振り下ろされる。

 ギロチンの刃が滑り落ちるように、それを阻むものは何もなく、ストンと翼の腹を裂き、臓物を断って、骨を砕いた。

 絶叫。また斧の音に掻き消される。

 カーンッ!

 やがてそれも聞こえなくなる。

 

 揺れている。揺られている?激しい吐息。これは自分のものではない。熱い。瞼を開く。赤い。枝葉の陰のフレームに赤い空が収まっている。視界の右を覆うのは……、喉、頸、顎、これは……、叔父の、「睦……?」

 確かめるように右手で顎の稜線をなぞった。指先に熱と、やすりに触れた様な感触が残る。

 顎が動き、こちらを見下ろした顔と目が合う。……揺れが段々と収まっていき、叔父の口から漏れていた吐息と胸の鼓動が緩やかになっていく。

 「大丈夫か?意識あるか?」

 喉が渇いて張り付いた。「えっと……、わたし……」頭が痛い。影、斧、体が激しく震えた。

 「おい?おい!しっかりしろ!」睦が叫んでいる。

 焦点が定まらない視点の中に現実を探していた。睦の顔、太い腕、その両腕で抱えられている自分の体。ここは、山だ。沢へと続く道?夕暮れの空。腹の上で組んだ両掌の下に、バックライトが点きっぱなしになったままのスマホが挟みこまれている。そしてその下は。震えたままの掌を退ける。シャツの薄い生地が汗で肌に張り付いて、滑らかに丸みを帯びた腹と、臍の窪みを見せている。

 裂け目は……、無い。突き刺さった斧も無い。混乱。「お腹……、斧……」瞳が潤み、余計焦点がぼやける。

 「斧?」睦が繰り返す。

 もう一度叔父の顎に手を伸ばした。頬に触れた。掌にかいた自分の汗と叔父のかいた汗がひとつの雫になって腕を伝い、脇へと流れ落ちてくる。

 「おい、なんだ?どうした?」睦が首を傾げ、赤く染まった耳が近づく。

 「本物」……だ、ここは。

 「何?落ち着け、一旦、降ろすぞ」そう言われ、近くの木の根元に凭れるように降ろされた。しゃがみ込み、顔を覗き込んだ睦の掌が翼の額に触れた。「……わかんねーな。吐き気は無いか?どこか痛いか?」

 辛うじて首を横に振る。吐き気は無い。体はあちこち痛んだが、頭痛は去っていた。

 「熱中症かもしれん。ここで待ってろ、救急車呼んでくる」

 立ち上がろうとする睦の腕を掴む。「……待って、行かないで。もう、大丈夫だから」やっとまともな言葉になった。置いていかれたくない。中腰になったままの叔父の背に縋って、腰を上げる。少しふらつく。足元を見ると素足のままだった。

 「おい、無理するな」腰に手を当て、また抱えあげられた。「わかった。このまま帰ろう」

 「うん」何も考えないようにして答える。

 「一応聞くけど、蛇に噛まれたりした訳じゃないな?」「うん」「蜂とか虫は?」「違う」「……わかった」

 まだ何か言いたげに不安そうに黙り込む。顔を上げ歩き出すと、山の出口はすぐだった。赤みがかっていた空が、また薄墨色に変わっていった。


 6.

 「おい。おい、……起きてるか?開けるぞ?」叔父の睦の声。

 昨夜は遅くまで寝付けなかった。全く寝た気がしなかったし、事実、ほとんど眠っていなかったのだろう。

 「……あっつ。窓開けるぞ。おい、生きてるか?お、い……」睦のがなり声が不自然に萎んでいく。

 体を覆う気配に、翼は薄く瞼を開いた。体はくたくたのままで、まだしばらくこうしていたかった。

 窓を開き、桟に手をついたまま、ベッドの上のこちらに覆いかぶさる格好で睦が固まっていた。翼がその視線の先を追うと、昨夜の蒸し暑さでボタンを外していたパジャマの胸元が、大きくはだけていた。「見ないで」

 「見てない」

 「見てる」慌てて襟を直す。「何で勝手に入ってくるの?」

 「荷物が届いた。お前を呼んだ。返事がなかった。心配になったから入った」

 「それで私の胸見てたの」「自意識過剰だぞ、それ」「自意識過剰じゃない」「すまん、つい」「え、ほんとに見てたの……?」

 「いや、違うんだ。何かわからなかったんだ。虫刺されみたいに見えたからそれで」言い訳がましく言って睦が目を逸らす。

 「見てるじゃん、それ」虫刺され?そんなものに見えるだろうか?

 「……あの、御素麺茹でようと思うんですが、頂きませんか?」

 「わかりました。頂きます」


 翼が顔を洗ってダイニングに向かうと、叔父は宣言通りに素麺を茹でていた。ただでさえ蒸し暑い室内が、鍋の蒸気でますます湿度が上がっている。

 「体調はどうだ?」

 昨夜も家に着いてからあれこれと声をかけられていた。邪険にしていた叔父にそう心配されると罪悪感が湧いてくる。これ以上、そういう気持ちは御免だった。いっそ放っておいて欲しいが、そういう訳にもいかないのだろう。「別に悪くない」翼としては無難に返すしかなかった。

 「そうか」

 「それ、何?」玄関の前を見ると、大小合わせて5つのダンボール箱が折り重なっている。

 「言っただろ。お前の荷物、さっき届いたんだ」

 「え、こんなに?何で?」

 「俺が知るかよ」

 宛名を見ると、確かに母から自分に宛てた物になっている。だが夏の間の荷物がこんなに多くなるはずがない。別の荷物が紛れているのではないかと疑い、一応、他の箱も見てみるが、どれも宛名は変わらない。

 素麺が茹で上がったのか、叔父が蛇口の水で麺を冷やし始める。しばらく母が何を考えているのか考えていた翼も、仕方なく席に着いた。ふと見ると昨日は電子レンジの上に置かれていたオーブントースタが冷蔵庫の脇へと動かされていた。


 食事が済むと釈然としないまま、翼はダンボール箱を部屋へと運びこんだ。中には重い物もあり、睦に手伝ってもらわなければならなかった。翼が夏の間必要な物は、少しの衣類と夏休みの宿題をするための教科書類だけだ。荷物がそう重くなるとは思えなかった。

 借りた鋏でとりあえず一番大きな段ボールを開く。コートや長袖のシャツ、パーカーにセーター、冬物の服ばかりがぎゅうぎゅうに詰められている。意味がわからない。

 別の箱を開く。こちらには夏物と春秋の衣類。

 まるでクローゼットの中身を何も考えずにそのまま詰めたみたいだ。

 必要な分の衣類だけ取り出し、ベッドと押し入れの間に開封済みの二つを重ねて退けた。開いたスペースで残りの箱を開封していく。

 靴、ランドセル、教科書、文具、机の上にあった小物類、本、ゲーム機、手触りが好きで枕元に常に置いていた三角帽子を被った妖精のぬいぐるみ・ムー、いつも着ている着古した部屋着数着。

 出てきた物は教科書を覗けば、どれも翼が頼んだ覚えのない物だ。

 特に薄汚れたムーとボロボロの部屋着は、他人に見せるのも恥ずかしい物なので、送ってきて欲しくは無かった。

 ノックの音がして、慌ててそれらを隠す。「買い物行くけど、何か欲しいものあるか?」

 しばらく身構えたが、今朝の事があったからか叔父に扉を開ける気は無いようだった。

 「……エアコン」

 「無茶を言うな」

 「机、お菓子、アイス、テレビ、ゲーム、シャンプー、リンス」さっきまでドライヤーも欲しかったが、それは目の前に陳列されていた。母と共用していた物だ。

 「アイスは冷凍庫にあるから勝手に喰ってくれ。むしろ喰ってくれた方がスペースが空くから助かる」

 「わかった」

 「他は考慮するが、シャンプーはまだあっただろ?」

 「あれはシャンプーじゃない。荒縄でも洗ってるの?」

 「……わかった、考慮する」

 「あと、洗濯したい」

 「洗濯機の使い方はわかるか?」

 「うちではやってたから、多分わかる」

 「なら好きにしてくれ」

 「わかった」

 睦の気配が扉の前から消え、しばらくすると車のエンジン音と砂利をタイヤが踏む音が聞こえた。どうせなら、ついていけば良かったかもしれないと、翼は少し後悔した。あの叔父は放っておいたらどんなシャンプーを買ってくるのかわかったものではない。むしろ、誘ってくれれば良かったのだ。……そうすれば少しは気が紛れる。

 あれは夢だったのだろうか?

 そうに決まっている。それ以外に説明しようがない。

 今までにあんな夢を見た事があるか?

 何にだって初めての経験というものはある。

 きっと人生で一番最悪な悪夢は、ああいうリアリティのあるものなのだろう。

 斧を持った影に追いかけられるリアリティ?さっぱりわからない。

 けれど何もかもが現実に思えた。

 体が震えそうになる。止めよう。まだ思い出したくない。思い出す意味も無い。耳の奥にカーンという、あの斧の音がまだ張り付いて、鳴り響いている気がしてくる。

 翼は箱から出した物を適当な場所に収めると、二日続けて着ていた汗臭いパジャマを脱ぎ、箱から出したばかりの服に着替え、外に出た。洗濯機の蓋を開ける。昨日のシャツが土埃に塗れたままそこには残っている。


 「何やってんだ、お前……?」

 椅子に膝を立てて座っていた翼は、咥えていたアイスの棒を灰皿へ捨て、卓の上に置いておいたTシャツを摘まみあげた。「ねぇ、これ、どういうこと?」

 「どうって、どういうことだ?」帰宅して早々、玄関に立ったままの叔父からほとんど繰り返しのような返事が返ってくる。

 「何でこんな汚れてるの?」

 「え?何だ?俺は何も知らないぞ?」

 「それにサンダルも無い」それから脛についた無数の細かい傷。多分、藪を通り抜けた時についたものだ。

 「俺の水筒も無い。お前が沢に忘れたんじゃないのか?」そう言い、睦は買い物袋を冷蔵庫の前に運び、背中を丸めて、中身を冷蔵庫に移し始めた。

 「近くに無かったの?」背中に向けて問う。

 「近くって……、あの時は焦ってたからな。道の真ん中に倒れてるお前を見つけて、他はあまり見てなかった」睦が顔だけこちらへ向けて答える。

 「道の真ん中……?」

 「あ?ああ。暗くなりそうだったから、心配になって迎えに行ったら、お前が沢の途中の道で倒れてたから」

 「何で?」

 「いや、……だから、何でって、何で俺に聞くんだ?」

 「そっか」そうかもしれない。

 「え?え?どうしたんだ、さっきから?」荷物を放り、熱でもあるのか、とでも言いたげな視線を叔父が投げかけてくる。

 「サンダル、取りに行く」

 「お、おう」

 戸惑っている叔父を尻目に翼は部屋に行き、箱から出したままになっていた靴を取って戻った。

 睦はまだ開けっ放しの冷蔵庫の前で呆けている。「ねぇ、一人で行かせていいの?また倒れるかもよ」

 「え?は?まぁ、……そうか。いや、……え?今すぐか?」

 「うん。早くしないとまた暗くなる」

 「……お、おう」

 今から出れば暗くなる前に充分帰ってこれるはずだ。流石に昨日の様な事は御免だ。

 玄関で靴を履きながら睦が慌てて冷蔵庫に物を詰めるのを待つ。手際はあまり良くなかった。


 先を歩く叔父の背を見ながら、これは本当に叔父の睦だろうか、と翼は考えていた。

 一人では心細くて連れ出した叔父だが、結局はよくわからない他人のままだ。こうして顔も見ずに黙って歩いていると、全くの別人にすり替わっているのではないかと不安になってくる。

 もちろんそんな事が無いのはわかっている。現実が強固である事を翼は既に知っていた。ある日突然翼の世界から蒸発するようにして消えた父は、その日以降決して記憶の外では形となる事は無かった。そして、この頃は記憶の中ですら曖昧な姿をしている。

 「お前、やっぱ……、えっと、姉さんに似てるな」木漏れ日の中を先に行く叔父の声。

 「え?」

 「顔の造形が過剰にいいところとか、目つきが怖いとことか」

 確かにこれは叔父の睦の声だ。別人にすり替わってなどいない。顔を見なくても、記憶の中の叔父の声や話し方と一致している。出会ってからまだ二日程度しか経っていないのに、しっかりと憶えている。父の声や話し方など、もう思い出せない。

 「……あと、自分の世界に入っちゃってて何考えてんのかわかんねーとこと、強引なところ」

 「あー、わかる。お母さん、ほんとそういうとこある」

 「……」

 母に似ていると言われたのは初めてだった。そもそも母と翼の両者を知っている人物がほとんどいないのだから、それは当たり前かもしれない。しかし、翼にはそうは思えなかった。

 自分は母ほど強くはないし、性格も悪くない。

 「ん、確かこの辺だ。お前が倒れてたの」そう言って睦が立ち止まる。

 辺りはこの道のどことも大して変わりがなく、叢が薄く、地面がほぼ剥き出しになっている。左右を疎らな藪と低木が並び、太い木の根が一本、道に這い出していた。

 「……これ」その太い木の根には見覚えがある気がした。思い出すと靴の中で右足のつま先がジンジンと痛む。いや、見覚えなんてある訳がない。こんな木の根、この道のどこにでも顔を出していた。第一、あの時は暗かったのだから、そんなものが見えている筈もないのだ。暗かった?日が暮れたのは睦と共に睦の家へと帰り着いた時の事だ。一日に二度も日が沈む筈がないし、丸一日倒れていた訳でもない。だから何もかもがおかしくて、夢の中での出来事でなければ説明がつかないのだ。

 ガサガサという藪を掻き分ける音がして、我に返る。

 音の方へ顔を向けると、「片方、見つけたぞ」と言って睦が仁王立ちしていた。

 一瞬、何の事だかわからずにいたが、叔父の頭の上を見ると、無くした右側のサンダルが乗っかっていた。

 「何、してんの?」

 「いや、何か難しい顔してるから少しふざけてみたんだが、面白くなかったか?」

 「うん。おもしろい」真面目な顔で聞かれたせいか、思わず吹き出しそうになっている。「おもしろいから、ちょっとそのままでいて」

 「あ?ああ」

 スマホを取り出し、急いで撮影した。笑いを堪えているのを極力顔に出さないようにしたが、手が震えそうだった。撮影した写真がブレていない事を確認すると、もう堪えきれなかった。サンダルを乗せた叔父を直視できなくなり、俯いて口を押さえたが、変なツボに入ってしまい、返って声が漏れてしまう。

 「おい……、そんなでもないだろ」

 「う、うん。うん。そんな、でもない。馬鹿らしい」

 「やめろ。笑うな」

 「なっ、はっ……、無理。ひ、ひひ。後で、お母さんに、送っとくから」

 「おい、それはマジでやめろ!」


 「……見つからん」藪を覗き込んでいた睦が顔を上げる。「お前、どんな歩き方してたんだ?天気でも占ってたのか?」

 呆れた調子でもう片方のサンダルを探し始めた叔父をしばらく笑いながら眺めていたが、見つかるはずがない事は既に翼にもわかっていた。「ううん。ここら辺じゃない」ようやく笑いが収まって、そう声をかける。

 訝しげな視線が返ってくる。

 「多分、沢。行こ」

 「……あ?お、おう」

 先程とは違い、翼が前を歩いた。それほど時間もかからず、昨日と変わりのない岩場へと辿り着く。足元に気をつけながら斜面を下り沢へ降りると、少し遅れて、危なっかしい足取りで睦も斜面を降りてくる。

 昨日腰かけていた平たい岩の上に、睦の水筒がそのまま残っている。追い付いてきた睦がそれを拾い上げる。

 「ごめん。普通に忘れてた」

 「いや、戻ってくれば問題ない。サンダルは?」

 「うん」辺りを見渡した後、靴を脱いで沢の流れに入った。浅い水底の砂利を踏んで下流へ少し行くと、翼が座っていたのと同じような大きさの岩が流れの中にある。昨日は視界が悪い中、焦って探したから見つからなかったのだろう。身を屈めてその岩の下を覗き込むと、左のサンダルが岩と岩の間に挟まっているのがあっさりと見つかった。「あったよ」水からサンダルを引き上げ、岩の上からこちらを見守っていた叔父に掲げて見せる。一晩水に曝されていたが、特に痛んでいる様子は無い。

 翼は水から上がり、叔父が見つけた右のサンダルを受け取って、履いてきた靴の代わりにそれらを履いた。黄色いリボンが付いていて、イリデッセンス・フラワーという気に入っているブランドの物だった。去年買ったばかりでまだ小さくなっていない。

 「よかったな」

 「うん」

 悪い事ではない。もちろん。揃えてあった靴を拾う。「どうした?」様子を伺う叔父の声。

 納得がいかない。斧を持った影に追われた記憶。ただ道端で倒れていただけだという現実。折り合いのつかない二つの出来事が半々に存在しているような奇妙な感覚。嫌な胸騒ぎがした。

 目を瞑って耳を澄ませた。静かだ。微かな風の音、水が岩を洗う音、時折混ざる虫や鳥の声。……カーン。

 そして、斧の音。

 ……カーン。……カーン。……カーン。

 どこか遠く、山のどこかで斧の音が鳴っている。それは小さく、あまりに小さすぎて意識を集中させても聞こえているのか最初は自信が持てなかった。

 ……カーン。……カーン。……カーン。

 でも、聞こえる。確かに聞こえる。斧の音はまだ鳴り続けている……。多分、ずっと鳴っていたのだ。今まで気が付かなかっただけで……。

 「斧の音、聞こえない?」

 「斧の音……?」

 「うん。ほら、耳澄ませて」

 叔父が渋面を作って、中空を見上げる。……カーン。「いや、……何も聞こえないが」

 「うそ、今鳴った」

 「本当か……?」

 「うん」……カーン。

 「……いや、わからないな」叔父が渋い顔のままこちらを見る。「聞き間違いじゃないのか?」

 「ううん。本当にするの。どこか遠く、山の中から」

 「斧なんて今どき使わないだろ」

 「そうなの?」

 「いや、知らんけど」

 「……木を切るのに、使ったりしない?」

 「口笛はなぜ遠くまで聞こえるか知ってるか?」

 「今、そういうのはいい」

 ……カーン。斧の音が続く。


 7.

