第一章 朝食
澄み切ったセルリアンブルーの所々に、白い雲が浮かんでいる。
そのキャンパスを美しく切り取っていくドーム屋根、オべリスク、列柱の回廊。
さゆりは胸いっぱい空気を吸った後、弾ける声で叫んだ。
「みなさーん、ここがぁ世界で最も小さい国ぃ・・・。
バチカン市国の中のぉ、サンピエトロ広場ですっ・・・」
躍動感溢れる音が、反響して広がっていく。
「ローマ観光はぁ、ここからぁ・・始まりますっ。
みなさん、よーこそぉ・・よーこそ・・ローマへ・・・」
さゆりが言い終わったと同時に何かの偶然か、ハトの群れが飛び立ち広場の上を旋回していった。
空高く見下ろすハト達の目からは、やがて列柱が遠ざかり、コンチリアツィオーネ通りを抜けてテヴェル川に沿ってローマの街並みが広がっていった。
さゆりは、もう一度余韻を確かめるように大きく深呼吸をすると、心の中で喜びの声を出していた。
(とうとう来たわっ・・・
憧れのローマ・・・お久しぶり・・・。
私今、生きていて一番幸せ。
よろしくね、ローマさん!」
やがて、白い紙ふぶきのようなハトの群れは、さゆりを歓迎するかの如くゆっくり旋回し、列柱の屋根の上に舞い降りていった。
ローマの旅の、始まりであった。
※※※※※※※※※※※※※
白い渦がゆっくり旋回し、やがて溶け込んでいく。
酸味の強いカプチーノの香りと共にカップを引き寄せ、さゆりは小さくため息をついた。
頬杖をついた頬は柔らかそうに持ち上がり、しみ一つない肌をみせている。
黒ぶちのメガネの奥には、大きな瞳が深い色をたたえ潤んでいた。
寝ぐせほどではないが、乱れ気味の髪はおでこがめくれ上がり、幼さを強調している。
年齢は二十三歳なのだが、外国人と比べるということを割り引いても若く見え、ともすると高校生と間違えられてもおかしくはない。
《ではここで、さゆりさんに自己紹介していただきましょうか》
さゆりはハッとしたように、顔を上げた。
(えっ・・・な、何・・・?
なんで私が自己紹介するのヨッ・・・。
ちょっとあんた、手を抜くんじゃないわよっ・・・)
《ス、スイマセン・・・・。》
(まっ、いいか・・・。
オホン、私・・・吉長さゆり、二十三歳。
おうし座生れです。
まだ処女・・・なの・・・キャーッ・・・・!
自分で言うのもなんだけどぉ、私って美人・・・なんです。
小さい頃から・・・って何よ、その顔はぁ・・・?
ア、アンタが紹介しろって、言うからぁ・・・)
《いえいえ・・・な、何でもないですよ。
ど、どうぞ続けて下さい》
(まったく・・・えっ?
あ、そうそう、それでね・・・・。
モテることはぁモテたんだけどぉ・・・。
男運が悪いのね、私って・・・。
いつも廻りに男の子はいるんだけど、お互い牽制しあっちゃって、ちゃんと告白された事なんてなかったわ。
高校は女子校で、短大も女子大だったし・・・・。
結局恋人らしい恋人もできなくて社会人になっちゃったの・・・。
合コンなんかで寄ってくるのってバカみたいなのばっかりだし私、面食いなんです。
それに絶対お金持ちじゃないとダメッ。
旅行が大好きだし、それも外国・・・。
シャネルやブルガリ、ブランド物に目が無くて、私にいっぱい買ってくれる人じゃないと、結婚する気ないんだぁ・・・)
《おや、おや・・・》
(まー、それでとりあえず、いつも外国へ行ける職業って事で旅行会社に就職して、憧れのツアコンになったの。
でもこの仕事って超ハードで、お給料も悪いんです・・・。
自分からの持ち出しも多いし、残業や休日出勤代なんてつかないの。
だから今、親のすぐ側のマンションに住んでいて、日本にいる間は食事とか洗濯全部お母さんに頼っているの。
親も変な所でひとり暮らしされるよりはいいって、協力してくれるし、何とか貧乏しないでやってまーす。
えっ・・・?
さっき、なんでため息ついていたんだって・・・?
そーなのよ、聞いてくれますぅ?
