第28話 滝川に会う
自分の名を呼ばれて、ハア? と階段の途中で立ち止まった老人は、これには戸惑いを隠せない。それはあんたらは誰やと言う質問に尽きる。
四人を代表するように夕紀が、老人が立ち止まった所まで歩み寄った。そこで片桐夕紀と名乗り、
滝川さんですかと訊ずねる夕紀に、名乗り忘れたように、そうですと答えると「こんな所で立ち話も何ですから」と四人を急いで部屋へ招いた。
入ると直ぐに流しとトイレが入り口の半畳の
「ホウーこれは美味そうだ」
と言われて直ぐに美紀と夕紀が滝川さんに伺って、茶椀にティパックになったお茶を淹れて座卓に並べた。
先ずは羊羹を食べながら夕紀が道子さんの最近の動向と死亡した経緯を説明する。最近までピンピンして元気に買い物などしていたと知り、この突然死は一つの運命だと受け入れてくれた。
「でもお姉さんの恵子さんの話によると四十年近く滝川さんは道子さんの消息を捜していたそうですね」
桜木が最初に聞き込んだ。
「わざわざ島根まで行かれたんですかご足労なことだ」
「いやそうでもないですよそこにいる美紀ちゃんの実家ですから」
「ああさっき大菩薩峠を読んでいると言った
と言ってから滝川は少し物思いに耽るように美紀を見て、
「アレは道子も読んでましたよ」
と言って随分昔でしたがねえ、と言って感想を聞かれた。まだ出だししか読んでいない美紀はそれで慌てた。
「道子はねえ、アレはねえ、芭蕉の『おもろうてやがて悲しき鵜飼いかな』って詠んでそんな句だと言ってましたよ」
「そうなんですか?」
と美紀はチラッと桜木の顔を覗った。
桜木は道子さんが住んでいた借家の大家さんから遺品整理を頼まれて、その中にあった本だと説明した。
「他に何かありましたか……」
「色々ありましたが電化製品と家具は処分しましたが本と私物に関してはまだそのまま遺してますからよかったらご案内しますからご覧になりますか」
滝川は桜木の顔を見て、君が気に入りそうな本はあったかと聞かれた。素直に大衆小説ばかりでしたから特に目を引いたのは臼井吉見さんの「安曇野」ですと答える。
「ああ、あの相馬黒光を描いた安曇野ですか」
と直ぐに返って来て桜木は驚き、他には「楡家の人々」だと付け加えた。
「北杜夫の作品ですねどちらも長編小説で根気が要りますなあ」
「あれは本当に道子さんが読まれたのですか亡くなったご主人かなあとも思ってましたが」
亡くなった相手は知らないが、多分道子が読んでいただろう。時代物の大衆小説はおそらく亡くなった相手かも知れない、面白可笑しく受けを狙ったものには彼女は興味を示さなかった。
「嗚呼ひとつ、短歌を投稿した事が有ると言っていた」
「それでどうなったんです」
「それっきりだから結果は
少しでも恋が絡むと桜木は手を焼くようだ。この隙間を埋めるようにここで夕紀が言い出した。
「でも素敵な出会いがあったんでしょう三千院で、あたし道子さんを知る別な人から伺いました。宸殿から往生極楽院が正面に見えるあの場所に佇む滝川さんの深刻な顔付きに驚いて声を掛けられたそうですね三千院で初めて巡り会った道子さんはどんな素敵な人だったんですか」
「深い洞察力と慈悲の心を持ち合わせていたからこそ声を掛けられたと思っている」
「だったら振られたんでなく滝川さんだと創作に支障が出ると思ったのでしょう」
「そんなことはない私は全面的に協力する」
「じゃああの車は手放されたんですか」
ここで夕紀に代わって桜木が問う。なんか二人に交互に攻められると辛いが、それだけ道子の事を考えてくれていると思うと、嬉しさも少しは込み上げてくるようだ。
「いやそれがやっと手に入れた憧れの車だからそう簡単にハイそうですかとは行かない」
「それは滝川さんのエゴみたいなもんじゃあないのかなあ」
「男のあんたにそう言われたくはないがそれを道子にそのまま言われてしまったよ」
「あたしはそうとは思わない」
と美紀が突然言い出す。
「だって滝川さんはあの車を手に入れる為に苦労をしたんでしょうそれを何処まで知っているのか分からない人には言われたくないと思うの」
と美紀は滝川でなく夕紀と桜木に向かって言う。
「原因はやはりあの車なんですか」
と桜木はまた問う。
「だとすれば一方的過ぎる。道子さんは創作に専念し滝川さんはあの車に固執するお互い様なような気がしませんか」
「これは金銭的には大きな開きがある片や殆どお金は掛からないのにあの車には生活を犠牲にするほどの出費が掛かる。これでは道子さんは納得できないでしょう、あの人は島根では生活にゆとりがあったんでしょうか」
と美紀が主張する。
「まあ普通の家庭だと聞いていたがやはり自分の身の丈に合わさず車にうつつを抜かす奴が将来真面な家庭を築けるはずがないと云われた」
「それで勘当されても道子さんは島根を離れて身ひとつで滝川さんの所へやって来たんですね」
「それで改めたんですか」と美紀が訊く。
「それは無理だろう車は男のロマンだろう」と米田が言う。
「そんなのロマンじゃあない生活感の欠如以外の何事でもない」と夕紀が反論する。
ここで沈黙する桜木の顔を滝川は覗った。
「北面の武士まで登り詰めた男が地位や妻子までも捨てて己の道を歩く姿を思い起こして欲しい」
と滝川に言われて、ここで西行を持ち出すか。またそれが男のロマンなのかそれとも単なる我が儘なのか、と桜木は笑いながらも戸惑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます