第34話 片桐の喫茶店へ

 道子さんの家から片桐の喫茶店はそう遠くないが、直通の道がないからパズルのように他の道を通る。だから余程地元で付近を歩き慣れていないと難しい。体力を持て余している若者か、好奇心に富んだ暇人を別にして、ましてあのコンビニだけの行き帰りの道子さんには、この喫茶店は見つけられない。

 夕紀は難なく皆を片桐の経営する喫茶店に連れて来る。入り口に備え付けのカウベルがこの風景に合って初来店の滝川には、牧歌的な旅情を駆り立てられるらしい。

 まだ昼前だと云うのに半分ほどテーブル席が埋まっている。夕紀は出来るだけ端のテーブル席に座り父に珈琲を注文する。

 ここの珈琲は絶品ですよと桜木が滝川さんに勧めている。それを聞きながら頷く姿に、よくもこれだけ短期間に親しくなれる物だと夕紀は感心する。父から出来たと云う合図に夕紀が受け取りに行きテーブル席に戻り珈琲を配膳した。

 さっそく滝川が一口飲むと良い味だと納得している。そこで桜木があの家の本については新学期の新入生歓迎会のバザーで売ると説明する。滝川も自分の物ではない上に関心も低くて納得した。それよりも滝川にすればこの三千院界隈の風景が懐かしいようだ。

「あの門前に立ち並ぶ店には驚いたがこの辺りはまだ昔の面影が残っているね」

 今でも他の門前通りより店は少ないが、やはり滝川には五十年前とはかなり様変わりしているようだ。

「昔はもっとお店は少なかったのですか」

「ウン、それよりはもっと地味だったけど賑やかになったもんだ」

 滝川さんに依れば、昔から住んでいるあの壬生辺りはもっと寂れていた。特に新撰組の屯所跡は門から表通りまではひっそりとした土塀が続き、今にも隊士が隊列を組んで出て来そうな雰囲気だったが、今では床机に毛氈もうせんを敷いた茶店が出来て雰囲気を台無しにしているらしい。

「あれはひどいなあそれに比べるとここはまだそれほど俗化されてないからなごめて良いよ」

「それでも滝川さんの恋は五十年経っても今と変わらないんでしょう道子さんが羨ましいわ」

「それは失踪されたから向こうはどうかなあ」

「でも初恋の場所に四十年もしかも借家でも住み続けるんですもの思い入れは確かなんじゃないんですか」

 滝川さんは市内の便利な所に住んでいるけれど、道子さんは農家などの自営業なら未だしも、旦那さんがサラーリマンなら通勤に不向きなここの生活環境を考えると、ただ事じゃないと若い二人は口を揃える。

「そう言えば俺は道子が失踪してからもずっと今の場所を変えてないからなあ」

 と滝川は若い二人から出た女心の複雑さを、噛み締めるように自分に言い聞かせている。

「そう想うと道子の方が俺より心底惚れていたのかも知れないなあ」

 じゃあどうして島根のお姉さんにまで道子は疎遠にしていたんだと悔やみ出した。

「ウ〜ん、滝川さん、あたし想うんですけれど便りを寄越さなかったのも道子さんの愛情なんではないでしょうか」

 側に居て立ち直せられる人とそうでない人の違いだと夕紀は云う。そして道子さんは後者の方だと思うと、側に居るよりいっそう失踪して雲の上のような所に居た方があの人の為になると。それが控え目ながらも、ひとつ芯の通った彼女なりの愛ではなかったか、と夕紀は滝川に伝えた。これには桜木も頷いて、滝川に至っては夕紀に促されて神妙に受け止めていた。


 二人は滝川を見送った後は、今一度あの二人の愛を確かめるように、どちらともなく三千院へ行きたくなったようだ。

 門前の段差のある長めの階段では、道子さんが転びかける宇田川さんを受け止めた出逢いに思いを寄せて登りつめた。受付を済ませてあの宸殿から往生極楽院が正面に見えるあの場所に向かい階段に佇んでみた。

「確かにここに座られればあの三千院のメインスポット往生極楽院に行くには目障りになるわね」

 そう言いながらも桜木と夕紀は階段に座り込んで仕舞った。そこで夕紀は巡り巡って一つの出来事に想いを馳せた。

「この前の鴨川デルタでの討論だけど覚えているでしょう」

 何だ急にと桜木は場違いな質問に困惑している。 

「美紀だけどあれから大菩薩峠の本は借りに来ているの?」

 とそこで夕紀はあの家で桜木が気に留めたあの本まで時間を巻き戻した。

「今時の学生には時代小説よりファンタジー小説だろう。だからあの本から深読みして仏教的思想を読み取るのは大変だから美紀にその気がなければ無理なような気がするけど」

「あたしが訊きたいのはそうじゃなくて美紀があれから来てるかってことだけど」

「いや、さっきも言ったとおりあれから手こずってるのか来ない」

 それがどうかしたか、と訊ずねられて夕紀は慌てた。

「いえ何でもないの、それよりここに居ると失恋した滝川さんの心境に迫れるかなあと思ったんだけど桜木君はどうなの」

「俺も一緒で矢っ張り本当の恋を知らなけゃあここへ来てもだめなのか」

「それは無いと思うだってここへ来る人ぜ〜んぶが恋しているわけないじゃん」

「それもそうだここはパンフレットでは天台宗のお寺であって神仏に恋の誓願成就を掛ける所じゃないからなあ」

「それもそうねそれで滝川さんから道子さんの家を見たいっていつ連絡があったの」

「今朝一番に掛かって来た」

「それをあたし以外に誰が知らせたの?」

「道案内だけだから俺一人で十分だしそれに春休み最後でみんな家でノンビリ寝てるだろう」

「桜木君もそうだったの」

「いや、俺はもう起きて本を読んでた」

「ホ〜オ、博士課程へ進むの文学部で博士の学位でも貰うの?」

「それ真面目に訊いてるのか」

 夕紀はベロッと舌を出して笑った。

「それで誰にも告げずに滝川さんと来たんだ」

 それで今日のことは皆に報告するか訊ねると、あの家に有る本の処分が絡んでいるから当然らしい。

「どう報告するの?」

 と夕紀の可怪おかしな問いに、桜木は怪訝な顔付きで、ありのままだろうと云われた。

「それもそうね何にもないんだから」

 それで今まで一緒に行動していた美紀が心配するかと思うと少し不安だ。でも事前に予定していたとはいえ、突然の連絡を受けて礼を失せない相応の対応が必要だった。特に今回は家の内部を見て貰うだけで桜木一人で十分だが、如何せん鍵がなければどうしょうもない。

「別にたいしたもんじゃないだろう」

「でもあたしと一緒に行ったでしょう」

「それりゃあ鍵を持ってるのは夕紀だろう一緒に行くのが普通だろう。なんか都合の悪いことでもあるか」

「別にないよ普通だよねぇ」

「当たり前だ」

 この件では大勢で行くもんでもなかった。そこの処を桜木君には強調して貰うように頼んだ。これには桜木君も同調してくれるが、その真意は酌み取ってくれそうもなかった。


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