 朝食が済むと、睦は黙ったまま出かけていった。車の音がしなかったので、家の周りで何かするのかと翼は思ったが、随分と長い間戻ってこなかった。

 つけっぱなしになっていたダイニングテーブル上のポータブルテレビの電源を落とす。さっきまで観ていた情報番組の内容は、もう何も思い出せなかった。その代わりに斧の音が翼の思考を埋めていた。

 山で気づいた斧の音は、今もまだ鳴り続いている。今朝になって分かった事だが、少しずつ音は大きくなってきていた。

 部屋に戻り、窓を開けて扇風機をつけた。どこかの調子が悪いのか、ぼぼぼぼと、羽を回すと喧しい異音がした。睦が考慮すると言って用意した中古の扇風機だった。同じように昨日用意された折り畳みの丸い座卓の前に座り、教科書を開く。

 プリントと見比べ、夏休みの宿題を把握する。頭を使うような事をする気にはなれず、単純作業で済む漢字の書き取りを始める。集中力が5分ともたず、気づけばムーを抱いて、スマホを弄っていた。

 メッセージアプリで昨晩母に送った睦の写真には、まだ既読がついていない。

 動画サイトを開き、ほとんど興味の湧かない動画を義務的に視聴する。扇風機の異音のせいで、音声が聞き取りにくい。おかげで斧の音も気にならなくなっていた。

 斧の音は耳鳴りとは違い、耳を塞ぐと聞こえなくなる。それは不思議な事では無いはずだが、音源をリアルに感じさせて嫌だった。何かが今も山のどこかで斧を木に打ち付けている。

 扇風機の異音にガラリという玄関の開く音が混ざった。いつの間にか動画の再生は終わっていて、他は何も観る気が起きない。

 翼が台所へ向かうと、睦がスーパーの袋から野菜を取り出して、テーブルに並べているところだった。

 「無言で帰ってくるの止めてよ。知らない人が入ってきたんじゃないかって不安になる」

 「ん、ああ。すまん」

 茄子に胡瓜、トマト、トウモロコシと順に広げた後、睦がそれらの入っていたビニール袋をくしゃくしゃにして丸め、ゴミ箱に放り込む。翼の家ではビニール袋は三角に折り畳んで保存していたので少し気に食わない。

 「買い物行ってたの?」

 「いや、ゴミ出しに行ってたんだ」

 「ゴミ出し?」

 「ああ。ここちょっと遠いんだ。ここまで取りに来てくれないからな。前の通りを行くと家が何件かあるって言っただろ?そっちで出さなきゃダメなんだ」

 「それで、これ?」翼は視線で野菜を示す。

 睦が少しうんざりした顔をする。「いや、ここの家主の婆さまに捕まっちゃってよ。それで貰ったんだ。あの人、いい人なんだけど話が長ぇんだよ……。おまけに道端にでけえ木が倒れてて邪魔だったから、それどかしてたらこんな時間に」

 「ふーん」それでこれだけ野菜が貰えるのなら別に悪い話にも思えない。

 「お前、嫌いな野菜とか無いのか?」

 「え?無いけど?」

 「へぇ、舌が鈍感なんだな」

 「はぁ?」思わず眉根が下がる。

 「いや、子供って味とか臭いに敏感で、苦かったり香りが強い野菜喰えなかったりするじゃん」

 「野菜が食べれてディスられるとか初めてなんだけど……」それに舌には自信があったのでかなり心外だった。

 「ちなみに俺、トマト苦手だから喰ってくれ。あのぐちゅぐちゅぬるぬるした感じが駄目なんだ」

 「子供」

 「舌が繊細なんだ」

 「一応言っておくけどわたしも嫌いなもの、あるから」

 「へぇー」

 「蒟蒻」

 「は?」

 「独特な臭みとブルンってなる食感が無理」

 「意味わかんねぇ……。じゃあ、ゼリーとかも無理じゃん」

 「ゼリーは全然臭くないし、ブルブルもしてないでしょ。それに好き嫌いは舌の出来不出来とか関係ない」

 「お、おう」

 結局話はお互いトウモロコシは好きだという事に落ち着き、昼食にはまだ早かったがトウモロコシが茹でられた。

 食事中、翼が扇風機の異音でスマホの音が聞き取れない話を持ち出すと、先に食べ終えた睦が部屋からイヤホンを取って戻る。睦の部屋は明かりが消されていて、わざわざ襖を薄く開いて出入りするので、中がどうなっているのか翼からは見えなかった。

 「ありがとう」一応礼を言ってイヤホンを受け取る。

 「予備のだから返さなくていいぞ」

 「うん」始めはどこであんな不良品を掴まされてきたのか文句を言うつもりだったが、タイミングを逸してしまっていた。


 いつの間にか雨が振り出していた。裏山の木々や屋根の庇をすり抜けてきた雫が、網戸で弾け、窓枠を濡らしていた。もう夕方になっていた。

 窓を閉め、イヤホンを外す。部屋に戻った後も宿題には集中できず、ベッドで横になって、最近気に入った”赤い戦車”という曲をリピート再生して聞いていた。たまたま動画サイトのおすすめに出ていて聞いた曲だったので、どういう曲なのかはわからない。ジャケットは気持ち悪く、あまり明るい雰囲気の曲調でもなく、かと言って暗い曲でもない。とりあえず今の翼の気分に合っている事は確かで、聞いていて不快ではなかった。

 イヤホンを外した途端、ぼぼぼぼという扇風機の異音がまだ続いていたのを思い出す。

 ……カーン。そして斧の音の事も。

 音は確実に大きく、もしかしたら近くなっていた。扇風機の異音と雨音の隙間を縫って、呪いの様に微かに響く。

 頭痛がする。イヤホンの音が大きすぎたのかもしれない。

 部屋は蒸していて、扇風機も煩いだけで、送られてくる風はずっと温かった。喉が渇いていて、何か飲もうと翼は部屋を出た。

 ダイニングは静かで、睦はいない。冷蔵庫から麦茶を出す。蓋を閉じるまでの間に漏れた人工的な冷気が心地良かった。こんなエアコンも無い場所に夏の間中いたら参ってしまう。斧の音より深刻な問題かもしれない。

 麦茶を立ったまま飲み、使ったグラスを濯いだ。蛇口を閉めるとまたダイニングが静かになる。カーン……。静かになると結局、斧の音を意識してしまう。

 斧の音について真面目に考えるべきなのだろうか?山での事は思い出したくなかったし、思い出しても無駄に思えた。何もかもが不条理で、物事は一方的だ。そもそも山で起こった事と今聞こえている斧の音が全くの無関係である事もあり得る。やはりどこかで誰かが斧で木を伐採していて、その音が聞こえているだけではないのか?それなら何の問題もない。翼が暮らしている川崎のマンションでは四六時中、車や列車の走行音が聞こえていた。騒音として考えたら斧の音は風鈴の音色のように風流で無害な部類だ。

 本当にそうか?

 夜中になっても斧の音は聞こえていた。おかしい。斧の音は翼が意識している間、一定の間隔で休みなく続いている。おかしい。

 それに昨日睦に言われたように、今どき斧なんてやはり使っていないだろう。

 楽観しようとしても、自分で自分を説得できない。否定的な材料が次々頭に浮かび、一昨日の体験がフラッシュバックして息が苦しくなった。自分は今、安全な所にいる。そう思いたくて、キッチンを背にし、薄暗い室内を見渡した。危険なものは何もない。

 ……カーン。

 遠くで斧の音がするだけ。

 長い時間かけて気を落ち着けた。意味を無視すれば、その間聞こえた斧の音はむしろ鎮静剤のようだった。

 ずっと意味もなく握っていた空のグラスをカゴに戻す。廊下の向こうで閉じている襖の先の空間を意識する。

 静かだ。翼がダイニングにいる間、斧の音と翼自身が立てる物音以外何もしなかった。叔父はいないのだろうか。部屋に居た時はイヤホンをしていたので出かけた気配を感じなかったのかもしれない。

 一人でいるのが嫌だった。

 「睦」キッチンから控えめに声をかけた。反応は無い。「睦、いないの?」今度は大きめに声を出す。同じように反応は無い。

 本当にいないのかもしれない。

 用がある訳ではないので、それならそれで仕方無かったが、居るか居ないかははっきりさせようと部屋に戻りがてら襖の前に立った。

 「睦」もう一度声をかける。ノックをしようか、握りこぶしの甲を前にして手首を上げていた。襖というのはノックするものなのだろうか?そういうものには思えない。家に襖の個室は無かったので、今まで考える機会もなかった。

 ひんやりしている。

 どうしようか逡巡している内にその事に気づいた。襖の隙間から、冷気が廊下に漏れ出ている。

 襖を開ける。


 四枚並んだ襖の内、真ん中の二枚を左右に開いた。雨のせいで薄暗かったが、廊下側から差す光でも、電気が消された部屋の中の様子が充分わかった。

 散らかっていて床はほぼ見えない。奥行きはダイニングよりあるが、左右の壁を埋める棚や部屋のほぼ中央に置かれた座卓で窮屈に感じる。棚は座卓の向こうや、廊下から見て右手の奥にもあり、大きな棚と小さな棚が乱雑に並び、積み重ねられている。

 マンガ、小説、画集、写真集に、一見して翼には内容のわからない難解そうな書籍、図書室で見慣れたハードカバーの児童書、絵本、アニメや映画のディスクメディア、CD、ゲーム、唐突に現れるぬいぐるみに、シルバニアファミリーのお家、お菓子の箱、スノードーム、空き缶、ガラス瓶、その他得体の知れない物。戸のついていない安物で不揃いな棚の中には、それらが無秩序に収められている。

 そして中央の座卓の上には小さな街がある。何の面白みもない現代風の住宅と、ビルや商店が並ぶ模型の街の中で、小さな人形が生活している。ジオラマという物かもしれない。それは大きな座卓の半分以上を埋めていて、残ったスペースには閉じられたノートPCが置かれていた。

 座卓で仕切られた部屋の左側には布団が敷かれていて、そこに半裸の睦がタオルケットを体に絡ませ、胎児のように丸まって気持ち良さそうに眠っている。

 部屋に上がり、睦の頭の傍で膝をつき、顔を覗き込む。「起きて」軽く頬を叩いた。

 「んぅ……?」

 もう一度、優しく頬を叩く。「ねぇ、起きて」

 薄く瞼を開いた睦が寝返りを打ち、こちらに気づいた。丸く見開いた瞳と目が合う。

 「おはよう。ここ、涼しいね」

 「お前、勝手に……」

 「電気、つけるね」立ち上がり、天井から下がった蛍光灯の紐を引く。明るくなった部屋の中で翼は視線を一巡させた。改めて見ても、とても大人の部屋とは思えなかった。かと言って子供の部屋のようにも見えない。何かのお店の倉庫に人が勝手に住み着いてしまったような部屋だ。もしくは何か特殊なシェルタか。

 奥の壁の天井付近にエアコンを見つける。エアコンは今も稼働していて、冷たい空気を絶え間なく吐き出していた。

 「……人の部屋に勝手に入るのは、あまり感心しない」

 「睦もわたしの部屋に入った」

 「あれは心配になったからだし、そもそもここは俺の家だ!」

 「エアコン」

 「……エアコンぐらい、この家にだってある」

 「この部屋にしかない」半身を起こそうとする睦に、しゃがんで目線を合わせる。「ずるくない?隠してたでしょ?」

 「い、いや、隠してた訳じゃ……」

 「本当に?なんか、部屋に出入りする時、いつもコソコソしてた」

 「それは……、散らかってるから」

 「家の裏通った時も様子おかしかった。あれ、室外機隠してたの?」

 「違う、ゴミ袋がなんか慌てて片づけたみたいになってたから」

 「熱中症がどうとか、一昨日はすごく心配してくれてるのかと思ったけど、自分は一人、涼しい部屋でぐっすり寝てたんだ。わたしは暑くて寝苦しくて大変だったよ」

 「いや、でも、ここは俺の部屋だし……」

 「お腹空いたな」

 「は?」

 「美味しいもの、食べに行きたいね」

 

 何となく裏切られた気分になって、翼は薄暗い窓の外を眺めた。止むことなく激しくなった雨が車の窓を叩いている。車は駅前の通りに向かって、休耕沿いの砂利道を走っていた。

 「あれ、どこの街なの?」

 運転席の睦から答えが返ってくる。「……どこでもない街だ」

 「作ったの?」

 「……一応。建物や人は既製品だけど、並べたのは俺だから、そう言えなくもない」

 「何のために?」

 「いや、別に理由はない。シルバニアファミリーを集めてたら、何かリアルなのも作りたくなったんだ」

 「まずそこがわからないんだけど。何でシルバニアファミリーなんかあるの?家にだって無いよ」

 「いいだろ。子供の頃買ってもらえなかったんだ」

 「……欲しかったの?」

 「欲しかった。けど、言い出せず買ってもらえなかった」

 「それ、買ってもらえなかったのとは違くない?」

 「言ってもどうせ買ってもらえなかったから言い出せなかったんだ。だから買ってもらえなかったで合ってる」

 「邪魔だからどけて」

 「何でだよ!邪魔じゃないだろ!可愛いだろ!」

 運転席に顔を向ける。「そっちじゃない。街の方。机が無かったら、わたしが寝るスペースできるでしょ?」

 「な、何言ってんだお前」

 「今日からわたしもあの部屋で寝る」

 「……な、何言ってんだお前?」

 「耳が遠いの?それとも日本語忘れたの?」

 「聞こえてるし、日本語もまだ憶えてる。正気の発言とは思えなかったから聞き返しただけだ」

 「睦もエアコン切って一晩過ごしてみたらいいよ。正気じゃなくなるから」

 「大袈裟だな。……俺が子供の頃は部屋にエアコンなんて贅沢な物、無かったぞ」

 「何年前の話?今は昔より猛暑日も熱帯夜も増えてるの。一緒にしないで」

 「お、理屈。正論が正しいのは子供の内だけだぞ、覚えておけよ」

 「……知ってる」

 「そうか。賢いな」

 「ねぇ、本気で言ってる」

 「わかったよ……。考えておく」

 「それじゃ、遅い。今日から寝るって言ってるじゃん」

 「お前、強気過ぎるだろ……。いや、いいよ。了解した。しました。違うんだ。考えるって言ったのは街をどう片すかとか、お互いのプライバシーをどう保護しようかって、そういう具体的な方法の話だ」

 「そ。ありがとう」

 「おう。一生恩に着てくれ」

 「考えとく」

 車が休耕地を抜け、橋を渡る。川沿いの通りを走っている車たちは雨の所為か、日暮れ前なのにライトを点けて走っている。通りの向こうに並ぶ民家にも既に灯が灯っていて、その光景にほっとさせられた。山と枯れた田畑が広がる景色は、翼にはむしろ狭苦しかった。ごみごみと込み入った文化的な景色の方が伸び伸びと感じられる。

 交差点で信号待ちをしている間に、翼は助手席の窓を開けた。空模様の割には雨は小降りになってきていた。「何してんだ?」

 「何でもない」しばらく忘れていた斧の音を確かめていた。

 ……カーン。

 音は意識しないと聞き取れない程、また弱まっていた。山から離れたからかもしれない。山で音が鳴っているのだとすれば当然の事で、そもそもここまで聞こえている方がおかしいのだろう。「それで、何で口笛は遠くまで聞こえるの?」

 「え、今更か?……色々理由はあるみたいだが、口笛の音の波形が澄んでいて、かつ子供の声に近い、人が聞き取りやすい音域の音だからってのが定説だな」

 ぴゅうと口笛を吹いた。「よくわからない」少なくとも斧の音がこんな所まで届いている理由とは関係無さそうだった。斧の音の波形が澄んでいるのかはわからないが、子供の声に近いとは言えないだろう。

