9-1 the end of the beginning(1)
『Would you like to make some money?(一儲けしないか?)』
ディスプレイに表示された一文。
チラチラする電子光の眩しさなど、とうに慣れてしまった視覚は。違和感も抱かずに一文に導かれるまま、自らの手を動かした。何の躊躇もなく、滑るマウス。同時にディスプレイのポイントが動き『Yes』とポップアップされたボタンをクリックする。
その本当に短い一文と、些細な動作。この瞬間、三ツ谷なつかの運命は大きく変わった。
元々、パソコンを弄るのが好きだった。たった二つの数字で共通言語が生まれたり、プログラムは仮想空間を超えて無限に広がる。のしかかる現実の不安や苦しみが体や頭から剥離する感覚。時間を忘れて、唯一意のままに操れるこの時間は、なつかに言いようもなう万能感を与えた。
しかし、好きなことを将来に直結させるには、浅はかであると考えていた。
世の中には、自分より能力の高い者はごまんといる。そう劣等感を抱かざるをえなかったのは、その中に一番身近な存在・弟であるすばるも含まれていたからだ。パソコンのキーボードやマウスを操るなつかの姿を、すばるは目を輝かせて見ていた。ディスプレイに反射するすばるの視線を画面越しに合わせて、なつかは振り返る。
「すばるも、やってみる?」
なつかは、期待の光が溢れるすばるの手をとった。
純粋な直向きさと貪欲さは、なつかの
その時抱いた、一握の嫉妬のような仄暗い感情。しかし、自分に全幅の信頼をおき、屈託なく笑うすばるの脅威的な能力に、嫉妬することさえ、愚かなことだと思わざるをえなかった。劣等感さえ押し殺してしまう、深く眠らせたはずの感情。
それが『Would you like to make some money?(一儲けしないか?)』という、たった一文で溶かされ、剥き出しとなった自尊心に熱量が集中する。
誰かに、能力を必要とされている。
誰かに、能力を認めてもらいたい。
その一心と、欲望が。
なつかの指と、頭が。支配されて、止まらなくなった。
『Blood Diamond is cool like an 〝edgelord〟,isn't it?(ブラッド・ダイアモンドって〝中二病〟みたいでカッコいいでしょ?)』
ブラッド・ダイアモンドの由来を最も簡単に話すのは、創始者であるステラ。
よく笑い、よく喋る。とても気さくな若者だった。独特の訛りを持つ早口な英語と、パソコン以外にも造形が深く豊富な知識を持ったステラに、なつかは初回接触ですっかり魅了されてしまう。初見、ドキリとする組織名も。ビートルズをこよなく愛すステラが、中二病的センスとノリで付けたそうだ。
〝サイバネスティック
世界各国から、ステラの独特の感性でスカウトした数人で成り立つ小さな組織。大学のサークルのような軽さに加え、技術や能力を自己研鑽しあう。互いの本来の姿を知らないものの。ブラッド・ダイアモンドが構築する関係性は、なつかをのめり込ますには十分であった。
初めは、ちょっとしたイタズラくらいだったように、なつかは記憶する。企業のホームページを勝手に書き換えたり、仮想通貨をこっそりくすねたり。
『It's a crime enough to steal a cent from the pocket of a giant IT company CEO.(巨大IT企業のCEOのポケットから一セントを盗む程度の犯罪だ)』
ステラはよく、自信に満ち溢れた声でよく言っていた。本当に小さな
次第に人数も増え能力も向上し、いつまでも良好な関係性は続く。なつかのみならず、ステラ自身もそう思っていたに違いない。しかし、ブラッド・ダイアモンドは、なつかやステラの予想をはるかに上回る勢いで船首が傾く。
『I robbed the money from the casinos in America.〝Mars' worms〟 are the strongest!(アメリカのカジノから金を奪った。〝マーズ〟のワームは最強だな!)』
グループウェアに掲示された、たった一つの書き込み。この書き込みが、ブラッド・ダイアモンドを世界的サイバー犯罪集団へと変化させていく。
