3-2 出立(2)

「〝Pleiades〟 hasn't been caught yet?《プレアデスは、まだ捕まらないの?》」

 スピーカー越しに聞こえる声は、ただならぬ内容とは裏腹に穏やかで。機械的な声音にも拘らず、その声は微かな笑みを浮かべているように淀みなく優しかった。

 デスクトップパソコンのディスプレイは、人の影を移す事はない。代わりに声の滑らかな調子に呼応し、ゆっくりと真っ黒な波紋を広げている。

 男は、手にしたマウスが汗で濡れるのを感じた。ディスプレイ越しであるはずなのだが。全身で感じるただならぬ圧に、頭の中で危険を知らせる警鐘を鳴らす。

「Please……Please wait a little longer《もう少し……もう少し待ってくれ》」

 辿々しく発せられたなれない言葉は、男の焦りと緊張を色濃く反映した。瞬間、ディスプレイの向こう側から、呆れたような乾いた笑い声が響く。

「資金ハ、潤沢ニ渡シテイルハズダヨ? ドウシテ、スグニ捕マエラレナイノ?」

 切り替わった機械的な言葉が、男の焦りを、緊張を。さらに助長させた。

「警察が介入しているんだ……! こちらも迂闊に動けない」

「警察トカ、関係ハナイダロウ? 私ヲ、誰ダト思ッテイルンダ?」

「……」

「idea《アイデア》ハ、ヨカッタノニナ。ナカナカ爆弾ナンテ大胆ナコト、思イツカナイノニ」

「……」

「シカシ、ソレトコレトハ話ハ別。資金ニ見合ウ仕事ヲシロ。ソレガ全テダヨ、ココデハネ。ソレニ」

 マウスを握る男の手が、カタカタと音を立てる。顔も本来の声も見えない相手に、得体の知れない恐怖が腹の底から芽吹き始めた。粘膜がひっついてしまうほど、喉がカラカラに乾いた男は返事をすることもままならない。

「オ前ジャナクテモ、イインダ。仲間ハ、マダ沢山イルノダカラ」

「……大丈夫、大丈夫だッ! あと少し時間をくれッ!」

「イイヨ」

 たまらず、息が漏れた。強張った口元が、一瞬で緩くなる。マイクが拾わないほど、男の小さな吐息。マウスを握る男の手のひらから、汗が一気にひいた。

「明日マデニ、捕マエテ」

「明日!?」

「明日マデ、二十四時間モアルジャナイカ。時間ハ、タップリアルヨ」

「……そんな」

「二十四時以内ニデキナケレバ、オ前ヲScrap stone《木端微塵》ニシチャウケド?」

「ッ!?」

 ディスプレイの向こう側にいる人物は、機械的な声を弾ませて笑う。

「ドッチガ、早イカナ? オ前ガ、Pleiades《プレアデス》ヲ捕マエルカ。オ前ガDiamonds《ダイヤモンドたち》ニ捕マエラレルカ」

「待って……!! 待ってくれッ!!」

 男はディスプレイにしがみついた。

「Break a leg. Goodbye《幸運を。じゃあ、またね》」

「待てッ!! 待てよッ!!」

 --プツッ、と。

 男の静止も叶わず、ディスプレイが断線の音を鳴らす。手中のディスプレイを、力任せにガタガタと揺らすも。先程まで響いていた無機質な声は、男の耳には二度と戻らなかった。

「クソッ!!」

 怒りや、焦り。不安と、畏怖。逃げ場なく渦巻く感情が、男の胸の中で暴走する。男はディスプレイを掴むと、力任せに床に叩きつけた。柔らかな床材が鈍い音を立てて、硬いディスプレイを弾き転がしていく。

(……なんで、俺。ヤるって言っちまったんだ)

 即実行に起こさなければ、立場はたちまち逆転する。男は頭を掻きむしった。

方は……なんとしても、避けなければ!)

 今までに感じたこともないほどの激しい鼓動が、男の体にこだまする。浅く荒い呼吸が暗い部屋き、冷たい汗が止めどなく頬を伝った。男は黒いマウンテンパーカーを羽織ると、机の上に置かれていた、小さなモバイルパソコンを乱暴に手にした。


✳︎ ✳︎ ✳︎


「悪いな、鈍行になって」

 行き交う人が不規則にすれ違う。平日の駅は、早朝にも拘らず、始発に乗り込む人の往来が激しい。人と人をすり抜けてたどり着いた、改札口の手前。遠野は、紺色のつばつき帽子を被り直して言った。黒い厚手のシャツに、ベージュ色の綿のパンツ。登山ブランドのリュックサック背負った遠野の姿は、すばるの目に目新しくうつる。白シャツとネクタイの。どことなくくたびれた感のあったスーツ姿より、面前のカジュアルな格好の方が、大分若く見えた。全く知らない人を見ているようで、すばるは複雑な気分になる。