この仕事すっごく、大変なんですっ・・・。
昨日もサンピエトロ広場からツアーのみなさんを案内して、スペイン広場に行ったんですけど、その中の広尾のオバサマ軍団がジェラート、あっ、アイスクリームのことよ・・・。
それを食べているところを写真に撮りたいって、ゴネルの・・・。
スペイン広場は改修してから飲食は禁止になったから、ダメだって言っても、聞いてくれないんです。
スペイン広場に来てヘップバーンと同じようにジェラート食べないとローマに来た意味がない、あなたも少しは勉強しなさいって、もう、すごい剣幕・・・。
あのねぇ・・ローマの休日ぐらい、誰でも知ってるわよっ。
自分の顔を鏡でよく見なさい。
私なんか、ちょっと素顔でいると男が寄ってきて、それも油ぎったオジ様が・・・・。
うっとうしいから、こうして「ダテメガネ」をかけているんだから・・・)
ここまで言うと、さゆりはパニーノという、イタリア風サンドイッチをパクついた。
《これ以上、作者がさぼると登場人物にボイコットされますので・・・
いつものように・・・》
彼女の自己紹介に付け加えますと、ご両親はまあ中級以上の暮らしで、お父様は大のサユリスト、自分が吉長っていう名字なんで娘が生まれたとたん「さゆり」ってつけちゃったんですね。
でも幸い美人に生まれて、無事にすくすくと育ちました。
お気楽にツアーコンダクターになったのはいいけれど、これがもう大変な仕事で、広尾のオバサマ軍団の他にも、いるわいるわ、濃そーなメンバーが・・・。
さゆりはツアーメンバーのリストを見ながら、又、ため息をついてホテルのカフェを見渡した。
(大西 卓也三十歳 会社員独身一人旅・・・か。
それにしてもカンベンしてほしいわよね。あのスーツ・・・)
すぐ向こうの席で、男は大きながっしりした背中を丸めて、一人で朝食をとっていた。
頭はべったりポマードをつけてオールバックにし、サングラスをかけている。
そして・・・。
どぎつい紫色のスーツを、黄色いTシャツの上に着込んでいる。
何かずいぶん前にこんなかっこうして踊ってるグループがいたなあ。
今でも刑事ドラマにでている人がリーダーだったような・・・・。
(どこで買ったんだろう、あれ・・・。
それに超、暗いしぃ。
どうして男一人でローマなんかに来てるんだろ?
それもパックツアーで・・・。
わっかんないわー・・・)
さゆりは次にその向こうのテーブルの女性を見た。
今日は黒のシックなツーピース・スーツを着ている。
だが胸元が大胆にV字にカットされ、豊かなバストがちらちら見え隠れしている様は、男達の視線を集めるのはそう困難な事ではなかった。
端正な顔立ち、彫りの深い大きな瞳、誘うような唇。
これも大きくスリットの入ったスカートから白い足がスラリと伸び、
あまり背の高い方ではない、さゆりにとってため息がでるほどのプロポーションをもつ存在であった。
(香山 広子三十三歳 独身・・・か。
たしか、ご主人は昨年亡くなって未亡人っておっしゃってた・・・。
ステキな人・・・。
ツアーの中では唯一、オアシス的な存在だわ。
かっこいいし、三十三歳とは思えない程肌の艶もいいもの。
きっとお金持ちなのね。
身につけてるものや服も高そうだし、立居振舞もエレガントで、すてき・・・・。
私も、あんな風になりたいなー・・・)
未亡人・・・ちょっと淫靡な響きですな。
の、向こうはさっきの広尾のオバさま軍団。
この人達もお金持ちそうで、首や指にいくつもの高そうな宝石を光らせている。
あとは新婚のカップルが十組ほど、まー勝手にしてくださいと言いたくなる程イチャついている。
それこそオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックになりきって、お互いを見つめ合っています。
リストの最後の方までくると、さゆりは急に肩をいからせた。
(高田 雅美四十一歳 会社員 独身
って、このスケベオヤジ・・・。
何が独身よぉ。
女房に逃げられたんじゃあないのっ。
自分で言ってたけど、もーこれがドスケベ・・・。
僕はバツイチで寂しいんだっ・・・・て。
このローマも傷ついた心をいやしに来たんだっ・・・て。
しつこく、くどいてくるしぃ。
顔は油ぎってて、チョーサイテイ。
すきあらばおしりを触ってくるしぃ。
それが何でこの名前「雅美」なのよ。
顔と全然、イメージ違うじゃないっ・・・・!)
水を飲みながらリストから目をはずしたさゆりは、あやうく吹き出しそうになった。
「やあ、さゆりちゃん。今朝もきれいだねー、グット、グット・モーニングーっと。」
目の前に、その男が座っていた。
「お、おはようございます、高田さん。」
驚きに高鳴る胸の鼓動を鎮めつつ、さゆりは無理に作った笑いを浮かべた。
「ンー、さゆりちゃんは何を食べていたのかなー・・・っと。
オジ様も同じの食べちゃうもんねー・・・・。
ヘイ、ボーイ・・・カモンベイビー・・なんつーて・・・」
(あー、サイテー・・・)
心の中で、やるせない声を出したさゆりであった。
こうしてディープなメンバーを従え、十日間のツアーの仕事をこなすはめになった、さゆりであったが、実は一つ楽しみがあった。
(フッフッフッ・・
それは私がこのツアーの仕事の後、特別に一週間の休暇をとっているという事なの。
お客さん達を空港まで送ったあとは、きままな一人旅・・・・。
親のスネかじって貯めた、おこづかいでパーと遊ぶんだもんねぇ。
ローマはこれで三度目だしぃ。
いっつも人の買い物を、指をくわえて見てたんだもんっ。
今回はいっぱい買っちゃうんだからー・・・・。
そう、ローマの休日・・・・でもってぇ・・・
ローマでお買い物よっ・・・てか?
あっ・・・いけない・・・・ちょっとオジさん入ってた?
まっ、いいかぁ・・・)
《まっ、いいでしょ・・・。
かわいいから、許します》
さて、これからどんな物語が展開するのやら。
・・・どうぞ、お楽しみに。
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