その書き込みを見た瞬間、なつかの全身を流れる血液が凍るような気がした。〝マーズ〟は、なつかのハンドルネーム。組織内で一目置かれたかった、そんな浅はかな理由で、なつかはすばるが作ったワームに手を加え、共有サーバーに置いていた。凍った血液が溶け切らぬうちに、当該事件が世界中を駆け巡る。
そこからは、坂道を転がるようだった。サーバーに格納されていたウィルス等が次々とサイバネスティック空間に放たれる。なつかやステラですら、止めることが不可能はほどに。ブラッド・ダイアモンドを語る者が、続々と機密文書の情報漏洩や不正アクセスを繰り返す。
あれほど楽しく、魅力的な空間であったはずなのに。燻っては燃え上がるブラッド・ダイアモンドの冷たい炎は、なつかの心身まで燃やし蝕むようだった。
『Hey, Mars. I'm tired.(なぁ、マーズ。なんだか、つかれちゃったよ)』
その日。静かに吐露したステラの声は、どことなく覇気がなくそしてか弱かく思えた。なつかと同様に無尽蔵に放たれたブラッド・ダイアモンドの炎。〝火消し〟に、身を粉にして取り組んでいたステラの本音。そこには察するまもなく、後悔と疲弊の色味を帯びていた。
『I haven't been able to sleep well lately. It seems ……like someone is watching me, and I always feel uncomfortable.(最近、眠れないんだ。誰かに常に監視されてるみたいで……なんだか落ち着かない)』
「ステラ……」
なつかはそれ以上、ステラに声をかけることができなかった。
おそらく、精神的なものからくる疲労だろう、と。この火消しが終われば、きっと。ステラも落ち着いて眠れるはずだ。はぁ、と。画面の向こう側から漏れ聞こえるため息に、合わせるように息を吸ったなつかは、「We'll do our best, Stella.(頑張ろう、ステラ)」と精一杯の気持ちを伝えた。
伝えた--はずだった。
それからしばらく。空気が冷たく澄み渡り、クリスマスソングが流れ始める頃には、なつかの火消しも、到底追いつかない状況に陥っていた。〝ブラッド・ダイアモンド〟と〝天才ハッカー・ステラ〟の名前が一人歩きをし、なつか自身もステラとの連絡が取れなくなる。急速に、不可抗力なまま。ステラ率いる〝ブラッド・ダイアモンド〟は、いつの間にか世界的なサイバー犯罪集団としての地位を築いていたのだ。
『Mars! Watch your surroundings!(マーズ! 身辺に気をつけろ!)』
突然、ヘッドホンから響くステラの焦る声。暗い自室でゲームのプログラムをしていたなつかは、いつの間にかウトウトしていたらしい。いきなりの叫び声に、なつかは飛び上がるほど驚いた。
「……What's. What's wrong? Stellar.(ステラ、どうした?)」
ディスプレイがぼんやりと浮かび上がる濁った視界と、虚な頭。再び眠気に引き摺り込まれそうになる物理的要因に、なつかは懸命に逆らいながらゆっくりと応える。ステラは、さらに勢いを増して喋り出した。
『Just do it! Listen to me!(いいから! 言うことを聞いてくれッ!)』
「……ステ、ラ?」
叫び声に近いステラの声。ヘッドホンに反響する尋常じゃないその声に、なつかは思わず息を呑んだ。
『I failed! I will be killed!(失敗した! 消される!)』
「What ……are you talking about?(何……言ってるんだ?)」
信じられない内容を、ステラは叫び続けた。耳では理解できるのに、頭が理解を拒否する。頭をすり抜けるステラの声を受け入れ難いのか。なつかの声は掠れて、発声が滞った。
『Run away! You won't be able to get out!(逃げろッ! 抜け出せなくなるぞ!)』
「……ッ!?」
『Run away! Run aw……』
--プツッ、と。
ヘッドホンから「逃げろッ!」と叫ぶ声がこだまし、砂塵を洗う風のように消える。何の音も拾わないヘッドホンから、得体の知れない恐怖が湧き上がり、なつかは思わず壁に向かって投げつけた。椅子から勢いよく立ち上がると、ぶつかった壁を背を預ける。
(どういう……こと、なんだ? 何が起こったんだ!?)
