第十七章 ファンファーレ
サラダが小気味よく、男の口に消えていく。
食欲がいつもよりないと言っていたが胃の調子が良くなった時はどうなるのだろうかと、さゆりは卓也を見つめながら思っている。
向こうから高田と広子が歩いてくる。
高田はいつになく緊張した足取りで手をつっぱって歩いていた。
広子は微笑みをうかべながら少し後ろを歩いている。
わかりやすい二人である。
さゆりはカップを口もとで止めて、くすっと笑った。
高田は二人を見つけると、大きな声で言った。
「やっ・・・やー、おはよう、お二人さん。
初めての二人の夜はいかがでしたかな?」
さゆりは顔を真っ赤にしてまわりを見回すと、人差し指を唇にあて声をひそめた。
「しー、高田さんっ。
大きな声を出さないで下さいよ・・・。
みんなが見てるじゃないですかっ・・・」
そして、わざと大きな声で言いなおした。
「な、何をおっしゃっているのか意味がわかりませんわ。
私はいつものように広子さんと同室だったし、
ツアコンが男のお客様と同じ部屋に泊まるわけないじゃないですかぁ」
(こ、の、ク、ソ、オ、ヤ、ジッー。
広子さんが頼むから部屋を交換してあげたのにぃ・・・)
さゆりの睨みつける目にたじろいた高田は卓也の隣にどっかと座り、耳元で囁いた。
「おい、どうだったんだよ色男。
昨夜は・・・?」
卓也は旨そうにミルクを飲み干し、落ち着いて言った。
「よく眠れましたよ、ぐっすりと・・・。
睡眠薬を飲んだんですよ、さゆりさんにもらって・・・」
高田は手を顔に被せ、のけ反った。
「あちゃー、素直だなあ、お前って・・・。
だいたい不器用・・・」
そう言いかけて、広子と目が合った。
女は何も言わず、含むように笑っている。
「オホン・・まあ、いっか・・・」
ウエイターがモーニングセットを運んできた。
男は又、卓也の耳元に近づいて囁いた。
「いいか、今夜、ローマで最後だぞ・・・。
今度こそ逃がすなよ・・・。
俺達は明日、日本に帰るんだから・・・」
卓也はくすぐったそうに聞きながら、カプチーノを飲んでいる。
さゆりは楽しそうに二人をながめていたが、ふと広子を見ると微笑んではいるのだが何か寂しげだった。
(どうしたんだろう、広子さん。
昨日の疲れが残っているのかな・・・?
って、やだぁ・・私ったら・・・)
さゆりは一人想像して、顔を赤くしていた。
「まー、とにかく今日でヴェネツィアは最後だ。
だから・・・ゴンドラに乗ろう。
ふんぱつして楽団付きのやつ。
あれに一度、乗りたかったんだ・・・」
高田が興奮気味に言うと広子の顔を見つめた。
相変わらず微笑をたたえながら黙って座っている。
広子の前にあるエスプレッソの泡が消えかかっていた。
※※※※※※※※※※※
細い竿を巧みに操り、黒い服を着た男が船を漕いでいく。
隣のゴンドラに乗った男二人の小楽団がアコーディオンの伴奏でサンタルチアを朗々と歌いあげている。
思わず一緒に口づさんでしまいたくなる気持ちであった。
中学校の時、授業で歌った記憶がある。
潮風が、さゆりの髪をなびかせ、心地よい気分にさせてくれる。
今日も良い天気で、海と空の境目がわからないほど水はきれいなブルーに染まっていた。
六人乗りのゴンドラに四人はゆったり座り、広子は高田に寄り添ってうっとりと唄を聞いている。
得意満面な顔でさゆりにウインクする高田に、小さな舌を思いきり突き出しているさゆりを、笑みをうかべて卓也が見つめている。
穏やかな初夏の日差しが、そんなに高くなく気持ちのいい朝であった。
やがて船が沖に近づき小楽団もしばしの休憩をとっている時、50メートル程離れた所に停泊している少し大きな船があった。
何か船の向こう側で景色か記念写真でも撮っているのだろうか、こちら側では幼い子供が二人だけでふざけ合っている。
すると、何かのはずみで子供の一人が海に落ちてしまった。
あっという間の出来事で、一旦小さな顔が海に沈みすぐ浮き上がったが、徐々に流されていく。
もう一人の子供が懸命に叫んでいるのだが、まだ船の向こう側は気づいていないのか誰も姿を見せない。
さゆりは、この光景を息を呑んで見つめていた。