 信号が青に変わる。車は進まない。振り向くと睦がこちらを見て口を開いている。「口笛が、吹けるのか……?」

 「え、……吹けるけど?」もう一度、口笛を吹く。「ねぇ、信号、青いよ」

 「あ、ああ……」と、狼狽えたように睦が呟き、車は前に進み出した。「俺は、吹けない……」情けない顔をして窄めた口から、フスフスとみっともない音を漏らす。

 本人は真剣に口笛を吹こうとしているようだったが、おかしくて少し笑ってしまう。「ちゃんと舌使ってる?」

 「煩い。やり方は知ってるんだ。でも鳴らないんだ!」またフスフスと音が鳴る。

 「不器用」翼も口を窄め、今度は”猫ふんじゃった”を口笛で吹いてみせた。

 「止めろ!ピーヒャラピーヒャラ、口の中に鳥でも飼ってんのか?」悔しそうに喚く。

 「危ないからちゃんと前見て運転してよ」車は既に駅前の大通りを進んでいて、小さな商店がチラホラと現れている。ここに来てから通りを見るのはまだ二度目で、一度目は昼前の早い時間だったため新鮮味がある。翼が駅を降りた時はシャッタを閉めていた店も多かったが、時間帯が変わったためか、飲食店を中心に店が開いていた。寂れてはいるが、大分印象が良くなる。気になる店も幾つかあった。「どこ行くの?」そう聞くと、睦はまだ唇を尖らせている。拗ねているのかもしれない。

 「いや、まだ決めてない。何がいいんだ?」

 「うーん……。中華」

 「中華!?」

 「うるさいなぁ……。そこ、驚くとこ?」

 「いや、だって、中華って、あんな何入ってるかわからん得体の知れないもの。何喰っても何喰ってんだかわかんねー」

 「味音痴?」

 「違う。俺はシンプルな食い物の方が好きなんだ」

 確かにシンプルとは対極にあるメニューの方が多いかもしれない。「お母さんが好きで良く行くんだ。お母さんのストレスが溜まると中華が食べれる」

 「それは……、初耳だな。知らなかった。……へぇ」

 しばらく駅の周辺を周ったが、中華料理の店は無かった。もっとも近いのは鄙びた中華そば屋で、両者一致で見送りになり、車は大通りからバイパス道へ入り、そのまま国道を走った。その頃には完全に日は暮れていて、雨も止んでいた。郊外にまで出ると大型の店舗が道沿いに並び始め、それら目につく物について二人で他愛のない会話を交わした。結局入ったのは大手のチェーン店だったが、特に不満は無かった。食事をしながら、睦の部屋で寝る際や、生活全般についての取り決めを話し合った。夜寝る時以外は自分の部屋を使う事、昼間勝手に部屋に入らない事を条件に、翼は睦の部屋で寝る正式な了承を得た。

 「ねぇ、……睦はわたしの話聞いてるの?」

 「は?聞いてただろ?」

 「いや、違う。……うーん。いいや」

 「何だ?」食事を終えた後、そのまま家には帰らず、車は24時間営業のショッピングセンターへ向かった。

 カーテンと折り畳みのマットレスを買い、家に着いてから街の模型を片し、座卓を縦に立てて、部屋をカーテンで区切った。

 「ジェリコの壁だな」「何それ?」「……そういえば何なんだろうな?」「わたしが聞いてるんだけど……?」

 電気が消える。壁側は全て棚がせり出しているので、狭苦しく、マットレスが横に広がり切らない。睦はまだしばらく起きているようだったが、翼は部屋からこっそり持ち込んだムーを抱いて、新品のマットレスの上で目を瞑った。不思議と落ち着いて、何も気にならず、ぐっすりと眠る事ができた。


 8.

 作業着姿の男が斧で木を打っている。耳慣れてしまったカーンという音が響く。その音に呼応して、また別の場所でカーンという音が響く。また男は木を打つ。そしてまた別の場所でカーンと音が響く。男が斧を振る度、音が増える。男がこちらに気づく。顔が暗くてよく見えない。顔など元々無いのかもしれない。男は斧で木を打つのを止める。それでも木を打つ音は止まず、どこからか一定のリズムで聞こえ続けている。男が近づいてくる。わたしは身の危険を感じ、走り出す。山の中、地面は平坦ではないし、木々が邪魔をして真っすぐ走れない。体が重い。空気が粘ついて絡めとられるようだ。男がどんどん近づいてくる。木陰から湧き出すように斧を持った男が増えていく。駄目だ、思うように走れない。思うように動けない。気持ちは走ろうとしているのに、金縛りにあったように時が止まる。わたしの時間だけが止まる。片足を上げ、腕を振り上げた間抜けな格好のまま、倒れもせずに固まったわたしの周りに、斧を持った男たちが集まってくる。足元の木の根が動き出し、わたしの脚に絡みついて、わたしを倒す。わたしはハッハッと夏の犬みたいな息をして目だけをぎょろぎょろ動かした。他の部分は全く動かないのに、目玉だけはよく動く。そう気づくと、私の意志とはもう関係なく目玉は動いた。勝手に動く二つの目玉によって、男たちがわたしを取り囲んでいるのが見える。左右の目玉がてんでばらばらに動くので目が回りそうだ。気持ちが悪い。男たちは手術をするみたいにわたしを仰向けにし、斧をゆっくり振り上げた。わたしの激しい呼吸音とカーンと響き続ける斧の音。それらが重なり合った瞬間、斧が一斉に振り下ろされる。ガツンという衝撃。血。わたしは落下していた。男たちがわたしごと地面を叩きわったんだ。わたしはその深い穴を落下している。わたしはまだ荒い息をしている。手足がばらばらになりそうな着地による二度目の衝撃。ここは?白い屋内。多分、ダイニングだ。川崎の家でも睦の家でもない、知らない家。斧男たちの数はまだ増えていて、家の外でわたしを探している。見えもしないのにそれがわかった。わたしは怖くなって、丸くなる。「……お母さん?」呟くと母の姿が食卓の脚越しに見える。母は斧を持っている。母の足元に誰か倒れている。一人ではない。二人。母がわたしに気づく。「何で笑ってるの?」聞くが母は何も答えず、手を振って窓の外に消えていく。わたしは倒れている二人が誰なのか、顔を覗き込む。5年前に死んだ父の顔。窓から出て行ったはずの母の顔。意味がわからない。家の外では斧男たちが巨大な芋虫みたいなものになって身をくねらせて、今も増え続けている。


 9.

 「おい、起きろ」その声でまさに目が醒めた。

 睦の部屋。買ったばかりのマットレスからは何かケミカルな臭いがしている。声がした方へ翼が顔を向けると、薄暗い中、睦が部屋を区切ったカーテンを潜って頭だけ出していた。

 「……また勝手に覗いた。それじゃカーテンの意味無いじゃん」

 「ジェリコの壁はエリコの壁とも言って、聖書の逸話に登場するエリコの街の城壁の事らしい。エリコの城門は硬く閉ざされていたが、イスラエルの民が契約の箱を担いで七日間周囲を廻った後、角笛を吹いたら壊れた。だから細かい事は気にするな」

 「わたしが眠っている間、馬鹿みたいにぐるぐる回って角笛を吹いてたって事?」

 「かなりうなされてた。悪い夢でも見てたのか」

 「別に……」

 「……そうか。悪かった」

 そう言ってカーテンから引っ込もうとした睦の動きが止まる。どうしたのかと、視線の先を追う。昨日のようにパジャマがはだけている訳ではない。そもそもパジャマを着る事自体面倒くさくなってしまい、昨日は部屋着一枚で眠っていた。

 ようやく睦が何を見ていたのかがわかる。両腕で抱えていたムーの頭がブランケットから飛び出していた。

 「何……?」

 「いや」

 「別にいいでしょ。手触りが好きで枕替わりにしてるの」

 「汚れてるな」

 「放っておいて」

 今度こそ睦がカーテンの向こうへ消える。「まだ眠いんなら寝てろ」襖が開く音がして、部屋に一瞬だけ明かりが差す。そう早い時間でもないようだった。明かりが消え、睦が部屋を出ていったのがわかった。

 眠気は完全に覚めていたが、夢の内容が気にかかって、翼はまたブランケットに包まった。さっきまであんなに鮮烈だったのに、もう筋がぼやけ始めている。山で起こったような現実なのか夢なのか判別がつかない感覚は無く、はっきりと夢だとわかった。けれども、凄く嫌な感触の夢だった。斧を持って追ってくる凶暴で理不尽な男たち、血、知らない家、死体、母、芋虫のようになった男たち。登場した記号はどれも強烈に頭に浮かぶが、意味は分からない。なぜ夢の中ではそんな光景がリアリティを持って感じられたのか、皆目見当がつかなかった。しかし、夢とはそもそもそういうものなのだろう。釈然とはしないが、考える事を止めて起きようとし、耳を澄ませた。もう習慣になり始めている。カーン。やはり斧の音は大きくなっている。今、それはどの辺りにいるのだろう……。睦が焼くトーストの匂いがする。


 翼が顔を洗ってダイニングに行くと、トーストが丁度焼けたところだった。冷蔵庫脇の床に移動されたオーブントースタの前にしゃがんでいた睦が、焼きあがった2枚の食パンを摘まみ上げ、廊下側の椅子に座る。今日はきちんと皿を用意していた。「両方俺の分だからな」まだ何も言っていないのにそう主張する。

 「いいよ、自分でやるから」

 「生が好きだったんじゃないのか?」怪訝そうな顔。

 「何の話?」

 テーブルの上の袋から食パンを取り出し、トースタにかけた。消費期限が切れていない新しい食パンになっている。手触りが違う。「そうだ。卵、焼こっか?」

 「は?」

 「は、って何?」

 「卵、焼くのか?」

 「うん。甘いの焼く。美味しいよ」

 「お、おう」

 キッチンに立ち、いつから使っているのか分からない真っ黒なフライパンを火にかけた。テーブルの上にあるトーストに使ったマーガリンを、ひとかけフライパンに移し、冷蔵庫から卵を3個取り出す。冷蔵庫を開ける度に賞味期限が切れそうで気になっていた卵だったので、無くなってほっとする。

 「そんな心配そうに見ないで。うち、母子家庭」

 「なるほど……」睦は納得した声を上げたが、まだそわそわしてこちらを見ていた。

 家で使っているようなボールも無いので、マグカップで代用する。小気味よく卵を片手で割ると、睦の視線が変わったのがわかって少しむず痒かった。卵を箸で溶き、目分量で砂糖と塩を加える。こうしていると、この家での自分の領土が増えたみたいで気持ちが落ち着いた。川崎の家のキッチンと繋がっているような気がする。夢で見た母の姿がちらつく。フライパンに卵を移し、箸で手早く混ぜて全体に軽く熱を含ませてから、火を弱めそっとする。その間にマグカップを洗い、皿を用意した。甘い匂いが立ち込めてくる。少し牛乳を混ぜてもよかったが、常備していないようだった。半熟の頃合いで、さっと卵をまとめ、皿に移した。「おみごと」「卵焼きぐらいで大げさ」「いや、大したもんだろ」「卵焼きぐらいで大げさ……」

 皿の上で半分に分けた卵焼きを二人で食べる。睦は美味しいともまずいとも言わないが、卵焼きを食べながら、卵料理が好きな海外ドラマの主人公の事や、美食まんがの目玉焼き回の話を機嫌良さそうに話した。概ね好評という事だろう。

 「どうした?痛いのか?」

 「え?」言われて翼は自分がお腹を擦っている事に気がついた。確かに違和感がある。しかし、痛いという程ではない。丁度斧が突き刺さった辺りで、気味が悪い。UFOに攫われると体に何か埋め込まれるという話を思い出した。あの斧男は実は宇宙人だったのかもしれない。馬鹿らしいのに、今朝見ていた夢に存在したような盲目的なリアリティを感じる。「うん。なんかちょっと変なだけ。もぞもぞする感じ?」

 「変なもんでも食ったか?」

 「どこで?」

 「……ここか」

 「うん」

 一人さっさと食べ終えた睦は、自分の分だけ後片付けをして、部屋に戻っていった。翼は急ぐ理由も無かったので、ゆっくりと残りのトーストを食べた。しばらくして自分の分の後片付けをしていると、廊下の先の襖が開き、再び睦が現れた。わざわざ服を着替え、ボディバッグを身に着けている。「どこか行くの?」

 「ん、ああ」言いながらダイニングを横断し、冷蔵庫から取り出した麦茶を水筒へ移す。

 「どこ行くの?」

 「聞いてどうする」

 「聞いちゃ駄目なの?」

 「聞くのはお前の自由だ。答えないのは俺の自由だ」

 「ふざけてる?」

 「悪いが昼飯はカップ麺でも適当に食ってくれ。暗くなる前には戻ると思う」

 「え、……うん」

 睦は翼の背後をすり抜けて玄関へ行き、目も合わさないまま家を出ていく。靴箱の上から鍵を持って出たので、車でどこかへ行くのかと翼は思ったが、玄関の外でごそごそと音を立てた後、エンジンをかけた様子も無く、そのまま睦の気配は消えてしまった。

 玄関の扉を虚しく眺めたまま、ついていかなかった事を後悔した。

 一人になると嘘みたいに恐怖が襲ってきた。さっきまで自分の家のように感じたキッチンが、急にまた元の余所余所しい他人の顔になり、居心地が悪くなった。ブルっと体が震えそうで、無性に泣き出したい気分になった。自分の気持ちの急激な変化に自分でついていけなくなる。

 ……カーン。

 静かになった室内に斧の音だけが響く。

 睦は家の鍵を閉める習慣が無いようで、今もそのまま出て行ってしまった。翼は固まりそうな体で、扉の鍵を閉めた。


 裏口の鍵も閉め、部屋に閉じこもった。蒸し暑くて気分が悪い。耳を塞ぎたくてイヤホンをつけた。カーン……。イヤホン越しでも聞こえる程に斧の音は大きくなってきている。山の中で聞いた斧の音の大きさを思い出すと、今聞こえている音は、その半分ほどの大きさだ。音が近づいてくる速度を考えると、もう今晩には山で聞いた音の大きさを超えるかもしれない。

 わからない。何もわからないから不安になる。山での事が本当に夢だったのか、この斧の音は本当にしているのか、この音はいつまでしているのか、どうしたら止むのか、なぜこんな音が聞こえるのか。膝を抱えて座ったまま、考えがまとまらない。

 どれ位そうしていたかわからないが、カーペットの上でお尻が痛くなる程だった。スマホが無い。そう思った時、ようやくまともな事が頭に浮かんだと、翼は思った。

 最後に使ったのは昨日の晩、睦の部屋でだった。ムーと共に置き忘れてしまった。しばらく億劫で動き出せなかったが、このままこうしていても何も変わらないことは確かで、重い腰を上げる。

 カーン。

 また音が大きくなっている気がする。少しずつ大きくなる音に、耳の感覚が麻痺しそうだった。

 さっきまで<わからない>という言葉で覆いつくされていた頭が、今度は逆に獏としていて、本当に形にならなくなっていた。

 廊下を移動し、睦の部屋の襖を開ける。昨日、昼間は勝手に入らないと約束したばかりなのに、もう破ってしまった。睦は怒るだろうか?学校での事、りんこちゃん先生の事、あの瞬間がフラッシュバックする。それから母の顔。母はまだ怒っている?そもそも怒っていたの?わからない。いつも母を信じていた。それは無条件なもので、ときどき何かスイッチを入れ忘れたみたいに、自分が母の感情を理解できているという自信が無くなる。全て自分が思い込んでいるだけの、おめでたい世界なんじゃないかと思えてくる。

 ただでさえ不安になっているのに、そんな事は考えたくない。

 カーン。

 明かりを消した薄暗い睦の部屋。窓はあるが、分厚いカーテンと窓の向こうの物置に覆われていて、光がほとんど入らない。廊下側から入る光に照らされたマットレスの上に転がるムーとスマホ。今朝、クーラーでひんやりとしていた空気は、もうぬるくなっている。まるで別の部屋だ。誰に見咎められる事もないだろうが、翼は忍び足をするようにそっと中に入り、ムーとスマホを拾った。

 結局、睦はどこに行って何をしているのだろう。タイミング良く帰ってこないだろうか?帰ってきてほしい。本当に何をしているんだ?この音は本当に睦には聞こえていないのか?

 睦以外の人間に、斧の音が聞こえない事を確かめた訳じゃない。睦の悪戯なのではないか?そう説明はできるが、納得はいかない。

 カーン。

 確かめる方法はある。スマホの録音アプリを起動する。「あ、……あ」声が震える。

 カーン。

 録音を止め、再生する。『……あ、……あ』自分の震える声が聞こえ、しばらく待つが斧の音は再生されない。

 カーン。

 確かに今も聞こえたこの音は、やはりわたし以外には聞こえていないのだ。頭か、耳がおかしくなったのか。けれど、確かに耳を塞げば音は小さくなっていた。いや、今はその自信が無い。イヤホン越しでもこうはっきりと聞こえると、そんなの勘違いだったんじゃないかと思えるし、その方が理解できた。

 カーン。

 もう嫌だ。疲弊からの脱力。録音アプリを停止すると、翼はメッセージアプリに通知が来ている事に気がついた。昨日の晩、母からだった。『困ったことになったら、睦を上手く使いなさい』。どういう事だろう?


