第十九章 決心
窓の外からローマの夜景が一望できた。
車のライトだろうか、小さな光が無数に集まっては動いていく。
さゆりの顔のうしろに、卓也の大きな背中が写っている。
上着を脱いでネクタイをほどきながら、男が近づいてくる。
例によって胃薬とウイスキーを持ってきて、窓辺のソファーに座り苦そうに薬を飲んだ後、ウイスキーをコップに注いだ。
「私も少し、飲もうかな・・・」
卓也は意外そうに顔を上げたが、立ち上がりコップをもう一つ持って戻ってきた。
「ストレートだけど・・・」
「うん、少しだけだから。なめるだけ・・・」
さゆりは小さな舌を出し、おどけるように言った。
二人はコップをかるく合わせて乾杯をした。
女はほんの少し飲んで、むせかえるようにコップを離した。
「うー、やっぱり・・・きつい・・・」
男は笑いながらコップの中のウイスキーを飲み干し、又つぎなおした。
「高田さんったらイヤんなっちゃうわ。
たっぷり見せつけるんですもん・・・。
なーにが、広子たんよ。いい年して・・・。
まったく・・・・」
卓也は微笑みながら、愛おしそうにさゆりを見つめている。
澄んだ瞳が女をとらえ、引き込まれそうになる。
さゆりはかろうじて目をそらせ、わざとそっけなく話した。
「あっ、それから明日からのホテル・・・
ツイン・ルームにしましたから・・・。
そ、それの方が安上がりだし。ど
うせもう、今さら何泊しても同じだもの・・・ネ」
首筋がポッと赤く染まり、少し汗が出てきた。
「いいのかい・・・?
ありがとう、うれしいよ・・・」
男に見つめられてさらに、さゆりは赤くなっていく。
(やだ、そんなに見つめないで。
わ、私どうにかなっちゃう・・・)
『あーら、さゆりさん、どうしたの・・・・
お顔がこんなに赤くなって・・・・?
まるで、タコみたい。
オホホホホ・・・』
高田のオカマ声が聞こえるような気がする。
(もう、いいとこなのに・・・
なんで、あのクソオヤジが出てくるの・・・)
「じゃあ・・・シャワー浴びてくるから。
もらえるかな、睡眠薬・・・」
男の声に我にかえると、さゆりは切ない表情で黙っていた。
やがて決心するように立ち上がると、スーツケースから薬のバッグを取りだしビンからまた薬を2錠、男の大きな手の平に乗せた。
男はコップのウイスキーで薬を流し込むと、ニッコリ笑って浴室の方へ歩いていった。
男の背中がドアの向こうに消えると、さゆりは窓辺により自分の顔を写した。
ウイスキーの余韻と興奮で目が潤んでいる。
さゆりはもう覚悟をきめていた。
今夜、女になろうと思った。
さっき男に飲ませたのはビタミン剤であった。
今日は早めにシャワーを浴び、男が眠る前にその胸に飛び込もうと思った。
ヴェネツィアのゴンドラで唇を重ねた時、自分ははっきりこの男を愛していると悟った。
広子とした時とは比べものにならない興奮が、全身をつらぬいた。
人を愛するとはこういうものかと、初めて気がついたのだ。
さゆりは気もそぞろに業務日誌をつけ終わると、コップに残ったウイスキーをまた一口飲んでみた。
熱い感覚が喉から下の方に通り過ぎていく。
今日、女になる。
窓に写る自分に言い聞かせるように、何度も心の中でつぶやくのであった。
入れ違いに浴室から出た卓也は日記を取りだし、今日の感動を書き出していった。
ゴンドラでのキスシーンを書いていたが、ふいに顔を上げ窓に写る自分の顔を見た。
さゆりの可愛い唇が重なっていた。
初めてのキスであった。
三十にもなるのに・・・である。
ロマンの全てを否定してきた人生。
それが死を迎えるにあたって、これほど狂おしく愛を知ることになるとは。
愛している、と男は思った。
できれば自分の命がもう一年でももてばと願ったが、それはできないことである。
さゆりのぬくもりが腕の中にまだ残っていた。
それだけでいい。
それ以上は望むまい。
自分が死んだあと、苦しむのはさゆりである。
思い出はこれだけで充分だ。
ただできるなら、もう少しこのまま夢を見ていたい。
あと一週間、天使と共にいられる。
世界中で一番、近くにいられる男なのだ。
窓に映る自分に何度も、そう言い聞かせていた。
※※※※※※※※※※※※
さゆりは浴室を出るのを一瞬、躊躇した。
思ったより長くかかった身仕度と、今日は素肌の上にバスローブを着たせいだった。
