第三十一章 再会
マンション前の路地の交差点で、男はスーツケースを持ったままためらっていた。
メモにある住所とマンションの名前が一致している。
男は目を上にあげ、6階の窓を見た。
たぶんあの窓のどこかが、さゆりの部屋のはずである。
605号室とメモにあったからだ。
イタリアから電話したいと思ったが、高田に冷やかされる前に最初は二人きりで会いたかったのと、さゆりのマンションへの道を自分自身でたどり、さゆりへの気持ちを確かめたかったのだ。
だが、いざマンションの目の前に来てみると色々な事が頭をよぎり、中々踏み出せずにいた。
さっきから、こうして三十分以上もマンションの前を行ったり来たりしている。
さゆりは出窓に手をついて外を眺めて、ため息をついていた。
あれから、卓也から電話がかかってこない。
何か事故でもあったのであろうか。
色々な不安が頭をよぎって落ち着かなかった。
昨日は一日中部屋にこもり、電話を待っていたのに。
順調にチケットがとれれば、今朝日本に着いているはずである。
やるせない気分のまま、ふと通りを見ると人の影が伸びている。
よく目をこらしてみると、卓也であった。
スーツケースを持ってウロウロしている。
さゆりは窓を開けて手を振ろうかと思ってやめた。
昨日は一日中ヤキモキしていたのだ。
どんな理由があるにせよ、人をバカにするにもホドがある。
さゆりは窓の下に座り込み、隠れて待たせてやろうと思った。
絶対男の方から、この部屋にやってこさせないと気がすまなかった。
もし、やってきたら・・・優しく抱いてキスしてあげようと思った。
心の中は、うれしさでいっぱいであった。
時計の針は中々進まない。
もう一度、窓から外を見た。
まだ路地をウロウロしている。
さゆりは、いてもたってもいられず、気がつくとエレベーターをおりていた。
男にわからないように、反対側の道を大回りして男の背後に忍び寄った。
大きな背中を丸めてマンションをうかがう男の背中を、思いきり突き飛ばした。
男が驚いて振り向くと、さゆりが怒った顔をしてにらんでいる。
男はしどろもどろで言い訳を始めた。
「いや・・・あの・・・その・・・心配をかけて・・・どうも・・・。
あっ、電話しようと思ったんだけど・・・
すぐチケットがとれて・・・
て、手続きに時間がかかって・・・
そしたら、もう飛行機に乗る時間で・・あの・・・その・・・」
女は男のそばにゆっくり近寄り、男の肩におでこをあてている。
そして男の汗臭いにおいを胸いっぱい吸うと、優しい声でささやいた。
「お帰りなさい・・・」
男は広げていた両手で女を恐る恐る抱きしめると、女の髪に頬をあてて言った。
「ただいま・・・ごめんね、心配かけて・・・」
女は何も言わず、うるんだ瞳を男に向けて微笑むと、そっと目を閉じた。
涙がひとしずく伝わった。
男は女を抱く力を強めると、唇を重ねた。
やはり・・・涙の味がした。
ツバメが二羽、空をまっている。
太陽がもう真上の方まで昇り、二人の影を短くおとしている。
今日、男は帰ってきた。
生きて、帰ってきた。
女は男の背中に回した細い指を、爪立てるようにして存在を確かめている。
ここは、日本である。
まぎれもなく、二人は一緒にいる。
生きていてよかった。
しみじみと思う卓也だった。
※※※※※※※※※※※
「そうそう、例の4億リラの指輪ってのはどこにあるんだい・・・?」
さゆりが引き出し奥からダイヤを取り出すと、広子もそばに来て目を輝かせた。
「フェーッ、こいつはスゴイや。
4億リラだけの値打ちはあるぜ・・・」
「3億5000万リラですよ。
5000万リラまけてくれたんですよ、セールで・・ね」
卓也が笑いながら言った。
「てやんでぇー・・・何がセールだ。
しかし思い切ったよなぁ・・・」
「どうせ死んじゃうし、お金残しても仕方ないと、思ってましたからね」
卓也が言うと、さゆりが又、不安そうな顔をした。
「でも、きれいねー。
ステキ・・・私も欲しいわ・・・」
広子がチラッと高田の方を見た。
「ウ・・オホン・・・
まー何だな、それよりこれから、どうするんだよ?」
さゆりから連絡を受けた高田と広子が、マンションを訪れていた。
卓也の無事を心から祝っているのだが、落ち着いてみると新たな問題があった。
「この不景気に会社も辞めてるって・・・」
さゆりが遮って、深刻な表情で言った。
「私・・・この指輪、売ろうと思うんです・・・」
「バ、バカ言っちゃいけないよー、さゆりちゃん。
せっかくの思い出の品を・・・。
まー俺にまかせとけよ、まだ年だって若いし、いい大学出てるんだ・・・・。
いくらでも職を世話してやるよ。こう見えても編集長様だぜ」
広子も、さゆりの肩に手をかけて言った。
「そうよ・・・何とかなるわよ。
それに、その指輪イニシャル入ってるんでしょ?
