ローマでお買いもの!(第六部)
第二十二章 不安
月明かりに照らされた雲の上空を飛行機が飛んでいる。
星と月と空以外、目印のない空間は果たして飛んでいるのか浮いているだけなのか、見当がつかない程である。
高田は眠っている広子を起こさないようにそっとブラインドを開けると、飽きずに眺めていた。
ヴェネツィアで溺れた時、引き上げてくれた卓也の顔が死んだ妻に見えた。
沈んでいきながら広子を思い浮かべ、そのまま死ぬのかと思った時だ。
妻は微笑みながら引き寄せてくれた。
(もう、いいのよ・・・あなた)
そう言っているように男には感じられた。
自分の勝手な思い込みであろうか。
今の幸せを手に入れる為の詭弁であろうか。
そうではない。
十年間、妻を忘れた事など一日もなかった。
この手の中には、まだ息をひきとる前の妻の熱い身体の感覚が残っている。
終始熱にうなされ、それが下がることなく天国に昇っていった。
忘れられるものではなかった。
だからこそ、下から見上げる水面の光を逆に浴びながら妻の顔を見た時、これでやっと一緒になれるかと思った。
だが、妻は励まし引き上げてくれた。
その時、何故か広子を愛していると思ったのだ。
勝手な理屈だろうか。
自分の中で割り切れなかった感情がその瞬間、解き放たれたのだ。
妻は微笑みながら別れを告げていった。
今も妻を愛する気持ちは変わらない。
(だが・・・)
男は窓から目を離し、隣で眠る広子の顔を見た。
安らかな寝息をたてている。
このひとを愛している。
そう、その時やっと実感がわいたのだった。
おかしなものだ。
愛している妻の微笑みを見た時に分かるなんて。
男はフッとため息に似た笑みをうかべた。
自分でも何を考えているのか分からなくなったのだ。
とりあえず、この人と生きていこうと思った。
楽しい時も辛い時も分かり合える良きパートナーとして。
窓の外の月は相変わらず同じ所にいる。
ずっとそばにいる。
男はもう一度大きくため息をついた。
幸せな心地よい夜であった。
(・・・って俺、ちょっとカッコ良くない?
もしかして・・・主人公?
あっそーか、そーいえば・・・。
なーんだ、主人公だったんだ俺、フーン・・・)
《オッサン・・・オッサン・・・違うって・・・
アンタは脇役、脇だってば・・・。
ほら・・・広子さん起きるよ・・・ったく・・・》
月夜に広子の長いまつ毛が微かに揺れて、ゆっくりと目蓋を開けた。
黒目がちに潤んだ瞳が、宝石のようにキラキラと輝いている。
「今・・何時・・・?」
まだ夢の中にいるのか、微笑みを浮かべて男に聞いた。
「イタリア時間で2時、日本だと・・・」
高田は指を折って計算していたが、白い指が優しく包み引き寄せて頬にあてる。
柔らかい感触が男に伝わってくる。
「さゆりちゃん達・・・もう寝たかしら・・・?」
指を唇にあてて女がささやいた。
「たぶん・・・睡眠薬をのんで・・・ね・・・」
くすぐったさに笑いを含んで男が答える。
「まさか・・・でも・・・そうかもね。
まだ一週間あるんですもの。
大丈夫よ、きっと・・・」
「俺達みたい・・に・・・?」
「ふふふっ・・・そうね、どっちも鈍感・・・・だし・・・」
「ありがとう・・・」
月明かりの中、シルエットが重なる。
「でも・・・少し気になるんだ」
男が言うと、女はまだ余韻に瞳を潤ませながら見つめている。
「あいつ、別れ際にすごい目をしていた・・まるで最後の別れのように・・・。
一番楽しい時のはずなのに何でだろう。
そういえば旅行の間中、妙に悟ったように焦らないんだよ、あいつ。
だから俺はじれったくなって、おせっかいやいて・・・。」
男の言葉に女も感じるものがあるのだろう、真剣な表情をした。
「そうね、確かに何か変だったわ・・・。
大西さんどこか身体でも悪いのかしら・・?」
「そんな事はないだろう。
あっ、でもそういえばいつも胃が悪いとか言って薬を飲んでいたな。
でも昨日だってあんなに元気にサッカーしてたんだから・・・」
「そうね・・・ドラマじゃあるまいし、ちょっと考え過ぎかしら?」
「そうそう。
その内、ケロッとして帰ってくるよ・・・・。
ひょっとすると、合同結婚式できるかなあ・・・」
「そうなると、ステキね・・・」
女は顔を輝かせて男を見た。
やがて話し疲れたのか、男の肩にもたれるようにして目を閉じた。
男は女の肩を優しく抱き再び窓の外を見て大きくため息をつくと、自分も目を閉じ眠りにおちていった。
二人はもうすぐ日本に帰る。
イタリアの二人は夢の中にいた。
安らかな時間が世界を流れていく。
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