第36話 アルヴァンス
その時、メネリアの声が聞こえた。
娘を探している声だ。アリアナの名を呼んでいる。
ぱっと足を止めたアリアナは、顔を輝かせて早足で本邸へと向かう。ハミルドは一瞬ためらったが、促すように私が頷きかけると苦笑を浮かべて娘の後を追って行った。
私はと言えば、まだ収まらない動悸を抱えてその場に残った。
しばらく花を見ているふりをしていたが、急激に疲れを感じていた。かと言って、ハミルドを追う気にはなれず、花壇の奥にベンチがあることを思い出してそちらに向かおうとした。
しかし、すぐに足を止めてしまった。
植え込みの木のすぐ向こうに、アルヴァンス殿がいた。
鮮やかな赤い髪を認め、私はベルトにつけたナイフに伸ばしかけた手を戻した。
「気配を消して立ち聞きとは、褒められたことではないですよ」
「……申し訳ありません」
何か適当な言い訳をすると思ったのに、アルヴァンス殿に真面目な顔で詫びられてしまった。
アリアナを怯えさせないようにとか、綺麗な花があったからとか、そういう暢気なことを言うと思っていたのに。
まさか、本当に盗み聞きしていたのだろうか。
私がつい眉をひそめると、アルヴァンス殿は目をそらしたままため息をついた。
「マユロウ伯に様子を見ているように言われたのですよ。……しかし、ライラ・マユロウももう少し気を遣ってください」
どこか責めるような口調に、私は少しむっとした。
「何に気を遣えと?」
「……ハミルド君はもう既婚者で、あなたの婚約者ではない」
「それが何か?」
「軽々しく二人きりにならないでください」
「二人だけではないぞ。アリアナも一緒に……」
「あの子は離れていたでしょう? 私だってハミルド君が愚かな事をするとは思いません。でも周囲はそう見ないし……あなたが命じれば、ハミルドは今でも、いや今だからこそあなたのものになる」
命じる? 私が何を命じると言いたいのだろう。
一瞬戸惑ったが、しかし私はすぐに理解した。
怒りが湧き上がり、我を忘れそうだ。
「あなたは何を言っているんだ!」
私はアルヴァンス殿の胸ぐらをつかんだ。
乱暴な扱いを受けても、アルヴァンス殿は全く抵抗しなかった。
その伏せたままの目を自分に向けたい衝動にかられ、私はつかんだ手に力をいれて揺さぶった。
「ハミルドとメネリアの結婚を望んだのは私だ! その私が、メネリアを傷つけるようなことをすると言いたいのか!」
「でもあなたは、ハミルド君を愛している」
体を揺さぶられても、アルヴァンス殿は銀水色の目を伏せたままだった。しかしその声は静かで、感情が消えたような冷ややかさがある。
だから私も、つられるように頭が冷えた。
「……そうですね。私はハミルドを愛している。愛していた。でも私が欲しいのはハミルドの純粋な愛情であって、息苦しい忠誠心ではない」
「それがあなたの本心ですか? あなたが夫に選ぶ条件は愛情ではないのに?」
「当然だ。私はマユロウ伯の地位を継ぐのだから」
頭が考えるより先に、口から言葉がすらすらと出ていく。
私は次期領主として育てられ、そうであることを自らに課してきた。だから私の言葉は本心だ。
なのに、アルヴァンス殿の胸元をつかんでいた手は力を失って離れてしまった。
アルヴァンス殿は無言で乱れた服を整える。
ふと気が付くと、その顔は表情だけがすっかり抜け落ちたようになっていた。驚くほど整った顔をしていても作り物のようには見えなかった人が、今は冷たい大理石の像のようだ。こんな顔は初めて見た。
いや、昔見た記憶がある。あれはいつの頃だっただろうか。
確かアルヴァンス殿はまだ少年だった。作り物のように美しい顔にあるのは、やはり人工的に作られたような表情だった。
そうだ。あれはアルヴァンス殿が初めてマユロウ領を訪れた時だ。初めて見たアルヴァンス殿は、今知っているアルヴァンス殿とは別人のように冷たい顔をしていた。子供心に、この人は楽しみも喜びも感じないのだろうかと疑った。
だから私は、目の前の少年が生きた人間であることを確かめようとした。あの時私がしたのは一般的には非常識なことだった。
私は微笑んだ。
私の笑みに気付いたのか、アルヴァンス殿は動きを止めた。その右手をつかみ、昔の私がそうしたように、彼の手の甲に口付けた。
「……ライラ・マユロウ?」
手をつかんだまま目をあげると、動揺を隠せない顔があった。
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