 どこに行っても落ち着ける気がせず、翼はトイレを済ませると、部屋には戻らず廊下に座り込んだ。ずっとムーは抱いたままだった。母は山での写真については一言も触れず、ただ『困ったことになったら、睦を上手く使いなさい』とだけ送って寄こした。どういう意味?と返したが、また既読も付かなかった。

 それでも数日ぶりの母の言葉で、少し気分は落ち着いていた。思えば母とこんなに離れた事は一度も無かった。おかしくなっても無理は無かったのかもしれない。

 斧の音は変わらず聞こえ続けているが、今の気分を保てるように、着けているだけだったイヤホンにスマホから音楽を流した。

 それから母が何を言いたいのか、改めて考えを巡らす。困ったことになったら、というのはどういう場合なんだろう。まさに今、困っている。が、あまり一般的な困り方ではない。母は一般論としての『困った事』を想定しているのだろうか?例えば部屋に壁掛け時計が無いので時間を知るのに一々スマホをつけなければならない事や、座卓を使うのにクッションが無い事、置いてある歯磨き粉が好みに合わないだとか……。それとも母は、わたしがこういう困った事になっているかもしれないと思っているのだろうか?『山に入ってからよく分からない斧の音に悩まされている。ずっと聞こえてて、どんどん大きくなってて怖い』追加でそう送ろうか迷う。流石にそんな訳はない……。途中まで打った文を消す。『睦を上手く使え』というのは睦に頼めという事だろう。何だか勝手な物言いだが、何となくわかる気がした。多分、時計とクッションと歯磨き粉の件は解決できる。でもこの件について頼りにしていいのだろうか?

 結局、どうしたらいいかわからないままだった。

 カーン。

 確かめるまでもなく音は続いていた。ランダムに再生される音楽に、一定のリズムで斧の音は混ざる。

 また怖くなる。考えることを止めたせいだ。時間を確認しようとスマホを操作した。ガチャガチャガチャっ、と妙な雑音。え、と翼が思った時、何かの拍子で音楽が止まった。音楽と共に聞こえた金属音の余韻と静寂。気のせいだったのか、と思うほど家の中は静まり返っていた。

 カーン。

 斧の音に今更びくついてしまう。翼はイヤホンを外して耳を澄ませた。やっぱり気のせい……?そう思って落ち着こうとした時、ガチャガチャガチャっと、また例の金属音が響いた。音はダイニングから響いている。玄関だ。一気に血の気が引いた。ドアを誰かが開けようとしている……。

 睦?いや睦なら車のキーと一緒に多分、家の鍵を持っている。一度、鍵がかかっていると分かれば、あんなに乱暴に音を立てたりしないだろう。

 「おぉーい」

 外から突然響く人の声に体が跳ねた。当たり前だが知らない声だった。なんで勝手に入ってこようとしてるの?

 別に何でもない、普通の人の声だ。それでも何だか理解が追い付かなかった。

 「またおらんのかぁー?」

 しわがれて間延びした呑気な声。再びガチャガチャガチャと鍵がかかったままの扉を無理に開けようとする音。鍵をかけておいて良かった。睦の知り合いだろうか?何の用なのだろう。元々、来客は苦手で、家では荷物の受け取りぐらいしか、した事が無い。それにとてもじゃないが、見知らぬ人と顔を合わせられるような状態じゃなかった。

 いつまでいるつもりなのだろう。早く帰ってほしい。存在を気取られたくない。

 廊下の先に見える裏口が気にかかった。鍵は閉めているが、もしこっちに回ってきたらどうしよう。想像するだけでひどく気が滅入り、翼は四つん這いになって音を立てないように気を付けながら部屋に入って扉を閉めた。ベッドの縁に背中を預け、床の上でムーを抱き、膝を抱え込んで息を潜める。

 カーン。

 部屋の扉を閉めたからか、外の気配は感じられない。まだいるのだろうか?窓も締め切っているため蒸し暑い。汗ばんだ頬を拭うため、俯けていた顔を上げた。ザリっという砂利を踏む音。化粧台の鏡の中で像が動き、反射的に瞳がピントを合わせる。

 カーン。音と同時にその男が手に持った物を斧と認識する。

 窓の外から斧を持った男がこちらを見ていた。


 10.

 カーテンの隙間から室内を覗いていた男は、鏡越しにこちらに気づいているのか、翼と目が合ったままじっと動かなかった。

 翼はもう何も考えられず、逃げたい一心で、震えて瞳を閉じた。しばらくしてギギギっと何かを乱暴に擦る音が二度聞こえ、次に目を開けた時には男は窓の外から消えていた。ただカーンという斧の音はまた大きくなっていた。 

 睦が帰ってきたのは夕方頃だった。


 ガチャガチャと昼間と同じような音がした後、玄関が開く音がした。翼はそれまで寝ても起きてもいないような泥濘んだ感覚の中にいて、部屋が薄暗くなっている事で、あれから数時間経った事にようやく気がついた。

 「ああ、そうか……。帰ったからなー。……これでいいかぁー?」睦の声が響いてくる。平和そのものといった声色と、自分の気持ちの落差に絶望を感じた。冷蔵庫を開け閉めする音。

 汗や涙が顔に張り付いていて、気持ちが悪かった。ずっと丸まっていたせいで体がギシギシとして、頭がぼーっとした。お腹の下の方が気持ち悪く、軽い吐き気さえした。

 ふらふらと翼は部屋を出た。もし睦じゃなかったらどうしよう、という考えが頭を過ぎる。不安になるといつも目の前にある現実を疑っている気がした。

 薄暗い廊下の先、ダイニングの明かりに向かい、よたよたと歩く。ダイニングにはちゃんと睦が立っている。麦茶をあおり、コップを置いてこちらに気づく。「ただいまって言葉、知らないの?」

 「いや……、しばらく使ってなかったから忘れてた。おかえりって言葉があったのは覚えてる」そう言って、まるでおかしな物でも見るような顔でこちらを見ている。「……大丈夫か?1999年を迎える小学生みたいな顔してるぞ」

 「帰る」「は?」「うちに帰りたい……」

 じっと睦が見つめてくる。真意を測るように。真意など無かった。とにかくここにはいたくない。カーン。この音から離れたい。

 「……今すぐか?」「今すぐ」カーン。斧の音が重なると睦や自分の声さえも聞き取りにくくなっていた。睦はペットボトルの麦茶を冷蔵庫にバタンと音を立てて仕舞う。「わかった。けど、その格好でか……?」睦の視線が体を舐める。格好なんてどうでもいい。そう翼は思ったが、着古したシャツ一枚で、ズボンも履いていないし、髪も梳かしていなかった。

 「……うん。着替える。……けど、一緒にいて」

 は?、と呟いて呆けた睦の手を無理やり引き、翼は部屋に戻った。薄暗い部屋の明かりをつける。「何があった……?」「何もない」衣類の入った段ボールから、目についたものを適当に選んだ。睦が翼の動きに合わせて、部屋を右往左往する。「落ち着けよ、顔色悪いぞ」「大丈夫」「また飯食わなかったんじゃないのか?」「いいから、そこにいて。離れないで。見てていいから」それでようやく睦が黙ってベッドの淵に座り込んだ。汗でべたついたシャツを脱ぎにかかる。母のお下がりでダボダボの筈のシャツが、背中や肘に張り付いて、中々脱ぐことができなかった。やっと視界が開けると、睦がじろじろとこちらを見ているのが鏡越しに見え、パンツも湿っていて気持ち悪かったが流石に履き替えられなかった。タンクトップを着て、デニムのキュロットスカートを履くと、鏡台の椅子に座り、少しだけ髪を梳かして、ゴムで後髪をまとめた。「……ほんとに見てるとは思わなかった」「他に見るものも無いだろ」


 洗面所で顔を軽く流し、ダイニングに戻った。睦が麦茶を水筒に詰めている間に、翼も麦茶を飲んだ。喉がカラカラで、それだけでもう倒れそうになっていた。一息にコップ一杯飲み干すと、急に体温が下がって、軽い眩暈と共に少し気分が落ち着いた。同時に家に帰れる嬉しさが込みあがり、涙ぐみそうになる。

 「荷物はどうするんだ?」

 「後で送って欲しい……」

 「そうか」

 どこで何をしてきたのか知らないが、睦の疲れた様子に気づく。「ごめん、なさい。我儘言って」

 「いや、……いい」と言って睦が動き出す。玄関の扉に手をかける。

 外の様子を想像して、翼は待ってと言いかけた。昼間の男がまだ辺りにいるんじゃないか、そんな不安が襲う。ガララと音を立て扉が開き、睦が薄闇の中へ足を踏み出す。「どうした?」中々出てこない翼に振り返った睦の言葉と、カーンという斧の音が重なる。

 「ううん、……なんでもない」男が突然飛び出してきて、睦の頭に斧が振るわれるのを想像する。どうしたらいいかわからなくなる。そんな事になったらわたしの所為だ。何もわかっていない睦を騙しているみたいで嫌な気分になる。けれど、今は自分の事を考えるだけで精一杯だった。

 土間にあるサンダルに足を通そうとして、隣にある靴に目が止まる。山の中を裸足で走り回った本当かどうかもわからない記憶。落ちていたサンダル。素足で履くのは気持ち悪かったが、靴を履き、外へ出た。辺りは静かで何の気配もない。睦が車の鍵を開けると、翼はすぐに助手席に乗り込んだ。

 睦も無事に運転席に乗り込む。助手席の収納を開き、何かを取り出した。薄暗いのでその四角い箱が何だかすぐにわからなかったが、シュボっという音で睦の手元に明かりが点き、煙草の箱だとわかった。既に口に咥えていた煙草に手元の明かり、ライターの火が近づき、火が点る。なんで煙草なんてのんびり吸い始めたのか、文句が喉まで出かかったが、睦に自分の都合ばかり押し付けている自覚で「臭い」と言うのがやっとだった。

 「悪い」そう言って睦は運転席側の窓を開ける。煙草の臭いは嫌だったが、窓を開ける方が不安で嫌だ。けれど、それを説明できなくて、もどかしくなる。どうせ山での事や、昼間の男、今も続く斧の音の話をしても馬鹿な事を言っているとしか思われない。

 「煙草、止めたんだと思ってた」

 「あ?何でだ?」

 「灰皿あったけど、一度も煙草吸ってるとこ見なかったから」

 「元々、そんなに吸う方じゃない」

 「止めたら?」

 「臭いがつくんだ」

 「は?」

 「臭いがつくと他と混ざりにくくなる気がする。そういうおまじないだ」

 「何言ってるかわからない」

 「わからないだろうと思うから言った」

 翼がちょっとむっとしている間に、睦は煙草の火を備え付けの灰皿でもみ消して、行くかと呟きエンジンをかけた。


 車が動き出してから翼も睦も口を開かず、車内は静かだった。しばらく代わり映えのない景色が続く。翼は斧の音が遠くなっているか意識しながら、時折後ろを振り返り、何か追ってくるものがないか確認した。薄暗い道の向こうに重々しく山が連なっているだけだ。

 後部座席に重なる空き箱に目が留まる。カーテンやマットレスを買った時に一緒に買った屋外用の小型投光器の空き箱だった。特売品だからと複数買っていたものが、全て空き箱になっている。

 突然、車のスピーカーからやけに楽し気な音楽が流れ出す。前に向き直ると睦がダッシュボードの上に置かれた音楽プレイヤーに手を伸ばしていた。「運動会の曲……」かかったのは徒競走などでかかる耳慣れた曲で、翼の今の気分とはまるでかけ離れていて、頭が混乱し、不愉快だった。よくよく考えると、斧の音から逃げようとしている自分には、ある意味で合っているのかもしれない。そう思うと、ますます不愉快に感じる。「……何で?」

 「運動会の曲じゃない。ルロイ・アンダーソンの『トランペット吹きの休日』だ」

 「トラン……?え?休日?」

 「『トランペット吹きの休日』だ」睦が繰り返す。それがこの曲のタイトルらしい。

 「これ……、休んでるの……?」

 「違う。休日だから好きなトランペットを好きなだけ吹けるんだ」

 睦が手を伸ばし選曲を変える。また耳慣れた曲がかかる。

 「クリスマスの曲……」今度はクリスマスに店のBGMなどでよく聞く曲だった。

 「ルロイ・アンダーソンの『そり滑り』。クリスマスの曲じゃなくて冬の曲だな。ルロイ・アンダーソンの曲の中で一番好きだ」

 「いや、どっちにしろ今、夏だし……」汗をかきながらしばらく『そり滑り』が流れる。そもそも好きとか嫌いの尺度で聞いた事など無い。

 次の曲がかかる。バラエティ番組のBGMで聞き覚えがある。「ルロイ・アンダーソン、『タイプライター』」翼が何も言わないうちに睦が答える。

 「タイプライターって何?」「タイプをライティングする機械だ」

 説明になっていない。途中まで聞いて選曲を変える。今までと違いスローリーな曲。聞き覚えは無い。「これもそのルロイって人?」

 どうせそうに決まっている、そう思ってわざわざ聞いたが返ってきたのは「いや、エリック・サティ。『ナマコの胎児』」だった。

 「違いがわからない……。海鼠の曲?」

 「そもそもピアノ曲だから、楽器が違う。まぁでも確かに似てるところはあるな。『干からびた胎児』の一曲だ」

 また曲が変わる。今度は雰囲気がまるで違う。歌が入る。女性ボーカル。今までの曲と比べると急に最近の曲になったと思えたが、これも聞き覚えは無い。「ちびまる子ちゃんの初代OP、『ゆめいっぱい』だ」聞いてもいないのに睦は答え、そのまま曲に合わせて楽しそうに歌詞を口ずさみ始める。頭が痛くなってくる。

 「睦は……、どこかで頭を強くぶつけたの……?」「あ?」「少し、心配になる……」

 口ずさむのを止め、睦が考え込む。「それ、昔、可秧かなえさんにも言われたことあるんだよな……。確かに子供の頃、兄貴にガツンとコンクリの壁に頭ぶつけられた事あんだよ」

 「可秧さん?兄貴?」急に話題が変わり、反射的にひっかかった部分を全部口に出していた。

 「ああ、弟もいるぞ」

 「いや、そっちはいい。可秧さんって?」

 「あ?ああ。姉さんの名前だ。知らなかったのか?」

 「いや、お母さんの名前、知らない訳ないじゃん」

 「そうか。俺は高校卒業するまで知らなかったな。親父とお袋としか呼ばないからさ」

 「は?」「あ?」「えっと、ちょっと何言ってるかわからない」

 「いや、親父とお袋の名前なんてさ、普段、意識しないだろ?高校卒業して、書類なんか自分で書くようになるとさ、偶に必要になるからよ」

 「ううん。違う。そういうわからないじゃない。睦、いちたすいちは?」「たんぼの田」 「どっちが右でどっちが左?」「右利きの人がお箸を持つのが右で、左利きの人がお箸を持つのが左だ」

 「線路の上を暴走したトロッコが走っています。線路の先には四人の作業員が立っていて、このままでは誰も助かりません。あなたの目の前には運よくトロッコの進路を変えるレバーがありましたが、進路を変えた先の線路の上にも、一人作業員が立っていました。さて、あなたはどうしますか?」「答えのない問題はやめろ!」

 「それじゃあ、わたしの名前はなんでしょう?」「は?」

 「睦、わたしのこと、おい、とか、おまえ、とか言って、名前で呼んだことないよね……」

 「いや、それは……、そうか?」

 「うん。無い。一度も無い。もしかしてだけど、わたしの名前も、覚えてない……?」

 「別に、そういうわけじゃ……」

 「本当に?じゃあ名前で呼んでみてよ」

 「なんでだよ……。いちいち名前で呼ぶ必要なんて無いだろ?」

 「わたしは睦のこと、ちゃんと名前で呼んでるじゃん。おまえとか呼びつけられるよりは気分いいよ」

 「そうか?」

 「うん」

 「そうか」

 「いや、そうか……、じゃなくって、名前で呼んでみてって言ってるの」

 「今、呼ぶ必要無いだろ」

 「試しに呼んで」

 「……嫌だ」

 「もう一回確認するけど、わたしの名前、ちゃんと覚えてるんだよね……?」

 「……さ」ぶつぶつと何か睦が呟く。

 「え……?何?聞こえない」

 「……つば、さ、だろ。馬鹿にするな、それぐらい覚えられる」

 街灯の光で睦の顔を見ると、難しい顔で口をへの字にし、真っ直ぐ前を見ていた。不機嫌そうにも見えるが、怒っているという訳ではなさそうだった。

 「うん。これからはちゃんとそう呼んで」名前を覚えられていた事に多少ほっとする。

 「……お前、本当、変なやつだな」

 「あ、またおまえって言った」

 「厳しいな」

 「それにわたし、変じゃない」

 「……そうか?」

 「少なくとも睦に変って言われるのは絶対にありえない」

 翼が窓の外を意識すると、話に夢中になっている間に、車は川を越えて市街に入っていた。もうすぐ駅に着く。急に睦と別れるのが名残惜しくなる。ここ数日の短いやりとりがすごくおもしろく思えて、出来る事なら帰りたくないとさえ思えた。

 「なぁ、帰りはどうする気なんだ?」「え?」

 「行きは新幹線で来たんだろ?」「うん」

 「別に鈍行でも東京までは帰れると思うが、遅くなる。新幹線ならわからんが、向こうに着いてから電車が無くなるんじゃないか?」

 「電車って何時まで動いてるの?」

 「知らん。けど、0時過ぎたらあんま無いな。調べてないのか?」「調べてない」

 「そうか。……飯も食ってないしな。とりあえず、このまま浜松まで行って飯食うか」「えっと……、うん」

 駅前の道で、車を切り返す。行きは浜松駅まで新幹線で来て、そこから私鉄を乗り継いでここまで来たので、翼としてはそうしてくれるのはありがたかった。お腹も空いている。ただ、もう少しだけ一緒にいたいと意識した矢先だったから、余りにも都合が良すぎて、少し戸惑ってしまった。

 「ねぇ、また来てもいい……?」車が国道に乗り上げる。昨日とは逆の道だ。すぐに答えが返ってくるものと思っていたのに、睦はしばらく前だけを見つめていた。聞こえていなかったのか、もう返事は無いだろうと翼が思った頃、「んー……、ああ」と睦が歯切れ悪く答えた。


 11.