瞬間、両足が震え出した。ステラは何故、逃げろと言ったのか? 得体の知れないものに覆われた、答えのでない質問。それは、なつかを深い闇の底へと突き落とす。
「……なつか、どうしたの?」
ヘッドホンが壁に当たる派手な音に反応したのか。なつかは、穏やかなこえに自室にいたすばるが、そっとドアを開けなつかの部屋を覗き込んでいる。なつかは震える足に手を添えて、無理矢理笑顔を顔に貼り付けた。
「なんでもない。ゴキブリがいて、驚いただけだから」
「えッ!? ゴキブリどこッ!?」
「いや、もう……どっか行っちゃった」
「オレんとこ来たかな!? やだーッ!!」
小さな子どものように跳ねて、なつかに抱きつくすばるの柔らかな髪。鼻先に触れた石鹸の香りが、恐怖でカサついた気分を落ち着かせた。
(大丈夫……。きっと、大丈夫だ)
溢れ出して止まらない不安を包み隠すように。なつかは無理矢理自分の弱さを偽って、すばるの頭を撫でた。
それからは、何事もなく。なつかは一人歩きしたブラッド・ダイアモンドから距離を置いた。正確にいえば〝置き去りにされた〟と言った方が正しい。ステラの切迫した叫び声が耳に残るものの。無意識に薄くなる記憶に比例して、胸に巣食う不安でさえも、次第に曖昧になっていった。
--キーン、と。強い耳鳴りがなつかを襲う。
十二月の末、ぼやける視界には雪がちらついているのに。肌が拾う気温は、頭すら動かせないほど痛く熱かった。
(何が……何が、起きたんだ……?)
ゴツゴツとした岩肌に投げ出されたなつかは、己の体に繋がる直近の記憶を懸命に掘り起こす。
『ブレーキが……効かない!!』
海沿いのレストランからの帰りのことだった。ハンドルを握る父親の
冷たいアスファルトを滑るタイヤが、悲鳴を上げる。甲高い車の悲鳴に、体が左右に大きく振られた。瞬間、ブレる視界の先に、白いガードレールがヘッドライトに照らし出された。
『詩央里ッ……なつかッ』
母親と自分の名を、父親が叫んだその時、車体が重力を失う。スローモーションのように空を漂う車。なつかの視界は、ゆっくりと流れる冬の星空を捉えていた。
まるで、夢の中のようだ。そう思うと、何故か歯を食いしばっていた顎の筋力が緩む。
(最後くらい、幸せで満たされたい)
なつかはそっと目を閉じ、記憶に残るありったけの幸せを集めようとした。
しかし--。
--バァァァン!
目の前に閃光が現れ、生じた爆音が耳を壊す。一瞬で全身をつたう灼熱に、なつかは身を縮こませた。熱風が秒の速さで車内を勢いよく包み込む。勢いは凄まじく、弾き飛ばされるように、なつかの体は支えを失った。何かを掴もうと、振り回す手足に地獄の業火のような熱さが纏わりつき、次第にその感覚を奪っていく。力も入らない体。なつかは意識を手放し、深く暗い闇へと落ちていった。
目を開けると、なつかは岩肌にうつ伏せに倒れていた。
鼻をつくガソリン臭をただよわせながら、轟々と音を立てて燃える何かが暗闇に浮かび上がる。焦点が合わない視線を懸命に凝らして、なつかはその正体を確認しようとした。
分かってはいた。頭では、その正体が何なのか。最悪の事態を分かってはいるのに……。全てが夢であると認識したかった。自分に降りかかった全ての理不尽が夢である、と強く思いたかったのだ。
「へぇ、生きてるのか」
「ッ!?」
突然、頭の上から投げつけられた言葉に、動かない体が飛び上がるほど驚いた。首を動かすと、灼熱をまとった体がミシミシと音たてる。
「生きているなら、選ばしてやるよ」
生きているのかどうか。痛さや熱で、自分でも定かではないのに。頭から落とされる低い男性の不気味さを纏う声は、瀕死のなつかを嘲笑していた。
「燃える車の中にいる家族と一緒に行くか。あの〝星〟の代わりをするか。……どっちだ?」
(どういうことだ!? 何がどうなってる!?)