安く、買いたたかれちゃうわ・・・」
そう言われて、さゆりはうつ向いてしまった。
やはり、これからの二人の生活を想うと不安になるのだった。
その時、卓也がスーツケースからセーフティーバッグを取り出し、おずおずと言った。
「あの・・さゆりさん・・・これ・・・」
バッグから分厚い札束をテーブルに出した。
三人は目を大きく開いて、それを見た。
「ど、どうしたんだよ・・・これ・・・。
いったい、いくらあるんだ?」
高田があせりながら言った。
「2億リラあるんです・・・実は・・・」
卓也は恥ずかしそうに話しだした。
電話を切ってからバーのカジノを発見し、ルーレットで儲けた事、店のオーナーとの対話などを。
三人は男の話に聞き入り、ハラハラしたり歓声をあげたりした。
さゆりは終始不安気に聞いており、卓也の想像したとおり涙をこぼしながら言った。
「もうー、どうしてそんな無茶するのよー・・・・?
せっかくガンじゃなくて、死ななかったのに。
もしピストルででも、撃たれたら・・・」
卓也の胸に、もがくようにして抱かれている。
広子も涙をにじませて二人を見つめている。
高田は咳払いすると、おもむろに言った。
「ま、まー・・・何にせよ、良かった。
これ、すげーぜ、1600万円ぐらいになる・・・。
これだけあれば何だって出来る。
うーん、少くとも俺よりは金持ちである事は確実だ・・・」
「そんな事・・・・自慢しないでよ」
広子が呆れた口調で言うと、三人は笑い出した。
さゆりも顔を上げ、涙を拭きながら笑っている。
「じゃあ、そろそろ失礼するか・・・」
高田が広子の手をとって、立ち上がった。
「まだ、いいじゃないですか?」
卓也が引き止めると。
「ヤボ言うんじゃねえよ・・・。
これ以上邪魔すると又、さゆりちゃんに怒られるからな。
それに俺達だって新婚ホヤホヤなんだよ。
ねえ~、広子たーん・・・?」
広子は笑いながら高田の腕をとると言った。
「じゃあね、さゆりちゃん、今度はうちの方へ遊びに来てね」
「そうだぞー、広子たんは俺と違って金持ちなんだぞー」
さゆりが微笑むのを見ると、二人は手を振って廊下へ出た。
やがて下の方で車のエンジンの音がして、ゆっくり発進していった。
さゆりは大事そうに指輪とお金をバッグに入れて、タンスにしまった。
そして、卓也に抱きついて言った。
「あとで銀行に行きましょう・・・。
指輪も貸金庫に預けなくっちゃっ、私、恐くて・・・」
卓也は、さゆりの甘い匂いを、くすぐったそうに吸い込みながら囁いた。
「ああ・・・そうだね、そうしよう・・・あと・・・でね」
初夏のさわやかな風が部屋を通り抜けていく。
タンスの上の小さな人形が倒れた。
風のせいだけではなさそうだ。
ツバメは巣作りを終えたのか、仲良くマンションの軒下に並んでいる。
今日もいい天気・・・である。
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