 車中で何度か確かめていたが、車を降りてからもう一度、翼は耳を澄ませた。……カーン。斧の音はまだするが、確実に遠のいている。もし近づいてくるとしても、食事をする余裕ぐらいはあるだろう。

 「何してんだ?」車の鍵をかけた睦が尋ねる。別に何もしていない、そういう意味で首を振り、歩き出した睦についてピロティ部分の駐車場から出て、二階のファミレス店内へ向かった。店は混雑していたが、待つほどでもなく、すぐに席に案内された。睦が窓側に座ったので、翼は手前の席へと座る。メニューが決まって注文を済ませると、スマホで電車の乗り換えを調べた。時間的には遅くなるが、終電には十分間に合う時間だった。

 「だいじょぶそう」顔を上げて報告する。

 退屈そうにした睦が、窓の外の流れる車を眺めている。「一人じゃ危ない。姉さんに連絡して迎えに来てもらえ」窓から目を逸らさずに言う。姉さん、という言葉でさっき引っかかった事を翼は思い出した。会話の流れですっかり忘れていたが、睦にとって姉である母を、可秧さんと、さんづけの名前で呼んだ事に違和感を感じたのだ。それについて今更問いただそうか迷った。睦はわたしの叔父の筈だが、母ではなく父の弟だったのだろうか?それなら、母をさんづけで呼んでもおかしくはない。しかし、その場合、睦の苗字は牟田ではなく野月の方が自然だ。父の弟だが、苗字が違う事情があることも想像できるが、母が睦の事を弟だと話した時のニュアンスは、母自身の弟だと言っているようだった。

 「ねぇ、睦ってお母さんの弟?」結局、あれこれ考えても答えは出そうになく、率直に問いを口に出した。

 「……ん、ああ」返ってきたのはまた興味の無さそうな歯切れの悪い返事。睦が窓の外を眺めるのを止め、こちらに向き直る。「姉さんに連絡したか?」そう切り返される。

 「今……、するところ」答えて気が重くなる。メッセージアプリをチェックするが、やはりあれから母の既読はついていない。もう自分と話す気さえ無いのではないかと思えてくる。「……やっぱり、睦が連絡して」

 「なんでだ?」気まずくなって目を逸らす。やっぱりちゃんと謝らなきゃ駄目なのだろうか?そもそもわたしはまだ謝ってなかったか?記憶が曖昧だ。それに自分が謝るべきことなのかも本当はわからない。二人して沈黙しているところに店員がオムライスセットとハンバーグセットを持ってくる。店員が去り、睦が無言でハンバーグを食べ始める。目の前のオムライスが色褪せて、粘土のように見えてくる。

 「何があったか知らないが、考えるよりは飯を喰う方が大抵建設的だ。ハンバーグ分けてやろうか?」

 ……カーン。うっすらと聞こえてくる斧の音を意識する。この音は因果応報。わたしが悪い人間だから、こんな事になっていて、だとすれば川崎に戻ったって着いてくる。そうかもしれない。

 ふん、と睦が溜息を吐く。「このハンバーグ、美味いな。……あ、違う。間違った。姉さんと何かあったのか?」

 「……ほんとに何も知らないの?」ずっと黙っていたい気分、話を聞いてほしい気分、天秤が少しだけ傾き、口から零れた。翼が顔を上げると、睦はまるで遠慮なしに咀嚼を続けていた。

 頬張っていた物を飲み込んで、ようやく口を開く。「知らん。知っといた方がいい話なら教えてくれ」そして、またハンバーグとごはんを口に含み、咀嚼しだす。

 なんで母は睦に何も言わなかったのだろうか?大人同士で勝手に話し合っている事を翼は想像していた。それですごく嫌な気分になっていた。勝手な想像をして勝手に嫌な気分になっていたのに、なぜか母と睦が恨めしく思える。

 「嫌なら黙っててもいいけどよ、その代わり、飯は喰ってくれ。正直、心配だ。俺は何ていうか、そういうの不安になる性質なんだよ。自分の事じゃないってわかってても、何か無理してる感じとか見てると、ぞわぞわして落ち着かないって言うか、怖くなるって言うか」

 「……何それ」

 「わからん。昔からそうなんだ。本当に喰わないなら、今ここで泣き出してもいいぞ。みっともないぞ、いい歳した男が人前で泣くのは」

 「やめてよ」

 本当に泣き出しかねないので、翼は仕方なくスプーンをとって、一口食べた。味は悪くない。食欲は無かったが、元々空腹だったせいで、飲み込んだ瞬間にお腹がぐぅと音を立てた。少し恥ずかしい。黙ったまま二口三口と食べ始めると止まらなくなる。「……これでいい?」誤魔化し気味に食べるペースを落として言う。睦はプレートにハンバーグを一切れだけ残して、物欲しそうな顔で手を止めていた。

 「なぁ、さっき勢いで分けてやろうか、って聞いたけど、いらないよな?」

 「いる」

 「あ」睦の手元にあったフォークで、ハンバーグを口に運んだ。

 「うん。美味しい」「……そうか、良かった」それからまたオムライスを二三口食べたところで手を止めた。

 「ねぇ、わたしの事、どう思った?」

 「あ?」

 「嫌な子、……だった?」

 睦が怪訝そうな顔をする。「……ハンバーグ返せって思った」

 「自分でくれるって言ったんじゃん……」

 「あの時はまだそんなに味わって食べてなかったし、何かおまえが落ち込んでそうだったから」

 「……オムライス分けてあげるから我慢して」スプーンに一口大のオムライスを作り、空になった睦のプレートによそう。睦がむっすりした顔でフォークを取返し、オムライスを食べた。「で、なんでそんな面倒くせえ事聞くんだよ……」

 「え?……うん。だって、他人が自分の事、どう思ってるのかって、……よくわかんないし」

 「まぁ、そうだけどよ」

 「……りんこちゃん先生って先生がいてね」睦を見る。睦は真面目な顔をして、合いの手も入れずこちらを見ていた。話すのを促す気も止める気も無いらしい。「わたしは、りんこちゃんと、仲がいいって思ってたんだけど……」あの日の教室が脳裏に浮かぶ。囃し立てるクラスメイトたちの声と、りんこちゃんの赤い顔。「ぶたれた」左の頬が痺れ、クラスメイトたちの声が止む。赤かったりんこちゃんの顔が、震えながら白んでいく。

 「……なるほどな」

 「うん。……それ、授業中だったから、みんなに見られてて、大変な事になっちゃって」

 「大変って、どうなるんだ?」

 「うーん。ちゃんとは知らない。けど、クラスメイトのお母さんたちが騒がないようにって、お母さんが一日中電話してた。りんこちゃんにも電話してたみたいだけど、その後、しばらく学校行かなくていいって」

 「それで?」

 「そのまま夏休みになって、睦のとこ行けって」

 「ふーん……」

 「何それ……。つまんないから興味ない?」

 「いや、考え中」睦が腕を組んで渋い顔をする。

 「考え中って何を?」 

 「姉さんは他には何て?」

 「え?お母さん?……別に、……何も。でも、多分、怒ってる」

 「怒る?」

 「うん。……だってわたしが悪いし。気まずくってその事黙ってたから」

 「どういう事なんだ?そもそもなんでぶたれた」睦が詰め寄る。まるで睦も怒ってるみたいで翼は少したじろいだ。

 「えっと……、授業中にちょっとふざけちゃって……、そしたらみんなが……」言いかけて自分の卑怯さに傷つく。そもそもクラスメイトたちが同調すると思って言ったのだ。「ごめん。違う。クラスのみんなにウケると思ってわたしがくだらない事言ったの。そしたら思った以上にウケちゃって、授業が進まなくなって」

 「……何言ったんだおまえ?」

 「別に悪口とかじゃないよ。普通に授業の話でくだらない冗談言っただけ。……だから、りんこちゃんがそんなに怒るって思わなくって」

 「……うーん。まぁ、そのりんこちゃんってセンセーが怒ったってのはいいとして、姉さんが怒ってるってのは、やっぱよくわかんねえな……」

 「でも……、あれからまともに口利いてもらえないし、メッセージ送ってもずっと無視されてる」正確には昼のよくわからないメッセージがあったが、一方的に送られてきたあのメッセージ以降、何が変わった訳でもない。結局また無視されている。

 「そうか……」睦が難しい顔をして顎を擦る。「……それ、……多分だけどな、怒ってるんじゃないぞ」

 「え?」

 「お前も姉さんに嵌められてる。『久しぶりね、睦。送りたい物があるんだけど、住所教えてくれない?』」

 「……それ、もしかしてお母さんの声真似?気持ち悪いからやめて」

 「ああ、俺も自分でやってて気持ち悪いって思った。続けろって言われても困るな」

 「で、……今のなんなの?」

 「俺んとこには、そんな感じで姉さんから突然電話がきたんだよ。俺は人を疑うことを知らない心が美しい素直な青年だからペラペラ今の住所を喋っちゃって、その後で、何送ってくれんの?ってワクワクして聞いたら『翼の荷物よ』って。何だそれ?って思ってたら『週末に娘がそっちに行くからしばらくよろしくね』だ。その後、お前の電話番号とこっちに着く時間がSMSで送られてきて、それっきり」

 「それっきり、……何?」

 「連絡なし。こっちからかけても繋がらない。どういう事なのかさっぱりわからないから、てっきりお前が事情を教えてくれるもんだと思ってた」

 「嘘でしょ?」

 「嘘なもんか」睦がスマホを取り出し操作し、画面を見せる。画面には『可秧さん』の名称で母の電話番号が表示されている。コールし、しばらく待つが通話が始まらないまま、呼び出し音は途絶えた。「ずっとこうだ」

 睦にふざけている様子は無い。翼も卓に伏せていた自分のスマホを手に取り、母にコールした。今までの躊躇は吹き飛んでいた。呼び出し音がしばらく続き、自動音声が虚しく流れて電話は切れる。もう一度メッセージアプリを確認するが、さっき見た通り新しいメッセージも無ければ既読も付いていなかった。たまたまタイミングが悪かっただけかもしれない、そう自分に言い聞かせ再度電話をかける。

 呼び出し音に睦の言葉が重なる。「おかしいから東京の知り合いに頼み込んで、少し調べてもらった」また自動音声が再生され、電話が切れる。「あのな、……姉さん、仕事も辞めて、部屋も解約してた」

 「は?待って、待って。全然追い付いてない。理解できてない」どういうこと?一週間前、川崎での母の姿を思い返す。母は仕事にも行かず、忙しなくしていた。それは自分の学校での事があったからだと思っていた。「わたし、……夏休みになったら睦の所に行けって言われてそれで、……え?」気まずさで有耶無耶にして、きちんと話の内容を確認なんてしていなかった。母は行けと言っただけ?それは夏休みの間だけの話じゃない?「え?あれ?だってわたし、夏休みが終わったらうちに」混乱した頭に徐々に睦の言葉が染み込んでくる。「え?なんで?……お母さん、いなくなっちゃったって事?」

 「つまり、……まぁ、……そういうことだ」睦が目を逸らす。頭に血が上っていくのがわかる。

 「……意味わかんない」顔を伏せて、それだけようやく呟いた。何考えてるの?駅での別れ際、いつものように澄ました母の顔が思い浮かぶ。体が震える。そんな大事な事を知っていて今まで黙っていた目の前の男にも腹が立ち、握りしめたスマホを投げつけたくなった。けれど虚脱感の方が勝り、何もできなかった。湧き上がる気持ちの整理ができない。考えもまとまらない。何か考える必要なんてあるの?「意味わかんない」首を振るう。同じ言葉しか出てこない。

 「落ち着けよ。その内、向こうから」「黙ってよ!」カーン!!

 静寂。つい声を荒げていた。フロアのざわつきが掻き消える。カーン!!今まで忘れていた斧の音がひと際大きく耳に響いた。いつの間にこんな大きく?もうどうでもいい。

 カーン!!

 「おいっ……」

 睦がしつこく呼びかけてくる。今は本当に黙って欲しい。「おい、この音って、」カーン!!「お前が山で言ってたやつか?」

 「え?」

 顔を上げると睦が宙を見上げて視線を彷徨わせていた。


 翼が辺りを見ると、他の座席の客たちの中にも、会話を止め、睦と同じように宙に視線を彷徨わせている人たちがあった。

 カーン!!

 また斧の音が響く。微細な揺れ。思わず足元を見ていた。下からだ。顔を上げると、同じように顔を上げた睦と目が合った。「聞こえるの?」

 「聞こえてる」

 睦が伝票を持って立ち上がる。

 「出るぞ」「え?」戸惑っている内に腕を掴まれ、無理矢理席を立たされた。「痛い」抗議しても睦は何も答えず、そのまま腕を掴んで歩き出す。

 睦はレジ前でようやく翼を解放し、やってきた店員に伝票と紙幣を渡しながら声をかけた。「俺は仕事でビルの解体をしてるんだが、よく聞いてほしい。さっきからしているこの音は、柱が破断する前に立てる音だ。この建物は倒壊する恐れがある。今すぐ全員を避難させた方がいい」

 店員が目を丸くする。口を開きかけた店員を無視し、お釣りも受け取らず、睦が出口に向かう。翼もすれ違いざまに今度は手首を掴まれ、引きずられるように店を出た。

 カーン!!

 外に出ると音は一層大きく響いた。「ま、待って」

 睦が一瞬、振り返る。しかし、足を止める事は無く、階段を降りだす。

 「今の何?ほんと?」「知らん!何かあったら嫌だから適当こいただけだ!」「何かって何?」「俺が知るか!」

 駐車場まで降りると、車まで小走りに引きずられる。どこかに斧を持った男がいるんじゃないかと、辺りを見渡すと、ピロティを支える太い柱が勝手に震えてカーンと音を立てていた。建材の細かい破片がパラパラと天井から落ちてくる。人影は無い。睦が手を離し、車の鍵を開け、助手席の扉を開く。「早く乗れ!」「う、うん」翼が助手席に乗り込むと、睦はバタンと乱暴にドアを閉め、回り込んで運転席に座り、すぐにすごい勢いで車を走らせ始めた。

 慌ててシートベルトを締める。振り返ると既に小さくなりはじめたファミレスから、ぞくぞくと人が出てきて、周囲に人だかりができているのが見えた。

 翼はあっけにとられ放心し、運転する睦のむっとしたような横顔を眺めた。掴まれた二の腕と手首がまだじんじんと痛んだ。

 「煙草、取ってくれ」「え?」「グローブボックスの煙草」グローブボックスという言葉はわからなかったが、行きに睦が取り出すところを見ていたので、煙草の場所はわかった。翼はまだ今の状況が飲み込めず、言われるがままに煙草を取り出し、インディアンの描かれたケースから一本煙草を抜き出して、睦の口に咥えさせた。「火、着けられるか?」「着けられる、……けど」同じようにライターを取り出し、火を着け、運転する睦の口元の煙草に翳す。二三度睦が吸うと、煙草の先にぽっと赤い火が灯る。父に線香を焚く時以外でライターなど滅多に使わないせいか、父の仏壇を思い出し、その仏壇がある部屋を母が解約したという話が、余りにも非現実的だという考えが頭を過る。睦の唇の隙間から煙が吐き出され、車内に靄がかかる。その煙の臭いで目の前の状況に引き戻される。「……臭いがつくから?」「そうだ」睦は短く答える。運転に集中している。車は車線内を走る他の車をすり抜けながら、元来た道を反対に走り続けていた。「……ねぇ、どこ向かってるの?」「家だ」「何で?」「まず第一に人が少ない」「全然わかんない。説明して」「まだ音はしてるか?」

 言われて翼は斧の音を意識した。

 ……カーン!