「いいけど……」

「けど?」

「遠野さん、変わりすぎ」

「え?」

「さっきまでの格好と、雰囲気まで全然違うじゃん」

 遠野は少し驚いた顔をして、すばるに振り返る。

「すばるに合わせてんだよ」

「え?」

「スーツ姿のいかにも〝出張です〟な格好のオジサンが中学生が並んで歩いてると、浮きまくるだろ?」

「うん……まぁ」

「変じゃないか?」

「変じゃないよ、似合ってる」

 照れたように帽子のつばに触れた遠野は、苦笑いをした。

「実はな、緒方に借りたんだよ。これ」

「え!?」

 遠野の言葉に、すばるは持っていたリュックサックを、思わず落としそうになる。

「若いヤツの服だから、なんだか落ち着かねぇって思ってたんだが……違和感ねぇか?」

「ないよ、本当! 全然」

「本当か?」

「本当だってば!」

「お世辞でも、サンキューなすばる」

 遠野はズボンの柔らかなポケットから切符を二枚取り出すと、一枚をすばるに渡した。手にした切符に記された額面の小ささ。その金額に、すばるは少し面食らう。その気配を察したのか、遠野がすばるの顔を覗き込むように言った。

「小刻みに移動するから、疲れちまうかも。少し我慢しろよ、すばる」

「大丈夫だよ。なんか修学旅行みたいだ」

「あはは! オジサンと修学旅行なんて、楽しかないだろ」

「ううん。結構、楽しい」

「おい」

 すばるの意外な返答に、遠野は思わず吹き出してしまった。

「っていうか、楽しみたいな、オレ。修学旅行、行ってないしさ」

「……」

「ちょっと、遠野さん! 変な顔しないでよ! 行きたくなくて行かなかっただけなんだよ!」

 大の大人の表情を微妙にさせた発言に、急に気恥ずかしさが込み上げる。すばるは遠野の肩にわざとぶつかった。そのままの勢いを保ちながら速度を上げて、改札口へと歩き出す。

「遠野さん、遅いッ! 早くッ!」

「はいはい」

 駆け足ですばるに追いつくと、遠野は柔らかな髪をくしゃくしゃと撫でた。

「全部が落ち着ついたら、キャンプにでも行こうな。すばる」

 顔を赤くしながら顰めっ面をするすばると肩を並べると、遠野は歩調を合わせてホームへと進んだ。


『サイバー統括からサイバー特務』

 鈍行の硬い椅子に腰掛けた遠野は、イヤホンから静かに流れる市川の声に諦聴ていちょうする。帽子の先から伸びるイヤホンの黒い線。遠野の体温に馴染んだそれは、忘れていた感覚をふとした瞬間に呼び起こし、遠野を少し緊張させた。

『駅構内、ホーム及び車両等、現在のところ異常ありません』

「了解。予定通り、列車に乗車完了。こちらも逐次報告する」

『了解。以上、サイバー統括』

 向かい合わせのボックス席に、窓側にすばるを座らせた遠野は、その隣に腰を下ろしていた。 

 ゆっくりと、列車の車輪が動き出す。摩擦音を耳と座席に接する腰で感じながら、すばるは遠野を横目に見ていた。

 何故向かい側に座らないのか、と。狭い二人がけの座席にひっついて座る遠野を、不思議そうに見つめるすばるを尻目に。遠野はパンパンに膨らんだリュックサックの中から、カラフルな袋を一つ取り出す。先ほどまで真剣な表情をしていた遠野が、まるで遠足中の子供のように一気に顔を緩ませた。

「それ、グミ?」

「熊の形なんだと。すばるが好きそうだって、イッチーがくれたんだ。美味うまそうだろ」

 市川から、かなり子どもに見られていることに、若干衝撃を受けながらも。すばるは、その心情を悟られないまいと、まだ明け切らぬ窓の景色に視線をうつした。

「……朝から、よくそんなの食べられるね。遠野さん」

「口寂しくなくて、ちょうどいいだろ?」

「まぁね」

 すばるは差し出された袋から、一つ赤色のグミを摘み上げる。列車内を照らす照明に、キラキラと宝石のように体を輝かせる熊形のグミ。すばるは、少しニヤけてしまった。楽しげにグミを口いっぱいに頬張る遠野に面食らいつつ、宝石のカケラを口に含んだ。

「……グミとか、久しぶりに食べた」

「俺もだ」

「本当に? だから、そんなに食べてるワケ?」

「まぁな」

 はたから見れば、まさか警察官と護送されている人なんて思わないだろう。遠野と共有する秘密に、すばるは妙に嬉しく感じてしまった。


『サイバー統括からサイバー特務。列車内の監視カメラがハッキングされた模様。遠野補佐、気をつけてください!』

 無線から流れる市川の声に、遠野の動きがピタリと止まった。一瞬で変わった遠野の雰囲気を、すばるも敏感に察する。遠野はすばやく、電車内の通路に目を走らせた。その時、進行方向から黒い服を来た男が、真っ直ぐに遠野のいる方へ近づいてくるのが見えた。黒縁の眼鏡が邪魔をして表情が読めないが、明らかに足先は遠野たちの方へ向いている。遠野は、すばるの肩をグッと掴んだ。

「すばる、次で降りるぞ」

「う……うん」

「ドアの前まで行け」

 すばるは無言で頷くと、リュックサックを抱えて遠野の前をすり抜けた。

 その瞬間--。通路を歩いていた男が、すばるに向かって走りだす。同時に、キラリと。男なやぬ右手の先から、何が光るのが確認できた。

(ナイフ--!?)

 遠野は息を止めた。次の呼吸を意識する間もないほど。素早く立ち上がった遠野は、すばると男の間に割って入る。刹那に、無線機から発せられた市川の言葉が、遠野の額に冷たい汗を滑らせた。

『遠野補佐!! そこが……!! ライブで配信されてますッ!!』

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