生か、死か。理不尽な選択に応えるより先に。なつかは生じた疑問をぶつけたくて、男性の声がする方へ手を伸ばした。焼け付く喉から上手く言葉が出ない。なつかは、動かす度に激痛が走る腕を必死に伸ばした。その時、カツン、と。感覚が麻痺した指先に、何かに触れた。
「そうか。生きたいのか」
(違うッ! そうじゃないッ! 星ってなんだ!? ステラなのか!? 答えろッ!)
「ブラッド・ダイアモンドも、あれだけ大きくなってしまえばなぁ。金蔓、手離せねぇもんな」
男の一言に、なつかの体を強く貫いた。心臓が抉り踏み潰されたかのように。強い痛みが、全身の強張りを強くする。
「あ? そろそろヤバいか?」
痙攣のような震えが止まらないなつかの指先に、黒革の手袋が触れる。痛みすら拾わなくなった指先を捉えた視界が、次第に黒くぼんやりとし始めた。
「ま、助けてやるが」
頭から落とされるように近くにあった男の声も、随分と遠くから聞こる。なつかの体からストンと力が抜け、同時に全ての感覚が無くなった。男は、ゆっくりとなつかに言った。
「生きるか死ぬか。ブラッド・ダイアモンドが存続するかしないか、は。お前次第だな」
✳︎ ✳︎ ✳︎
「……アイツは逃げたんだ! ステラは……! 本当のステラは、俺に全てをなすりつけて逃げたんだ!」
銃口を握る〝ステラ〟--なつかの手に、より強く力がこもる。こめかみに深く食い込んだ銃口に、すばるは体を震わせた。声にならないすばるの叫びは、遠野の胸を抉るように鼓膜を揺さぶる。
「わかった……。わかったから、落ち着け」
「うるさいッ! 何も分かってないくせに! 知ったような口を聞くな!!」
全身に宿るなつかの怒り。一瞬で体から吹き出し、花火のように爆発した。なつかの強い念と圧に、遠野は拳銃を構えたまま、一歩後ろ足を引く。
「俺を騙してたんだ……。何も知らないって顔して。組織とつながって、金や情報を横流しして! 全部裏で糸を引いてた……!」
なつかは、迸る怒りを抑えようともせず叫んだ。
「だから……俺は、本当に〝ステラ〟になってやったんだ!!」
「!?」
「あんなヤツでも、自分の命は惜しいらしい……。こんなふうに首にアクセサリーをまいてやったよ」
すばるに装着したパイプ爆弾。そのつなぎ目をなぞるように舐めて、なつかは言った。
「笑えるよなぁ。人の家族を殺しておいて、俺をこんな風にしたくせに。いざ自分の身に降りかかると、泣いて、漏らして。自尊心のカケラもなく俺に縋ってた。『殺さないでくれっ』ってさ!」
「すばるには、関係ないことだ。すばるを離せ」
復讐を誇らしげに語るなつかに、遠野は静かに声をかける。瞬間、なつかの見開いた目な血走った。
「関係ない? 大いにあるだろ? こいつが、あのワームを作らなければ……。ワームさえ作らなければよかったんだ!!」
「さっきから勝手なことばかり抜かしやがって……!」
遠野の声は、低く唸る。
「実弟の才能に勝手に嫉妬して、勝手に才能を拝借して。自分で蒔いた種子の結果じゃないか!
「うるさいッ!!」
刹那。すばるに押し付けられていた銃口が、突然遠野に向いた。遠野の指先が引き金に触れる。同時に、遠野の視界が激しく左右にブレた。
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