 音は変わらずするものの、また遠のいている。

 「する……、けど、小さくなった」

 「そうか」

 「今は睦には聞こえないの……?」

 「ああ」言った拍子に、煙草の先で伸びていた灰が睦の膝の上に落ちた。睦はそれを払いもせず、まだむっとした顔で前を見ている。「……すまん」出し抜けに言う。 

 「え?」

 「いや、姉さんの事、黙ってて。お前がその事、知ってるのか知らないのか俺にはわからなかったんだが、もし知らなかったらショックを受けるかもしれないって、怖くて様子見してた」

 ここ数分の出来事の全てが唐突で、睦の謝罪が余りに率直で、翼はしばらく何も答えられなかった。前に向き直り、落ち着こうとして、流れていく夜の街並みを無心で眺めた。母がいなくなったという件については、まだ何が起こっているのかよくわからないが、悪いのは多分母だ。それなのに睦にまで苛立ちを感じた事が見透かされていた。それが不思議と心地良くも感じられた。「ごめん。わたしも嘘ついた。……お母さんからの連絡、全く無いみたいに言ったけど、今日のお昼、お母さんからアプリにメッセージが届いてた。困ったら睦に助けてもらえって感じの。それだけだし、わたしのメッセージはその前もその後も全部無視だし、意味わかんないままだけど」実際の母の文面とはやや違ったが、そこは気遣いだった。母の言い分は勝手過ぎる。

 「そうか」

 「うん」

 「まぁ、何考えてるかわからんが、とりあえず無事ではいるって事だな」

 「多分。少なくとも今日のお昼までは」

 睦がちらっとしかめ面でこちらを見る。「お前、……俺は慰めるつもりでわざわざ希望的観測を」

 「ちょっと待って。まだ現実感無いから」

 「……そうか」

 「うん」フロントからサイドに視線を移す。車は市街地を離れ、街道を走っている。行きに見えた建物が通り過ぎていく度に、結局、睦の家に逆戻りしていく実感が沸く。「で、助けてくれる?」

 「知らん。ものによる」そっけなく睦が答える。これ以上景色を眺めていても憂鬱になりそうで、窓から目を離し、再び運転席の睦へ。睦は灰の落ち切った煙草のフィルタを咥え、まだむっとした顔をしていた。

 「斧の音がずっと聞こえてる」やっと打ち明ける。最初からこうすれば良かった気もするし、この煩雑な手順を踏まなければ何の意味も無かったように思えた。

 「みたいだな」当たり前の様に睦の答えが返ってくる。

 「気づいてたの?」

 「山で倒れた後から様子がおかしいとは思ってた。けど、お前の普通の状態を俺は知らないから、元々おかしい奴なのかもしれないし、判断がつかなかった」

 「……わたしも睦の普通の状態を知らなかったけど、元々おかしい奴なんだって今は確信してる」

 「俺のお前に対する結論は、お前は元々おかしい奴だが、更に様子がおかしかっただ。俺の経験的な予測では、正常な奴はこの状況でそんな嫌味を返してこない」

 「全然、納得できない。わたし、おかしくないし、さっきからお前お前言い過ぎ。行きでの会話、もう忘れたの?」

 「……もう面倒くさいから名前を『お前』に改名してくれ」

 「わかった『おじさん』。『おじさん』がそんなに言うんなら改名してあげる。『おじさん』は記憶力無いから、わたしの名前覚えらんないもんね」

 「………………翼」睦が恨めしそうに視線を送る。

 「なあに?睦」澄まして答える。

 「流石に姉さんの腹から出てきて、姉さんと飯食ってきただけあるわ。……いい性格してるよ」

 「うん。わたし、人の揚げ足取る時だけはIQが150位あるって、お母さんにも褒められたもん」

 窓の外の景色が徐々に山間のものに代わっていく。次に市街地に入った頃には、もう睦の家の最寄り駅の前だ。そして、その後は。

 次、あの場所に戻った時、そこはもう全く別の場所になっているのではないか?睦の家の背景にある山々が、重たく蠢いているように思える。

 ……カーン!

 一度は小さくなった斧の音は、睦の家に近づくにつれて、また大きくなってきていた。

 「で、この斧の音、睦は何だかわかるの?」

 「わからん」

 「……そっか」

 「そうがっかりするな。とりあえず、もうちょっと詳しく話してくれ」睦が少し落ち着いたのか、口に咥えていた煙草のフィルタをダッシュボードの灰皿にねじ込み、新しい煙草に火を着けた。

 「ん。うん……」何から話せばいいのだろう。翼は考えを巡らせ、結局、時系列に沿って起きた出来事をほとんどそのまま睦に話した。川に行く途中、斧の音を聞き、昼寝から目覚めると夕方になっていた。まだ斧の音はしている。どこかにいった左のサンダルを探しているうちに辺りが暗くなり、見つからないまま、仕方なく来た道を戻り始めた。山の中でまだ斧の音はしていて、違和感は感じたものの、暗い道に不安だったので誰か人がいるはずだと、斧の音に向かって声をかけた。斧の音が止まり、逆に激しくなり、異常を感じ、その場から逃げ出した。斧の音と何かに追われている気配が続く中、木の根に足を取られて転ぶ。その後はもう訳がわからない。思い出すのが嫌で、「殺された」とだけ説明した。

 すぐに睦から「生きてる」と突っ込みが入る。

 「うん。生きてた。起きたら睦に抱えられてた。でも、何て言うか夢とは違ったと思う。この後起きる事を体験して、そのまま戻ってきた感じ」

 「この後って、この後って事か?」

 「止めてよ」あんな怖い思い、もう二度としたくない。

 「……自分で言い出したんだろ」

 「例えで言ったの。まだあるから、あんまり茶化さないで」睦は不服そうにするが、無視して話を続ける。

 翌日、睦を連れ添って戻った川で、斧の音がしていると気づいた事。それが徐々に大きくなりながら今まで続いている事。今日の昼、窓から覗いていた斧を持った男。それらを手短に説明した。今朝の夢は省いた。今にしてみれば、夢の最後にどこかへ消えてしまった母が印象深かったが、やはり山での出来事とは無関係な、ただの夢だったように思えた。

 「それで、その斧を持った男は何にもしないでいなくなったのか?」

 「うん。目を瞑ってたら消えてた。何か、ギギギギっていう黒板を引っ掻くみたいな嫌な音がしたんだけど、良くわかんない」

 ふん、と睦が鼻息を鳴らす。あまりいい反応には見えない。

 「ねぇ、……本当に戻って大丈夫なの?」カーン!耳障りな音。もう会話に割り込まれると声が聞き取りにくい程になっている。

 「そんな先の事は知らん」

 「……車止めて」

 「まぁ、待てって。車止めてどうする。さっきのファミレスみたいな事になるだけなんじゃないのか?」

 「睦は……、そもそもわたしの話、信じたの?」あまりに話を否定されない。

 「あ?……いや、まぁ、そうだな。話を信じて行動するリスクと、信じないで行動するリスクを考えたら、信じた方がいいかなってだけだ」

 「明日、この街にミサイルが落ちてくるらしいから、今すぐ逃げた方がいいよ」

 「それは荒唐無稽過ぎるから信じられない」

 「どこが違うの?」

 「話がでかすぎるし、伝聞調で裏付けが無い。斧の音の話はお前の体験だから、お前自身を信じるか信じないかだ」

 「よくわかんないけど、わたしもさっきから睦が言ってるのあんま信じられない。ファミレスでわたしの腕掴んだ時の睦、そんなあやふやな感じじゃなくて、何か確信してる感じがした」

 「……何かって?」

 「わたしに聞かないでよ。ずるい」

 「……ずるい?」睦が口籠る。

 「うん、ずるい。お母さんの事以外で、まだ何か隠してない?」

 「言いがかりだ」

 「本当に?」

 睦が黙り込む。顔をじっと見ると「止めろ、見るな」と顔を背けた。まだ何か隠している、そう言っているも同然に翼には見えたが、これ以上追及しても答えは返ってきそうになかった。

 カーン!

 斧の音。車が街道を降り、駅前の大通りへ続く人気の無い脇道へと入る。確実に睦の家へ、山へ、斧の音へ近づいている。「……怖いよ」黙ったままの睦を相手につい漏らしていた。

 「……そうだな」「普通、こういう時、もっと優しい言葉かけない……?」「気休めを言うのは苦手だ」「睦があんな何にもない所で一人で暮らしてるの、なんかわかってきたかも……」

 「……もし暗い場所に出たら、口笛を吹け」「え?」

 カーン!斧の音。緩やかな下り坂で車は少し速度を上げている。翼は睦の腕越しになっているダッシュボードの表示板に、やるせなく視線を向けていた。手前の睦の腕に、緊張の反応が一瞬にして広がる。異常の感知が伝播して、意識が視界を広げる。ヘッドランプの明かりを何かが遮っていた。「おっ!?」睦の咽たような小さな焦りの叫び。明かりを遮った何かに向かって顔が、視線が、反射的に向かう。近い。それは既に車の前方数mの位置に立っていた。避けられない。急なハンドルが左に切られる。ブレーキ。ブレーキ音。斧の音。斧。車の前方に現れたモノが何なのか、やっとピントが合い、視界に焼きつく。斧をだらんと垂らし持って、佇む男。

 消えた。

 はっきりと翼がその姿を捉えた瞬間、男の姿は消失していた。旋回とブレーキの反動が、認知の混乱と共にやってくる。体が運転席側へ揺さぶられ、華奢な体が千切れるほど、シートベルトが食い込んだ。

 視界で夜闇とライトの明かりがシェイクされ引き延ばされ、何もわからなくなる。タイヤと路面の激しい摩擦音、振動。ズンっとサスペンションが軋み、狭いシートの上で体が跳ねた。止まった?驚くほど素早く全てがわかる。車は進行方向に向かって、左に90度回転し、路面から頭を少しはみ出しながら止まっている。

 斧を持った男がいたはずの方角である運転席側のサイドウィンドウへ視線を向けた。ハンドルを握り、異常なほど体を強張らせた睦の向こう、窓の外には薄闇の路面が伸びているだけだ。

 体中の皮膚が何かを予感して泡立つ。振り返ると助手席の窓の向こうに男。斧。その扇状の刃が勢いをつけて横薙ぎに振り下ろされる。バゴン、と今までに無い巨大な音を立てた衝撃が、車体を揺らし、歪ませ、助手席のドアに犬の口のような亀裂を走らせた。亀裂から飛び出した斧の刃先はすんでのところで体には届いていない。縺れる腕でシートベルトを外そうともがく。余りにも体は言う事を聞いてくれない。いや、頭がまともな指令を出せてすらいないのかもしれない。突然、運転席側から二本の太い腕が伸び、まるで引きちぎるようにシートベルトのストッパーを外した。ストッパーを外した睦の右腕が、かきむしるように覆いかぶさってくるが、それより早く助手席の亀裂からも腕が伸びる。灰か枯れ木のような、死を臭わせる、日に焼けた腕。そのごつごつとした掌が、翼のシャツの胸元を乱暴に掴み、亀裂へと引きこんだ。

 「翼っ!!」睦の叫び声。

 引き込まれる勢いでシャツの胸元が裂け、その力が一瞬弱まる。視界一面に暗い亀裂が開いている。亀裂から伸びた左腕が大きく裂けたシャツを離し、すぐまた噛みつくような勢いで翼の髪を掴んだ。髪の根本が焼けるように熱く、痛みと勢いで体がつんのめり、亀裂へと吸い込まれる。それは殆ど比喩ではなかった。大きい、と言っても腕一本も通れば良い程の暗闇に、翼は上半身を飲み込まれていた。何も見えない。翼っ、とまた睦の叫び声が遠くから聞こえた。落ちる。夢の中で新たな場面へ落ちていったように、次の瞬間、翼は闇の中で落下する感覚を味わっていた。


 12.

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!

 激しい心臓の鼓動と、それを上回って激しく鳴り響く斧の音。死を覚悟し、恐怖以外の一切の感情が消えていた。許容量を上回ったその恐怖は、起伏がなく、ツルツルとして澄んでいて、冷たく乾いていて、全てを拒否していた。

 恐怖によって守られていた翼は、辺りが完全で単純な闇から、明暗の斑を持つ、濁った普遍的な闇に変化している事に気づくのにしばらく時間がかかった。鼻につく咽返る様な木立の匂い。山だ。山に立っている。目が慣れてくると、薄闇の中でも辺りに林立する木々がぼんやりと見えてきた。斧の音は?しない?……いや、する。さっきまで余りに激しく斧の音を聞かされ続けていたせいで、耳が少し馬鹿になっていた。斧の音は遠くから翼を取り囲むように、あちこちで鳴り響いている。

 状況を理解して泣きそうになる。死の予定は先延ばしにされただけだ。恐怖がドライな物からウェットな物に変わり、中から様々な感情や感覚が溶けだしてくる。

 どうしてこんなことになっているの?疑問。体中の痛み。車中での出来事で、体のあちこちを打ったり擦ったりしていた。下腹部が重く、自然と擦ろうとして、タンクトップが襟元から裾ギリギリまで斜めに裂けてはだけ、胸部がほとんど露出している事に気づく。そんなことをしている場合じゃない。そう思いながらも、ぼんやりとした頭で、裂けた襟元の端同士を結びつけた。同じように裂け目の左右を何か所か結ぶと、多少の隙間はあっても、それほど心許ない感じにはならなかった。

 改めて辺りを見渡す。

 先ほどよりも更に目が慣れたのだろうか、気をつけてさえいれば、歩くのに不自由はしない程度に周りが見えた。

 この山は、睦の家の裏から続く山なのだろうか?木々の立ち並び方の感じは近いと思えたが、確信は持てない。

 「睦……」心細さで呟く。あの後、睦はどうなった?そもそも自分はどうやってここに来た?わかるはずもない。

 カーン!カーン!カーン!と、周りを取り囲む斧の音に混じって、地が擦れるような音がする。

 来た。

 音のした方へ顔を向ける。

 斧を持った男。農作業着のような物を身に纏い、顔は目深に被った帽子の陰で全く見えない。

「来ないで」その声は小さすぎて、自分でさえ聞き取れなかった。

 男はまだ遠くにいるが、別に安心できるような距離ではない。男がゆっくりと歩き出す。来ないで。今度は声にすらならない。

 走る事には自信があった。けれど、それは夜闇の山中での話ではないし、得体の知れない化け物から逃げるためでもない。

 怖い。逃げなきゃ。そう思っても、既に足が竦んでしまっている。一度殺された記憶がフラッシュバックし、何もかも諦めて、その場にへたり込みそうになった。

 男の歩みが徐々に加速しだす。斧をだらりと下げていた腕に、力が籠ったのが見えた。思わず後ずさる。男との距離がどんどん縮んでいく。心臓が破裂しそうな程、強く鼓動する。逃げなきゃ……。逃げられない……。逃げなきゃ……。逃げられない……。逃げなきゃ……!男との距離感がわからなくなり、まるで目の前にいるように感じる。カーン!

 振り向いて走り出した瞬間、ほんの数秒でももたついた事を激しく後悔した。大粒の涙がいつの間にか溢れてきていて、ただでさえ悪い視界を更に悪くした。

 足元は凸凹として骨の様に硬いか、内臓の様にぬかるみ、少しでも気を抜けば、また足を取られて転びそうになる。

 そんな場所で滅茶苦茶な走り方をしたせいか、息がすぐに上がった。体中が熱く、喉や肺が痛み、汗が吹き出す。苦しい。気持ちだけが冷え冷えとしている。止まれば殺される。

 走り始めると、男との距離はわからなくなった。後ろを見る余裕なんて無いし、知る事が怖い。

 カーン!カーン!カーン!激しく続く斧の音。これはもしかしたら斧男との距離ではなく、自分の気持ちによって、大きさやリズムが変わっているのかもしれない。酸欠のせいか、恐怖のせいなのか、突然、そんな考えが浮かんだ。違う。そんな事を考えても仕方がない。

 わたしはどこに向かっている?

 ここがどこかだなんて、始めからわからなかった。けれど、自分が緩やかに傾斜した斜面を登っている事はわかった。

 馬鹿だ。わざわざ山の奥深くへと進んでいるのだ。それでは助からない。また涙が零れる。助かりたいと思っても、助かる方法なんてあるとは思えなかった。

 それでも、進む方向を変えたいと思った。山から出なければならない。

 闇の中で突然現れる木々を避けるため、ほとんど前方に向けていた注意を、少しだけ左右に振る。足元の感触から何となく右へ向かおうと当たりをつける。

 ほんの少し、左に体重をかけ、左に曲がると見せかける。鬼ごっこの要領のフェイント。体がつらい。こんな事をする余力は本当は無い。それにそんな事をして、効果があるのかもわからない。

 右に旋回する直前、背後を確認する。怖くて見たくはなかった。したいこと、したくないこと、するべきこと、走る身体、何もかも、もう止める事ができない。振り向いた瞬間、男の腕、そして斧が伸びてくるのではないかと、目を瞑りそうになる。いない。男はいない。

 力が抜けそうになる。わからない。追われていない?

