第19話 銭・ゲバルト
響工業の存続を目的に、フランスのエクイティ・ファンドを巻き込むうえで、李が描いたのは2つのシナリオだ。1つは、響工業が新株を発行し特定の企業などに保有してもらう第三者割当増資だ。響工業が4000株の新株を発行し、李が代表を務める台北経世投資顧問日本支部とギャルソンノーブル社が2000株ずつ取得する。ひとまず議決権は付与することにする。
李は電卓を弾きながら第三者割当増資後の株主構成を紙に書いた。
■発行済株式総数:2万4000株
保有株数(保有比率)
8500株(35・4%) 日引社長
8300株(34・6%) 美空銀行
2100株(8・8%) 塩津美千代
2000株(8・3%) 台北経世
2000株(8・3%) Garçon Noble
1100株(4・6%) 塩津フミ
日引社長と台北経世、ギャルソンノーブルの持ち株比率は合計で52%となり過半数を超える。これで銀行の株主提案は否決できるが、既存株主にとっては良い話ではない。ギャルソンノーブルの出資が得られなければ元も子もない。
もう1つは第三者割当増資ではなく、既存の株式を買い取るという方法だ。全株主に台北経世が響工業株を1株12万円で購入すると告知する。現在、響工業が抱える負債のほとんどは美空銀行からの借り入れだ。保有株数と購入額を単純に掛けると、この買付提案に応じれば美空銀行は最大9億9600万円を手にすることになる。メガバンクにとっては端金に過ぎないかもしれない。だが形式的であれ貸し倒れリスクを指摘した顧客から、融資が回収でき、わずかながらも儲けが得られる話に、金融業として乗らない訳にはいかないだろう。
発行済み株式総数2万株のうち8500株を持つ日引社長が売却に応じるのは考えにくいので、買い付け株数の上限を1万1500株とする。塩津美千代・フミが、売却に応じるかは不透明だ。彼女らが売却に応じなかった場合は買い付け株数は、美空銀行の保有株数である8300株となる。
もし塩津家が提案に応じれば、美空と東京電工の多数派工作はもろとも崩れ去る。そして二人には最大で3億8400万円のキャッシュが入ってくる。
美空銀行の影響を削ぎ落した後、台北経世で購入した株の一部は、どこかのタイミングでギャルソンノーブルに1株12万円で売却することにする。
台北経世とギャルソンノーブルの出資額は合計で9億9600万円から13億8000万円。欧州向けの受注で2年後の売上高が50%増えると想定し、経営努力も手伝って利益率が今の10%から15%に高まるなら、2年後の響工業の経常利益は2億2500万円。ざっくり税金などを引いてその4割が最終利益となるなら9000万円だ。
その全額を配当に回したとして、保有のみで2社が資金を回収するのにおよそ10年以上かかる計算だが、上場を目指してしまえばよい。欧州向けの受注以外のところで、響工業が年率10%売上高を増やしたとして、4、5年後には売上高は20億円台となるだろう。1株12万円に発行済み株式総数を掛ければ現在の時価総額は24億円。十分、成長しそうな雰囲気があるではないか。響工業が成長軌道に乗った段階で、他のメーカーに売却するという選択肢もある。
これらが李の考案した響工業の生き残り策であった。
ギャルソンノーブルのオフィスは日本橋にある。約束は午後5時半だ。大急ぎで部下が作成した資料をブリーフケースに入れると、李は秘書を引き連れてタクシーに乗った。これから会うピエールという名の中年男性は20年近く前、シンガポールで証券マンとして勤務していた時に知己を得た。辣腕ディーラーとして名を馳せていたピエールも50代に差し掛かり、日本人女性との結婚を機に東京に定住し、プライベート・エクィティを運営するに至った。李とは年に2、3回、ゴルフをともにする間柄だ。
わずかに開いた車窓の隙間から入る風がひんやりとしている。道路と街路樹、建物はいつもの都会の姿に変わりはないが、街を包む湿気の無い空気が、昨日とは全く別世界に無意識のうちに移ったかのような錯覚をもたらした。
高層ビルの22階にあるオフィスの受付で来訪を伝え、ロビーのソファに腰を掛けて待つと、受付横にある木製のドアからピエールが現れた。頭頂の禿げた、李と同じぐらいの身長で、肥満体型の中年男性は顔の堀が深く、やや上に向いた鼻には丸縁のメガネが掛かっており、上半身の割には華奢に見えるズボンをサスペンダーが吊り上げていた。
ピエールは英語で李を出迎えると、応接室に案内した。黒革の張られた長椅子に李は腰を下ろし、辺りを見回すと、壁を覆うようにして立つ本棚に、金融工学や各国の法律書がずらりと並んでいる。
東に面した窓からは金色に染まった皇居近くの建物群が目にとまる。
革張りのソファに浅く腰を下ろすと、 李が口を開いた。
「突然、お邪魔する形となり申し訳ない」
「いや、いいんだ。早く儲け話を教えてくれないか」
秘書はブリーフケースに入れたクリアファイルから、A4サイズの紙を10枚程度、クリップでまとめた資料をピエールに手渡した。ピエールは、口髭をさすりながら、英文で記された資料に目を通した。李は言った。
「非常に小さい会社で恐縮だが、東京電工とメーンの銀行にいじめられ続けている会社だ。技術力はある。成長の確度は高い」
ピエールは頷いて言った。
「台湾の人間なら、日本の技術力は喉から手が出るほど欲しいものだよね」
「それは否定しない」
李はさらに続けた。
「ところで君の母国では、製造業の力は維持できているのだろうか。聞いている限りでは、次世代の民間航空機の性能を高めるために、高品質の日本の部品を航空機メーカーが数多く採用しようとしているようだけれども」