だれか助けを呼ぼうと前を見ると、高田が立ち上がり上着を広子に預け、靴を脱ぎ捨て海へ飛び込んでいった。
見事なクロールであった。
瞬く間に子供に追いつくと、暴れる幼子を巧みに抱き上げ、船に近づいていく。
ようやく気がついた大人達が船のこちら側で心配そうに見守っていた。
母親らしい女性が何かしら叫んでいる。
船員が浮き輪を投げ込み、手を伸ばし二人がかりで子供を引き上げた。
ゴンドラや水上バスに乗った人々は一斉に歓声を挙げた。
小楽団のアコーディオンがファンファーレを弾きならしている。
広子は心配そうに高田の上着を抱きしめていた。
あっという間の出来事に、さゆりは何も言えず、ただ見つめていた。
さゆりは高田の泳ぎを見て又意外な一面に驚き、この中年の男が益々分からなくなっていた。
(な、何者なの、あのおじさん・・・。
でも良かった、子供も無事のようだし・・・)
船の上から母親が泣きながら高田に感謝の念をあらわらしている。
船上から他の乗客もこの中年の日本人に拍手を送っていた。
拍手のこだまする中を男はさっそうとクロールをしながら泳いでくる。
(か、かっこいい・・じゃない・・・?)
さゆりは少しくやしく思ったが、その表情は嬉しそうだった。
高田は広子が心配そうに待っているゴンドラにあと10メートル程に近づいた時、突然声をあげて沈んでしまった。
足がつったらしい。
いくら河口とはいえ、海の中をウォーミングアップもせず、服を着たまま泳いだのだから無理もない。
広子は上着を落とし、顔に手をあて叫び声をあげた。
さゆりが卓也を見ると、今度は卓也が上着をさゆりに投げ、飛び込んでいった。
やがて卓也が高田を捕まえ、後ろ向きに抱きかかえながら泳いできた。
周りの人々も心配そうに見守っている。
広子は目から涙をぼろぼろこぼしながら顔をクシャクシャにしている。
高田をゴンドラに上げ卓也が介抱すると、軽く水を吐き荒い息で上半身を起こした。
広子は身体が濡れるのもかまわず、高田の首に抱きつくと大声で泣きだした。
声にならないものを絞り出しながら、嗚咽をもらしている。
高田は一息つくと、広子を抱きしめて言った。
「広子さん・・・結婚してくれ。
今・・・わかったんだ。
俺はアンタを愛している。
海に沈んで死にかけた時・・・
まっさきに頭に浮かんだのはアンタの顔だった・・・。
女房も許してくれると思う。
愛している・・結婚してくれっ・・・」
広子は、なおも激しく肩を震わせている。
そして、聞き取れないほどの声を絞り出していった。
「は、はい・・・。
あぁ・・・高田さん。
あ、愛しているわ・・あぁ、愛してる・・・」
びしょ濡れになった卓也を介抱しながら、さゆりも涙を流している。
高田はさゆりと目が合うとニヤッと顔を崩し、イタリア語で叫んだ。
「ヘイ、オーケストラ・・やったぜ!
この最高に美しい女が俺の女房になるんだ。
一発、景気良くやってくれぇ!」
アコーディオンが高らかにウエディングマーチを奏でると、船の漕ぎ手や周りの観光客がいっせいに歓声を挙げた。
この中年のジャポーネを、まるでワールドカップの勝者のようにみんなが讃え拍手している。
広子はまだ抱きついたまま、泣き続けている。
卓也は微笑みながら、さゆりの隣に座って肩に手をかけた。
さゆりは涙を流して見つめていたが卓也に気づくと、ぶつけるように口びるを重ねた。
天使の唇を受け止めた卓也は戸惑いながらも強く抱きしめるのだった。
歓声が再び巻き起こり、唇を離したさゆりは顔を真っ赤にして卓也の胸に顔を隠した。
高田は親指を立てて卓也にウインクした。
卓也はさゆりの細い身体を大きな手で包みながら白い歯をこぼした。
空がどこまでも青く、遠くの水平線で海とつながっていた。
小さなオーケストラはやがてイタリア民謡に曲を変え、ゆっくりとしたリズムでゆうゆうと唄い挙げていく。
ヴェネツィア最後の朝は少しのハプニングと暖かい愛をのせて流れていった。
今日、ローマへ帰る。
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