心臓の鼓動が激しく波打っている。
扉の向こうに男がいる。
喉を小さく鳴らして扉を開けた。
頬が興奮で紅潮している。
部屋の照明はつけたままになっていた。
男は窓の方に顔を向け、ベッドに横になっている。
一歩一歩、男のベッドに近づいていく。
一歩一歩、女になろうとしている。
そばに来ると急に恐くなり、下を向いてしまった。
男は何も言わない。
じらされている。
女はそう思った。
勇気をだして顔を上げる。
目が合えば、男の胸に飛び込もうと思った。
今日のゴンドラであれほど大胆に男の唇を奪ったのだ。
さゆりは瞳を潤ませて男を見た。
男は・・・眠っていた。
「えっ・・・?」
さゆりは目を大きく開いたまま、立ちつくしていた。
あんなに盛り上がって、緊張してきたのに。
男は安らかな寝息をたてている。
睡眠薬の代わりにビタミン剤を渡したのに。
きっと、暗示にかかりやすいタイプなのだろう。
「素直な・・・人」
くすっと笑って、さゆりは自分のベッドに座り男の寝顔を見つめている。
幸福感を満たした寝顔は、安らかに呼吸している。
(これで、いいんだわ・・・)
女は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「そうね・・・ゆっくり、そう・・・ゆっくり愛して、卓也さん」
女は部屋の明かりを消し、窓の外を見た。
ローマの夜景が美しく広がっている。
明日から二人きりのローマが始まるのだ。
そう思うと胸が高鳴った。
明日は・・・愛していると言おう。
別に待つだけが女の役目ではない。
男はずっと見つめていてくれたのだ。
さゆりは男を愛してゆこうと思った。
男の胸に飛び込んでいくのだ。
女は男のベッドのそばに膝をつき、自分の唇をそっと男の唇に重ねた。
「愛しています・・・卓也さん」
おやすみなさいの代わりにそう言うと女はベッドにもぐりこみ、やがて安らかな眠りについていった。
愛に満ちた眠りであった。
明日から二人だけのローマが始まる。
どこに行こうかと、女は思った。
何をしようかと、女は思った。
夢の中で女は幸せをかみしめながら、あれこれ迷うのであった。
穏やかな時間が流れていく。
ここはローマなのだ、何千年も昔からそうだったように・・・。
※※※※※※※※※※※※
広子と高田。
二人は余韻を楽しむように抱き合い、天井を見つめている。
女は男の肩に顔を埋め、男の匂いを確かめるように胸に吸い込んだ。
自分だけの匂いである。
もう、離しはしない。
どんなに大人になろうとも、どんなに分別がつこうとも。
この愛を離したくない。
素直にそう思った。
男は女の柔らかい髪を撫でている。
愛おしそうにその感触を楽しんでいる。
愛していると囁いてみようか。
そう思ったがやめて、指先で女に伝えていく。
重なり合った二人の時間はスムーズに流れていた。
「うそみたい・・・こうしてあなたが私のそばにいるなんて・・・」
ようやく広子が言葉を口にした。
心の中では二人ともずっと会話を交わしていたのだが。
「昨日のあなたは遠かった・・・・。
どうしても届かない気がしてた・・・」
「今は・・・・?」
男の指は髪からうなじを通って、少しとがった顎にきている。
「ふふ・・・」
女は答えの代わりに瞳を閉じた。
長いまつ毛が美しいカーブを描いた。
女は幸せを心ゆくまで味わっていく。
昨日までは口づけをしている間でも、男が消えてしまいそうで不安だった。
今は海の中に漂うように、愛に浸っている。
「もう・・・私のものなの・・・ね。
うそじゃないのね?
うれしい・・・」
男を見つめながら、何度も繰り返し言葉をはなっている。
くすぐったそうに女の吐息を受けとめながら、男は言った。
「じゃあ、明日・・・・試してみる?」
「何を・・・?」
「真実の口・・・行ってみる?」
女はくすっと笑いながら男に唇を重ねた後、満足そうに囁いた。
「やめておくわ・・・ふふっ、変な物でも入っていたら恐いもの・・・」
二人は吹き出し、しばらく抱き合いながら笑っていた。
やがて再び愛のロウソクに火が点り、お互いを燃やしていく。
二人にとって、ローマ最後の夜が更けていく。
明日、日本に帰る。
二人の新しい人生が、待っている。
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