「このヒビキというカイシャは航空機の仕事をしているのか」
「やっている。厳密に言うと、昨年経営統合したシオツという名の会社も、それを手掛けていた。東京電工には次世代衛星の試作部品などを納めているようだ」
「東京電工か。米国の航空機メーカーのエンジン部品もやっているところだよね。そこにもヒビキは関わっているのか」
李は付け加えた。
「君も知っていると思うが、日本には共存共栄意識が強い。もし台湾の会社が技術力のある日本企業の筆頭株主になろうものなら、こちらの経済界は売国奴が現れたなどと大きく騒ぎ出す可能性がある。新聞を使って世論誘導をすることさえある。技術流出の恐れがあるなどと言って、場合によっては競合メーカーがディールに横やりを入れるような不思議な国だ。一方で欧米企業の買収の場合は、ごく自然に受け止められ、時には新たな可能性を生み出すものとして歓迎される。技術が流出する懸念があるのは共通しても、だ」
「それで、うちを噛ませたい。そういうことか」
「フランスの航空機メーカーもアメリカ企業にやられてばかりという訳にはいかないだろう。繰り返しになるが、あなたの国のメーカーは、アジア諸国の優秀なサプライヤーとの関係を強めたいはずだ」
ピエールは窓の外に目をやった。頭の中でシナリオを描いているように見えた。数秒経ち、口を開いた。
「航空機産業についてはおそらく機体メーカーの調達関係者か、フランス国内の部品メーカーの製造責任者がヒビキの生産工程を観察し、技術力を認めない限り、いくらアメリカの仕事をしているからと言ってすぐには決まらない。それについては時間もかかる。当社としては、航空機の仕事が一つでも決まった段階で出資を検討したい。どうだろう」
李はため息交じりに言った。
「第三者割当増資の引き受けには応じにくい、ということか」
ピエールは首を横に振り、李の目を見て言った。
「残念だが難しい。だが、ディールに興味がない訳ではない。君にとってはチャレンジングなことかもしれないが、まずは株式の買い付けに動いたらどうだ。株価をいくらでも吊り上げられるよう、水面下で資金面での援助することは可能だ。もちろん限度はあるけれども」
「それはありがたい。私とあなたの関係だ。できるだけ低利にしてもらえると嬉しい」
李は顔の筋肉をほぐしながら、謝意を示した。ピエールは続けた。
「株主構成を見る限り、君の買付提案を拒否するよう、美空銀行はミチヨとフミに何らかの圧力を掛ける可能性がある。そこへの手立てはあるのか」
「そこが買付する場合のカギを握るのは言う間でもないが、正直に言うともう少し情報を集めなければならない。実は私は一度、シオツフミが住む家を訪ねたことがある」
ピエールは目を丸くした。李は話を進めた。
「シオツはいい男だった。真意は不明だが、亡くなった時、とても残念に思えた。自宅の住所を知らなかったので、ある工具メーカーの若い営業担当者と一緒に、家まで『コーデン』を渡しに行ったのだ」
「その行動はきっとディールにとってアドバンテージとして働くかもしれないね」
「向こうは覚えていない公算が大きいが、そう信じるしかない。残念ながら、ミチヨには会えなかった。フミは、ずいぶん歳を重ねていてアルツハイマーが進行しているようだった。汚い話になるので許してほしいが、彼女は私たちの前で失禁をした」
ピエールは顔をゆがめた。
「フミを介護しているのはミチヨなのか」
「そのようだ。実はこの後、ヒビキとこの件を相談しようと思っている。君に打診する前に話を付けるべきだったのかもしれないが、彼は今、銀行との関係で頭に血が上っているので、冷却期間が必要なのだ」
「そうか。ヒビキは受け入れてくれそうか」
李はきっぱりと答えた。
「書類を見る限り、東京電工と美空に関係性を絶ち切られたら、この会社は他に頼れるところはない」
「では社長がこの案を呑んだら、すぐに連絡してほしい。いくら必要なんだ?」
李は笑顔で答えた。
「買付価格については、今はこの資料にある価格でいけると踏んでいる。ディールの手付金という意味でも、いくらか貸し付けてもらえるとありがたい。君が心変わりしないためにもね」
ピエールは笑顔で返した。
李はギャルソンノーブルとの仮合意を取り付けると、秘書にタクシーを拾うよう命じ、日引の携帯に電話を掛けた。ピエールにはあたかも日引と約束を取り付けているかのように装っていたが、実のところ社長の予定は把握しておらず、頭の中で急きょ組み立てた方便であった。3コール目で社長が出ると、李は買付提案について説明をしたいと申し出た。
日引は青梅市を貫く国道から一本逸れた道を進んだ先にある、多摩川を跨ぐ橋の上でクラウンを停め、リクライニングシートを倒し、漫然とAMラジオのニュースを聞いていた。客先を訪問していた訳ではない。会社の社長室に戻れば仕事もあったし、自宅に帰ることもできた。ところが、そのどちらに向かっても、美空銀行の人間が待ち構えているような気がした。銀行側の提案の回答には猶予があったものの、ほぼ毎日のように、担当者から電話が掛かってきたし、一昨日以降は会社や自宅の前で待ち伏せをされ、真意を問い質される。自身の居場所を失っていたのである。
フロントガラス越しに見えるのは、都内とは思えないほど漆黒の闇が包む奥多摩の山並みだった。
李は今晩、会う時間はあるか、と訊いてきた。目の前に広がる自然に自分の姿を潜めたいという衝動を抑え、青梅市の多摩川にかかる橋まで出て来てくれたらありがたい、と伝えた。
李は秘書が捕まえたタクシーに、首都高と中央道と圏央道をぶっ飛ばしてほしい、と言った。
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