第17話 ファドルーン



 三日目のマユロウの本邸は、朝から緊張に包まれていた。

 皇族であるファドルーン様をお迎えするためだ。万が一にも何かあってはならないお方だから、普段は荒々しくものんびりしているマユロウの武人たちは、昨夜から表情を引き締めて警備の確認を行っていた。

 使用人も、新参の者は休ませるなどの配慮を行い、掃除は早朝から念入りに行っている。

 昼頃には一通りの準備が整い、父や私もようやく一息ついた。来客に備えて、早めに食堂に向かおうとしていた。

 ……ファドルーン様がお見えになったのは、まさにそんな時だった。


 騎乗してやってきたファドルーン様は、護衛をたった一人しか連れてきていなかった。簡素だが上品な衣装をまとってひらりと馬から降り立つ姿は、芸術家たちが理想とする至高の彫像のようだ。

 すっきりとした背中で一つに束ねた亜麻色の髪は、真昼の陽光でいっそう美しく見えた。


「ライラ・マユロウにお出迎えいただけるとは、光栄ですよ」

「……ずいぶん早いお越しですね」


 玄関前で私が迎えると、ファドルーン様は微笑みを返してくれた。

 私も笑みを返す。しかしその笑顔は、焦りを隠すための必死の仮面だった。

 他の二人は昼過ぎにのんびりとやってきたので、ファドルーン様も同じくらいだろうと思い込んでいた。私だけでなく、父も家宰も警備担当の武人も、全員がそうだった。


 だから本邸は、表面上は静かなままだったが、裏に回れば密かに大混乱の状態だ。

 迎えに出ている私も、食堂に向かう途中で足を戻してなんとか間に合っただけだ。そのせいで、お迎えに当たって着替えをしようと思っていたのに、結果として普段通りの服装のままとなってしまった。屋敷にいるときはいつも見苦しくない服を着ているから、問題ないといえば問題はないのだが……少しくらい、格好をつけたい時もあるのだ。

 しかし邸内に入ったファドルーン様は、マユロウ側の混乱に全く気を止めず、人形のような整った顔を正確に食堂の方に向けて子供のような笑顔を浮かべた。


「とても良い匂いですね。私も味わってみたいのです」


 昼食のことを言っているのは間違いない。

 控えていた家人たちが一斉に息を飲むのを感じる。ここにはいない料理人たちの声なき悲鳴まで聞こえた気もする。

 できることなら、私はお断り申し上げたかった。

 しかし、例え些細なことでも、この方を拒絶するのははばかられた。ファドルーン様ご自身は表向きはありふれた皇族のお一人だが、実態は皇帝陛下が直々に送り出した人物なのだ。


 私は悩んだ。

 父に救いの視線を向けるほど悩んだ。

 しかし父は鷹揚に立って見返すだけ。つまり私に全責任を押し付けてようとしている。そして事の次第を楽しむつもりだ。

 ファドルーン様は相変わらず邪気のない笑顔を浮かべている。マユロウ家を陥れようとしている訳ではないだろうと考え、言い出したのはファドルーン様だからと開き直り、すでに面倒になってきた私は、次期マユロウ伯として決断した。


「我らの食事がお口に合うかどうかわかりませんが、もしよければご一緒にいかがですか? ……少々むさ苦しいところですが」


 私の言葉を聞いて、何人かが廊下の奥へと走って行った。

 食堂と厨房に知らせるためだろう。その後ろ姿を見送って、私は時間稼ぎを始めた。

 ファドルーン様をご案内しながら、近くの廊下の窓の前で足を止めて植木や花壇の花について長々と説明した。途中の部屋の扉を開けて、父の武器類を見せたりもした。

 壁を飾るつづれ織の前では、いかにして母が織り上げたかを語り、ついでに幼い日の私が何度邪魔をしてしまったかまで話した。

 無理やり引き伸ばした話だったが、ファドルーン様は一応興味深そうに聞いてくれた。

 しかしその視線はすぐに食堂がある方向へと流れていく。その圧力に耐え、ファドルーン様の希望に気づかないふりをして、私は無駄な話をぎりぎりまで続けた。


 どれほどの時間が稼げたかわからないが、私は額に冷や汗を感じながら食堂の中へと案内した。

 食卓の配置が変わり、放置されていた空の酒樽の代わりに生花を活けた花瓶が壁際を飾っていた。

 青ざめた給仕係たちはまだ慌ただしく動き回っていて、厨房の方向は何やら騒がしい。裏側で繰り広げられているであろう阿鼻叫喚ぶりはたやすく想像できた。


 マユロウ本邸の食事といえば、量についてはいつも十分に用意している。武人が多いから量だけは多いのだ。

 だが、さすがに食材や調理法は素朴なものだ。庶民的というほどではないが、間違いなく貴族的ではない。それを高貴な方に出さなければならない料理人たちの心中は察してあまりある。

 申し訳ないと思っている。

 しかし、それを知っていて私は命じた。すべての責任を負う覚悟はしている。それでも……私は食欲を失っていた。十分に空腹になっているはずなのだが。


 それにもう、会話を続けられる自信がない。

 今までのひとときだけで、一週間分くらいしゃべり続けた気がする。

 先に食堂に入っていた父は、私の状態を正確に読み取ってくれたようだ。高貴な客人を迎えるには粗末な場所であることを感じさせない堂々たる姿で、当主としてファドルーン様に迎えた。


「ファドルーン様はこういう椅子はご覧になったことはありますかな? 背もたれのこの細工は、我がマユロウ紋章を模したものです」

「日常用とお見受けしましたが、それでも見事な細工ですね。さすがマユロウだ」


 いつも通りに上機嫌な父は、席に案内しながら会話の相手役を買って出てくれた。

 ようやく当主らしい仕事をしてくれるのは助かる。だが、もっと早く前に出て欲しかった。

 疲れ切った私は父をにらみつけるしかなかった。

 しかしそれすら長く続かない。


 食卓の上に、上品でも上質でもない料理が並べられ始めた。

 この短時間の間に、賓客用の食器を準備したようで、上客用の美しい陶器の皿の上に精緻な模様を施した銀製の皿が乗っていた。

 私は汗で濡れた手を握りしめていた。

 どんな表情も見逃すまいと見ていたが、ファドルーン様は少しも美しくない料理を見ても眉をひそめなかった。

 それどころか、開き直ったように大胆に盛り付けた山盛りの肉を見て目を輝かせていた気がする。


 ナイフで削ぎ切った肉を口に含んでも、野菜をそのまま煮込んだスープを飲んでも、少し焦げが目立つパンを口にいれても、やはり目の輝きは変わらなかった。それどころかより一層、口と手が早く動いて行った気がするのは切望するあまりに見てしまった幻だろうか。


 結局、ファドルーン様は極めて平易な昼の食事と夜の食事を平らげ、父に劣らぬ上機嫌ぶりで館を後にした。

 その食べっぷりはきわめて上品だったが、異母弟カラファンドに通じる豪快さがあった。やはりかなりお若いのだろう。もしかしたら、カラファンドと同じくらいの年齢なのではないか。そんな確信に近い推測もした。

 そう言えば、今日ご訪問いただいた目的は食事のためではなかったのだが。結果的にご満足いただけたのなら、これはこれで良かったのかもしれない。

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