 止まったら、もう走れる気がしない……。へとへとになった体に鞭を打ち、思い切り右に曲がった。今まで見えていなかった物が見える。明かりだ。本当に遠くにだが、わずかに街の明かりが見えた。ここは現実と地続きなのだ。助かるという未来は存在、

 それは木では無かった。

 街の小さい明かりに気を取られ、身動きしないその影を、背の低い木だと勘違いしていた。いや、もしかしたら、それはさっきまで本当にただの低木だったのかもしれない。

 進行方向のほとんど中心に斧男が立っている。カーン!カーン!カーン!一瞬にして斧の音の大きさとテンポが増し、他の音は何も聞こえなくなった。

 男までの距離はもう5mも無い。止まれない。男が待ち構えるように斧を振り上げる。

 

 目の前が突然、焼けつくように白いだ。遠くの街の明かりとは比べ物にならないほどの強烈な光が、足元から天に向かっていた。

 何も見えない。闇も。男も。

 走り抜けるなら、今しかない。限界に達していた身体で速度を上げた。光の中、翼は斧男をすり抜けた。


 翼が通ったあとに次々と光が立ち、辺りを照らした。闇に慣れた目が今度は光に慣れると、木陰の所々に、四角い機器が設置してあって、それが自分に反応して発光しているのだとわかった。

 しかし、それがわかったところでどうにもならない。

 斧男はもはや何の脈絡もなく翼の前に現れるようになっていた。

 一度は見えた街の灯も、目の前に現れる斧男を避ける内に見失い。結局は何もかもが無駄なのだと思えた。

 疲労で意識が朦朧としてくる。動かし続けている筈の脚の感覚が無くなっていき、まるで世界が勝手に流転しているように感じられる。気づけばまた闇の中を走っている。

 そこは開けた場所だった。辿り着いてしまった、と思った。虚脱する。

 醜い瘤ができた木を中心に、木々が輪を描くように立ち並んだ空間。見覚えがある。夢とも現ともつかぬ死を体験した場所。

 瘤のある木を前にして一歩も動けなくなってしまう。頭が真っ白になる。もしかしたら斧を持った男にここに来るよう誘導されていたのかもしれない。それとも、そんな必要もなく、いずれはここに辿り着く運命だったのかもしれない。どちらにせよ、自分はここで死ぬ。急速にあのドライな恐怖が肌を覆っていく。震える唇でピューっと口笛を吹いた。吹いてから睦が車中で突然言った言葉を思い出す。ここが暗い場所だ。震えていた割に、口笛の音はカーンという斧の音と夜闇を裂いて、よく響き渡った。振り返り、闇の中を斧を持った男がゆっくりとこちらに向かってくるのを見た。心が凍りついていく。終わりだ。

 後ずさろうとして腰が抜け、尻もちをついて、その場にへたり込んでしまう。何の力も湧いてこない。地面は柔らかく滑り、腐臭の様なものが漂っている。

 ……カーン!、……カーン!、……カーン!

 斧の音はむしろ静かに響き、近づいてくる男の足音まで聞こえる気がした。何気ないように一歩一歩、男は死を持って、着実に迫ってくる。

 これは本当に現実?そう問い直す。それが最後の希望かもしれない。例え殺されても、今度もまた夢なのだ。これはこういう長い長い夢だったのだ。頬でも抓ってみようか?

 馬鹿らしい。

 そんな事をしなくても、痛みが夢と現実を分ける証拠となるなら、既に体中が擦り傷や限界を超えて走った疲労で痛んでいた。

 黄色いサンダル。木々の輪の中で、男と翼の間に黄色いサンダルが片方だけ落ちている。男がそれを踏みつけにして、また一歩近づく。

 一歩。カーン!。一歩。カーン!。一歩。

 尻もちをついたまま、後ろへ逃げる。無駄だとわかっている。殺すなら早くして欲しい。もちろん本当は嫌だ。それでもいっそ何もわからないように一気にやって欲しい。

 翼が通って点いた照明の灯りが、男の遥か向こうでチカチカ瞬いていた。それに合わせて男の輪郭も逆光でチカチカと浮かびあがる。だらりとぶら下げた斧の刃が白く輝く。

 男の足が止まる。

 男の影が翼を完全に覆う。

 目の前にいるのに、男の顔は依然としてよく見えない。それ以外は普通の農作業着を着て斧を持っているだけの男にしか見えなかった。「……ういあ゛、おうい゛うと……、おおあんあぁ……」不明瞭な音が、見えない顔の辺りから発せられる。その音が声だとするならば、想像していたよりは幾分か高い。少し昼間の男の声に似ていた。

 身体は金縛りにあったように、自分の意思では動かせそうになかった。激しい呼吸が止まらず、自分でも不愉快に思うくらいに”ふぅはぁ、ふぅはぁ”と、開いた口から吐息が漏れた。

 男が軽く右足を上げ、翼の左足首を踏みつけにした。痛い。靴底が肌に食い込む生々しい感触が、男の存在をハードに感じさせる。夢ではない、悪夢みたいな現実として、斧を持った男は存在している。

 ゆらりと振り子みたいに斧が揺れ、持ち上がる。男は翼を見下ろしながら、翼の胸から腹へ、ゆっくりと撫でるように斧の刃先を動かした。車中で掴まれた際に、どうにか裂けずに残っていたシャツの臍から下の部分が、器用に切り裂かれていく。斧が翻る。今度は逆に刃先が翼の腹から胸へと動く。刃先がシャツの裂け目を結んだ玉にかかり、プツっと音を立てて玉が切り裂かれる。プツっ、プツっ、と立て続けに更に二つ結び目が裂かれ、白く平らな腹が、刃先の前に無防備にさらけ出された。抑えようと思っても抑えることができず、呼吸に合わせて白い腹が上下に波打つ。冷たい刃先と、薄い皮膚が接触する。その瞬間、腹もプツっと音を立て、結び目のように裂けてしまうのではないかと思えた。血と肉が飛び散ってぐちゃぐちゃになる自分を想像して、嗚咽と涙が零れる。お願い、早く終わって……。歯医者で乳歯が抜かれるのを待っていた時のように、殺される事を待っている自分に気づく。あの時は、終わった後のご褒美なんて何の慰めにもならず、ただただ情けなく恐怖で硬直し、全てが終わって解放されるのを待ち望んでいた。全く一緒だ。どんなに怖くても、痛くても、待っていれば終わる。

 男はそっと翼の足首から右足をどけた。ジンとした熱い痛みが足首に残る。斧がふらっと腹から離れ、見えない顔が、むき出しになった翼の腹を見ていた。「……うおうあお、……いあ、おおいえ、あうあああ……」相変わらず何を言っているか聞き取れない声。喋っているというより、壊れた音声データを再生しているようだ。

 カーン!カーン!カーン!周囲の斧の音が今までで最も大きく、激しく鳴り響く。

 男が身を屈め、右手の斧をゆっくりと持ち上げていく。斧が男の頭上へと達し、取り返しのつかない分岐点を過ぎるように振り下ろされる。


 13.

 もう見ていられなかった。斧が振り下ろされた瞬間、翼は強く目を瞑った。

 衝撃は、こない。

 涙が頬を伝う感触が、目を瞑ってからの客観的な時間の経過を翼に教えた。なぜ?なぜまだ何も起こらない?何が起こっている?

 恐る恐る瞼を開く。

 斧はまだ男の頭上にあった。目を瞑る前に見た振り下ろす動作のまま、男は止まっている。

 目が合う。斧を持った男とではない。その背後にいる何かとだ。

 灰色の靄。霧?煙?斧を持った男の背後で、何かが燃え上がる火のように揺らめき、男に絡みついていた。目が合ったのはその灰色の靄の中に浮かんだ二つの瞳とだった。

 よく見ると靄の中にあるのは瞳だけではない。人の顔のような影がある。斧を持った男に絡みついているのは靄に包まれた二本の腕だ。靄に包まれた何かは右手を使い、斧男が斧を持っている右手首を掴み、左腕で斧男の胴を抑えている。

 靄に包まれた顔が奇妙に歪む。何か叫んでいる……?周囲の激しい斧の音で、その声は掻き消されているが、不思議と”逃げろ”と言っているように思えた。それは願望なのかもしれないが、正しく行うべきことで、実際に何を言っているのかは、この際問題ではなかった。

 短時間の間に何度も繰り返された過剰な恐怖と感情の麻痺の切り替えが再び起こる。まるでスイッチが切り替わるみたいだ。今なら動ける……。そう確信できた。地面に手をつき、それを支えにしてゆっくりと立ち上がる。頭は冴えても肉体のダメージは深刻で、全身が痙攣し、足がふらついた。逃げるにしても、とても走ったりなどできそうにない。

 斧男と靄を見据えながら、よろめくように一歩二歩と後ろへ下がる。斧男はまだ斧を振り下ろそうとしているようだったが、靄に包まれた腕がそれを阻んでいる。体躯は斧男より靄の方が大きい。今まで気づかなかったが、そもそも斧男が小柄なのかもしれない。

 三歩、もう斧が直接届く距離ではない。静かにそのまま後退を続ける。突然、背中に何かが当たる。一瞬、心臓の鼓動が跳ね上がったが、それは瘤のある木の幹だった。ほっとしている場合ではないが、闇雲に逃げる事もできず、そのまま木の幹にもたれかかった。

 斧男と靄に包まれた何かの二者は、相変わらず組み合っているが、徐々に姿勢が崩れてきている。斧男は靄に押さえつけられ、やや前傾になり、斧を持った右手も、頭から下へと下がってきていた。胴を抑えていた靄に包まれた腕が、斧へと伸びていく。

 靄の腕、左手がついに斧へと届く。何もすることができずに、翼はただそれを見守った。今、目の前で起こっている事態を慎重に測ろうとし、次の瞬間に何が起きてもおかしくはないのだと身構える。この異常な二者による組み合いの結果は、恐らく自分の運命を大きく左右する。

 違和感はあった。斧男は不思議な程抵抗していないように見えた。斧男は人じゃない。きっと人の形をした全く別な何かだ。人間らしい抵抗をしない事もおかしい事では無いのかもしれない。けれど、そう思ってしまうのも、あまりに都合の良い解釈と感じていた。

 靄の左手は斧男の右手から余った斧の柄をしっかりと掴み、力を込めて斧をもぎ取ろうとしている。

 それはびくともしない。いつの間にか斧男は彫像にでも変わったように身動き一つしなくなっていた。

 靄の中の影もその異常に気づいたのか、姿勢はそのままに視線を彷徨わせる。靄の中に浮かび上がった二つの瞳が翼に向けられ、止まった。私を見ている……?違う。……私の後ろ?悟った時には既に靄の中の影が動いていた。

 奇怪な光景。靄が爆ぜ広がり、その中の影が、斧男の体を何の障害でもないように走り抜けていた。翼の目の前に影が迫り、視界が灰色の靄に覆われる。鼻につく臭いが体に纏いつき、怖くなって息を止めた。ぶつかる!靄の中で目を瞑り、身構える。生暖かい風が体中を撫でる。気づくと靄の中で影の腕が翼の両肩を掴んでいた。影が、翼を木の幹から引き離す。勢いのまま、目の前の影に抱きとめられる。それは一瞬のことで、目の前にあった影はすぐに感触を失い、重たく生暖かい灰色の気体となる。翼は再び支えを無くし、地面に突っ伏していた。

 地面は柔らかく、痛みはほとんどない。すぐに身を翻し、上体を起こして顔を上げる。

 視界が影を捉える。殆ど同時に影の背に向かって、二本の斧の刃が左右から振り抜かれていた。

 カカーン!

 木を打つ音が二重に響く。

 翼が今まで支えにしていた木の左右から新たに現れた二人の斧男の斧が、靄の中の影を貫き、幹を打っていた。

 その位置は先ほどまで翼の首があった位置だった。このほんの一瞬の間に命拾いした事を理解し、体が自然と震えていた。

 斧に縫い留められたように見えた影がぬっと動く。背を刺し貫いていた斧を木の幹に残し、影が両腕を大きく振るう。拳が左右の斧男の顔面を強打し、弾いた。斧から手を離して倒れた二体の斧男は、そのまま固まって動かなくなる。影が振り返る。背後の気配に翼は頭上を見上げた。

 一直線になった斧の刃先が世界を左右に分割している。

 理解する。最初の斧男が再び動き出したのだと。

 靄。また靄が翼を包む。鼓動と吐息を感じる。靄を作る細かい粒子の全てが息をし、生きている。眼前まで振り下ろされた斧の柄を、靄が凝縮し、腕となって受け止める。

 先ほどまでと違い、斧男の手からすっぽりと斧が抜け、靄の右手に収まっていた。

 靄が右腕を一閃する。斧男の頭部が胴から離れ、飛ぶ。


 14.

 頭を失った斧男が真後ろにバッタリと倒れた。その向こうの木陰に、新しい斧男が現れている。

 それだけでなく、闇の中全てから斧男の気配を感じた。周囲の闇の全てが斧男だった。

 カーン!カーン!カーン!

 激しい斧の音はもはや単調にさえ聞こえた。

 靄、その中の影は特に動じる事もなく辺りを見渡した後、翼を見つめた。影が何を考えているのかはわからない。視線を交わしながら翼が思ったのは、靄の中の瞳が瞬きするのを見て、靄の中に瞼もあるのだな、という事だった。

 靄が視線を外し、背中を向ける。

 翼も下らないことに向けていた意識を周囲に戻す。

 斧の音が徐々に静まっていくのを感じる。闇が薄れていく。見上げると今まで見えていなかった星空が見え、それが唐突に明け方の薄い青空へと変わっていった。

 呆気にとられる。夜が突然終わった。

 斧男が消え、靄を纏った影だけが目の前に残されている。


 まるで早送りのように不自然に明けた夜に、翼はしばらく呆然としていた。おかしな夜から普通の朝へ、無理矢理乗り入れたような夜明けだった。

 もう何も起こらないのだろうか?斧男は何処に消えた?自分は今本当に生きているのか?そんな事を疲労でふわふわとした頭で考えながら、靄を纏った影を眺めていた。

 靄は日を浴びると白く光り、闇の中よりも濃く影の姿を隠している。周囲との境目がぼやけた白い塊に近い。

 どうして闇の中ではあんなにはっきりと影が見えたのだろう。今の様に日の光を反射していなかったからか?そこまで思って、むしろ闇の中では影に限らずあんなに物が見えるはずもないと、今更ながらに気づく。当たり前の状態に無い時は、当たり前の事にも気づけないのかもしれない。

 周囲に溶け込む靄の中で、薄っすらと影が身を振っている。闇の中では見えた瞳も、靄の白さに飲まれて、視線の先も、顔の向いている方向さえわからないが、何となく自分と同じように、周囲の突然の変化に戸惑って、辺りを確認している様子に見えた。

 周囲の確認は影に任せ、翼は自分の確認を行った。あまりに酷い姿だった。服は言うまでもなくボロボロで、雑巾にもできそうにない。肌はあちこち擦り傷だらけだし、何より汗や土埃でベトベトだった。

 腕や脚を軽く動かしてみる。どこもかしこも鈍く痛み、物凄く重たい。特に斧男に踏まれた左足首が痛む。軽く擦ってみる。少し腫れているかもしれない。しかし、その程度だ。少しほっとして、差し込んだ影に顔を上げた。

 多分、靄の中からまた影がこちらを見下ろしている。じっとしたまま、何かをするような気配もない。翼も特に何をするでもなくじっと見返した。自然と目を凝らし、靄の中から瞳を探そうとする。顔の高さは把握できていたので、こちらを見ている事がわかれば、見つけることはそう難しくはなかった。

 目が合ったからなのか、その時偶々だったのかはわからないが、その瞬間、影は身を翻していた。

 「待って睦」立ち去ろうとする靄に向かって声をかける。

 靄は一瞬立ち止まったような気がしたが、風に揺らいだだけかもしれない。

 「におい、したから。……車の中で嗅いだ煙草のやつ」靄に包まれた時に嗅いだにおいを鼻が思い出す。何となくそうなんじゃないかと思っていたが、靄に包まれた時に睦だと確信した。

 「今行ったら後で質問責めにするから」

 それでも靄は徐々に遠のいていく。少し自信が無くなってくる。

 「……ほんとに待って。お願い。……もう、疲れて立てないから、……こんなところに一人にしないで」

 目の錯覚か、靄が薄れていく。消える?最初は靄と一緒に影まで霧散していってしまうんじゃないかと不安になった。無意識のうちに口から本心が出ていたのだと気づく。変化が錯覚じゃないとはっきりとわかった時、既に影、睦の後ろ姿が靄の中から現れていた。


 檻の鉄柵を思わせる、変わり映えのしない木々の連なり。どこかで鳴きだした蝉や鳥たちの声。睦の足が小枝や落ち葉を踏む音。少し蒸した土の匂い、自分の体臭と睦のうなじのにおい。

 睦が黙って差し出した背中にしがみついてから、どれくらい経ったのか。相変わらず睦はムスっとして口を開かないまま、歩き続けている。

 睦の背で揺られながら翼は少しうとうととしていた。とにかく疲れていて、お腹が痛み、横になりたかった。「……んっ」焦って声が出ていた。気の緩みで我慢していたものが漏れてしまったのではないかと思った。ちょっとした混乱で眠気が飛んでいく。

 「どうした……?」ずっとだんまりだったくせに、嫌なタイミングで睦が口を開く。

 「な、何でもない」声が上擦る。

 「……大丈夫か?」「あんま、……今、お尻、触らないで」「やめろ、意識させるな」「は?違う……!そうじゃなくて、」「待て!今背負い方変える……」「んぅっ!」

 睦の手が、臀部から這って前に移り、膝裏を抱えた。むずむずとした部分から睦の手が離れ、やっと気分が落ち着く。少し蒸れていたのか、風が通ると感じ方が変わって、違和感は無くなっていた。寝ぼけていたのかもしれない。

 「これで、……いいか?」

 「う、うん」その代わり顔が物凄く熱い。

 「……もう、音はしないか?」またこのままだんまりになると思っていた睦が口を開く。

 「えっ?」恥ずかしさと気まずさで、すぐに意図が読み取れず聞き返していた。

 「斧の音だよ」はっきり言われて、やっと理解する。

 「う、……うん」答えて、また耳を澄ます。しばらく前に気づいていたが、改めて確認しても、もう音はしなかった。「うん。……しない」

 「そうか」

 結局、それだけ言うと、睦はまただんまりになってしまった。

 眠気が晴れたのと、妙なやりとりをしてしまったせいで、変に頭が回り始めてしまい、睦におぶわれて密着している事自体、急に気恥ずかしくなってくる。翼は睦の首に絡めていた腕を少し緩め、そっと身を浮かせた。「ひゃっ!」途端に睦がバランスを崩すので、思わずまた胸を押し付けていた。

 「おい!重心変わるから急に変な動きしないでくれ!」

 「ご、ごめん!」謝りながらぎゅっと強くしがみつく。落とされるよりはマシだ。「……わたし、降りようか?」睦が落ち着くのを待って声をかける。睦も多分、疲れている。

 「いや、多分、もうすぐどっかの道に出る。そしたら降ろす」

 「……うん。……わかった」睦が再び歩き出し、睦の背で揺られる。触れている体の硬さがある。靄とは違う。「……何だったの、あれ?」他に言うべき事があったのに、つい口が滑っている。「……ねぇ?」睦が何も答えないので耳元で催促した。

 流石に無視できなかったのか、睦が「……何の事だかわからない」と顔を逸らしてはぐらかした。黙ったまま立ち去ろうとしていた位だから、きっと素直に答えは返ってこないだろうと思っていたが、その通りだった。

 「なんか、靄みたいになってた」

 「俺は何も知らない」

 絡めていた腕の指先で軽く睦の頬を撫でる。伸びかけの髭が指を搔き、ざらざらと音が立つ。おいっ、と睦が小さくうめく。「睦の体、触れたり触れなかったりした」今はこうして、確かに触れる事ができる。

 「やめろ!何も聞かないって約束しただろ?」

 「そんな約束してない。質問責めにはしないって言っただけ」

 「今してるのは何だよ!?」

 「やさしく事情を聞いてる」

 「ふざけんな。俺には何の話だかわからないし、お前は何も知らない、見なかった。この話はこれで終わりだ」憮然として取り付く島もない。

 睦に起こっていた不可思議な状態については、無理に聞き出す事を諦める。興味が失せた訳では無かったが、これ以上続けても埒が明きそうになかった。「じゃあ、その事はいいよ。あの斧を持った男が何だったのかだけ教えて」

 「俺が知る訳ないだろ」憮然とした顔のまま、さも当たり前のように言う。

 「え?……いや、え?わかんない、……の?」こっちが戸惑ってしまう。

 「わかる訳ないだろ。普通」

 「いや、だって、睦も普通じゃなかったじゃん」

 また睦がムっとした顔を向ける。「やめろ」

 「わ、わかった……」強い口調につい口籠ってしまう。

 それを聞き、睦がプイと顔を背ける。

 今、黙られたらもう何も聞けないだろうと、口を開きかけるが、うまく言葉が出てこなかった。

 「……”ふるそま”って話があるな」顔を背けたまま睦が呟く。

 会話が続いた事にほっとする。「ふるそま……?」反射的に睦の言葉を繰り返していた。

 「ああ。漢字で”古”いに仙人の”仙”みたいな字を足して”古杣”って書く。どういう話かっていうと、夜中に山から木を切る音が聞こえるって話だ。もちろん夜中だから木なんか切ってる筈はない。朝になってから音が聞こえた方へ確かめに行っても、木を切った跡なんて無いんだ」

 「……じゃあ、あの斧の音とか、斧を持った男とか、その、”ふるそま”だったの……?」

 「いや、関係ないだろうな」あっさりと睦が言い捨てる。真面目な顔をして振り向いた睦を、つい睨みつけていた。「お、怒るなよ。お前が何か大変そうだったから、俺だって色々調べたり、こそこそやってたんだよ……。そしたら、そんな話があったから。……大事なのは現象が終了していて、再現しない事だろ?世の中、簡単には説明できない事って起こるもんなんだよ。何でもかんでも自分に理解できると思うなよ」釈明の様にぶつぶつと続ける。

 文句を言いかけて、睦の釈明のこそこその部分に思い当たる。「え、あれって睦?」

 「ん、何だ?」

 「何かライトが置いてあった……」山を走る最中、突然地面から照らされた光。光量はもっとあるが、家の駐車場などにあるセンサー点きのライトと似たような物だろう。車の中で空き箱になっていた投光器を思い出す。

 「山で何か起こってるみたいだったからな。暗いと困るんじゃないかと思って」

 馬鹿なの?、と喉まで出かかっているのを翼は必死の思いで堪えた。そんな事をする位なら、もっと心配して、話を聞いて、一緒にいてくれれば良かったのに。

 「やっぱ睦って何考えてんのかわかんない……」

 「え?なんでだよ……?」不服そうに言う。「おかげでお前が車から消えた後、山にいるって確信が持てた。他にどうしようもなかったから家に向かったら、山が光ってたんだ。それで、光を頼りにお前を探した。最後は口笛が聞こえて、お前を見つけられた」

 「そ……。ありがと」

 「おう」


 ブブブブブブゥンという、バイクのエンジン音のようなものが辺りに響いた。突然した音の方へ翼が視線を向けると、いつの間にか木々の先の眼下に道路と畑が見えていて、その手前に点々と男が三人立っていた。話に集中していたせいか、翼はそれまで景色が変わっていた事に全く気づいていなかった。それは睦も同じようで、翼とほとんど同時に気づいたように脚を止めた。げ、と小さく睦が呟く頃には、向こうもそれぞれ顔を上げ、こちらを見上げていた。

 「おめぇ、……そんなとこで何やってんだ?」切り立った斜面に寄せられた軽トラックから、少し離れて一人立っていた小柄な老人が、しゃがれた声を上げる。日に焼けた黒い顔に、白い髪を短く刈り込んで、草臥れた作業着を着ている。声は睦に向けられていたようだったが、視線はじろじろと翼に向いていた。「……誰だぁ?その子」エンジン音がしているのと、少し距離があるので、声を張っているからかもしれないが、まるで怒っているようだった。

 「あ、えっと……、親戚の子です。しばらくうちにいるみたいです」

 「……おう。そうか」老人は何か納得がいったように言って、少し顔を伏せた。

 「ねぇ、恥ずかしいから降りる」睦に耳打ちをする。

 「わかった」ちらとこちらを見て、睦が答えた。

 睦の背から離れると、自分がとても服とは呼べないボロ布を纏っているのが目について、慌てて睦の背後に隠れた。老人はいつの間にかまたこちらを見ていて、翼は軽く頭を下げた。「……野月翼です」消え入りそうな声だったが、きちんと聞こえたようで、おう、と気まずそうに老人は返し、視線を睦へ逸らした。

 「いや、朝の散歩のつもりだったんですけど、こいつが拗ねて先に行っちゃったり、転んだり、気づいたらこんなところに出ちゃって……」

 「危ねぇから、川の方以外は行くなって言ってあったろ」

 「すんません」

 軽トラックの付近では、睦と同年代ほどの灰色の作業着を着た二人が、手持無沙汰に老人の様子を伺っていた。バイクのエンジン音かと翼が思っていたのは、その二人が用意していたチェーンソーのエンジン音のようで、いつの間にか静かになっている。

 「おう、わりぃな。頼むわ。始めてくれ!悪くなってんのは印つけてあっから、道沿いのは全部やっちゃってくれ」様子に気づいた老人が、二人に声をかける。

 またチェーンソーのエンジン音がしはじめ、二人が近くにあった木に向かって作業を始めた。エンジン音が一際大きくなり、見る間に木が切り倒されていく。

 それを横目に見ながら、睦が斜面を降りていく。翼も後について、斜面に生えた木の幹を頼りに斜面を下った。手をついた幹の一つに、白いチョークで丸がしてあり、山で見た木のように気味の悪い妙な瘤ができていた。

 「じいさん死んでから、管理なんかしてなかったから、大変よ。私は山の事なんかわかんねぇからさ」

 老人の近くに立って、はぁと生返事する睦の後ろにまた隠れる。

 「お、そうだ。こないだ言うの忘れてたわ。おまえ居なかったから、じいさんの斧、勝手に使ったからな」

 「え?」

 「物置のやつだよ」

 「あー、はい。いや、元々俺のじゃないんで別に」

 「道沿いだけだったら、あれで何とかなるんじゃないかって思ったんだけどさぁ、あんなもんじゃ全然駄目で、結局、人に頼む事になっちまったよ」

 はぁ、とまた睦が生返事をした。

 

 「いたじゃん。今どき、斧使う人」

 「は?」

 「山で斧の音がするって言ったとき、『斧なんて今どき使わないだろ』って偉そうに睦が言ってた」

 「そうだったか……?」

 「いたじゃん」

 「……お、おう」

 何十分も世間話をして、憔悴しきった睦が家に向かって先を歩いていた。山から下りた道は、以前睦が言っていた、家の前を走る舗装路の先の民家付近で、老人たちと別れてしばらくしてから翼は口を開いた。斧の音がしなくなった代わりのように、悪くなった木を伐採するチェーンソーの音が遠くでしている。

 「いや、斧って言ってもあれだぞ。多分、薪割る用とかの小さいやつだぞ。普通、木を切るのに使ったりしないって」

 「でもいた」山に入った時に聞いた斧の音は、その時の音だったのだろうか?そうだったのかもしれない。そして、部屋の窓から覗いた斧を持った男は、あの老人だったのだろう。向こうからしたら、知らない女が薄暗い部屋に蹲っていて、幽霊でも見たと思ったに違いない。「……あのさ、あの人、お婆さん?」

 「あ、ああ。前言った、うちの家主の婆さんだ。俺も初めて会った時は、爺さんだと思ったよ」

 「う、うん」睦と世間話しているのを聞いている間に、そうなのではないかと気づいていた。しゃがれた声や、話し方に髪型のせいで、丸きり男にしか見えない。

 「仕事で埼玉と名古屋を週四で往復してた頃があって、その時、会ったんだ」

 「え?……睦、仕事してた事あったの?」

 「じゃなかったら、どうやって今、生活してるんだよ」心外そうな顔で睦が振り向く。「その時は車載の仕事してたんだよ。で、向こうの現場に行かされてた。最初は一か月って話だったのに、どんどん伸びて、これ以上、名古屋行かせるんだったら、引っ越すから金出してくれって会社に言ったら、それは無理だとか言われて。どう考えても交通費の方が高いのにマジで訳がわかんねぇ。とうとう帰る気も失せて、名古屋の飲み屋でヤケ酒してたら、隣に座ってたのがさっきの加隈さんだよ」また前を向いて歩き出す。「旦那が亡くなったばかりで、弁護士のとこ行ってた帰りらしくてさ、さっきの調子で絡まれて。気づいたら翌朝、あの家見せられてて、今なら安く貸すから、しばらく住まねぇかって」

 「ふーん」生返事を返す。長い間、世間話に付き合わされていたせいで、頭が完全に世間話モードになっているようだった。

 「加隈さん曰く、偏屈な旦那で、別居して一人で暮らすのに、周り何も無いあんな所にあの家を建てたらしい。それで、あの家見てたら、まぁそれもいいかなって、俺も仕事辞めて、あの家借りる事にしたんだ」

 「ふぅーん」と生返事を伸ばす。睦が不服そうな顔をこちらに一瞬向け、口を閉じる。ようやく自分がつまらない話をしている事に気づいたらしい。

 周りには右手の山と、枯れた田畑と道と空以外何も無い。いつまで歩けば家に辿り着くのか。道はカーブしていて先が見えない。

 前を歩く睦の背が無ければ、少し不安になっていただろう。

 昇った陽が照って、また汗をかき始めていた。内腿を舐めるように、べたついた汗が流れる。「あ」

 「どうした?」歩みを止めて睦が振り返る。

 「こっち見ないで!」

 「あ?」

 「見ないで!」

 渋々睦が前に向き直ると、翼はそれを指で拭って確かめた。なるほど。昨日からあった違和感や、さっきの勘違いの原因を理解する。

 「何だ……?」

 もう着る事は無いだろうシャツの背で、指先を拭くと、不思議そうにする睦に追い付き、その手を取った。「ごめん。帰ったら薬局連れてって」

 「やっぱどっか怪我してたか……?」心配そうな顔が翼を見下ろしていた。

 「ううん。大丈夫」

 「医者行くか?」

 「そういうんじゃない」

 ようやくカーブの先に睦の家が見えてきた。慌てたように斜めに駐車された車がおかしく、翼は少し笑ってしまった。


 15.

 「はい。いや、ありがとうございました」

 電話は昔から苦手だった。相手の姿が見えない。会話をコントロールするための情報量が不足する。何を話したらいいか、わからなくなる。

 「え?うーん……。まぁ、あの人も大人なんで、心配しすぎも良くないし、もういいと思いますよ……」

 だからと言って直接会って話すのも得意という訳ではない。自分から目を逸らすように、相手から目を逸らしてしまう。特に今話している相手は苦手な部類だった。世代も違うし、価値観の共有部分が少ない。できれば避けたい相手だった。

 『娘がいただろ?』

 「え?はい。旦那の葬式の時、少し見かけました」

 『……ん?お前、葬式には顔出さなかっただろ?』

 「あ、いや、はい」

 『なんだ、来てたのか』

 「その……、はい」

 電話口から生暖かさまで感じる溜息が聞こえる。『その娘、もう小5なんだが、夏休み前から学校に行ってない』

 「そうなんですか」

 『ああ。教師が授業中に顔を叩いて問題になったらしい。今日日じゃそれくらいでも騒ぎになるからな』

 「はぁ」

 『その後、転校届が出されてる。転校先はわかってない』

 「それ、可秧さんの失踪と何か関係ありそうですか?」

 『いや、わからん。けどな、その娘の方が先に消えてるんだ。最後に可秧が目撃された時、娘は居なかった』

 「え?」

 『これは確かだ。7月21日、朝7時頃、可秧自身が、自宅のマンションから車で娘をどこかへ連れていき、戻ってきたときには娘は居なかった。防犯カメラの映像で確認がとれている。その後、娘が戻ってきた形跡はない』

 「失踪先に先に行かせたんじゃないですか……?」

 『何のために?』

 「いや、それはわからないですけど……」

 『それから、もう一つ、気になる事がある』

 「はぁ」

 『近所の住民が、可秧がおかしな男といるところを目撃している。……その男は、肌も含めて全身が灰色だったそうだ』


 家から少し先の薄暗い砂利道から小走りに睦が駆けてきて、ぱたんと運転席の扉が閉まった。

 「何の電話だったの?」ただでさえ家を出るのが遅くなり、日は完全に落ちてしまって、辺りでは虫や蛙の合唱が始まっている。

 「ん。いや、古い知り合い」それだけ言い、睦がルームランプを消して、車のエンジンをかけた。

 斧の音が聞こえなくなってから数日経ち、一応の確認として、睦と二人で沢へと出かけた。特に異変は起こらず、あまりに爽やかな水の流れに、水着でも持ってくれば遊べたのに、と翼が呟いた事で、突発的に明日から海へ旅行する事になった。

 最初の話ではそのための買い出しに、沢から戻ったらすぐに行く事になっていたのだ。しかし、家に着いて麦茶を飲むために冷蔵庫を開けると、そうもいかなくなってしまった。

 昼からパーティーのように、冷蔵庫の生鮮食品を調理し、二人で平らげ、気づけば夜になっていた。

 睦の電話が鳴ったのは、食べ過ぎで苦しいお腹を抱え、ようやく家を出て、車に乗り込んだ時だった。

 車を出て電話をする睦を、翼は少し心細くなりながら車中から眺めた。家の中は圏外なので、タイミングが良かったとも言えるし、悪かったとも言える。

 「もうお店、閉まっちゃう」

 「ケンジントンなら開いてるだろ」以前カーテンを買いに行った24時間営業のショッピングセンターだ。

 「水着、買えないじゃん」

 「え?水着、あるんだろ?」

 「まぁ、あるけど」

 「あ、俺、無いわ」

 「え」

 「まぁ、いいか」

 「いや、よくないでしょ。パンツで泳ぐの……?」

 「意外とバレないんじゃないか……?」

 「ねぇ、本気で言ってる?」

 車が砂利を踏み、走り出す。

 カーン、と斧の音が聞こえた気がした。

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