第30話 六月二十七日⑧

 そのとき彼女は身を乗り出して、僕が頼み口をつけたミルクティーとキスした。

「これは嘘をついている味だわ」

「け、けお、顔を舐めなくてもわかるのか、それ」

若干動揺して噛んでしまった。訂正する。別に偽る理由もない。僕の鼓動はフェスに行った時と同じくらいの心拍数を表示している。

「顔は衛生的にもよくないし、相手が顔のいい女だからといってどんな雑菌がついているかわからない舌という粘膜の塊で触れてくる相手を好きになる人はいないわ。好きになる努力もしない」

「それは一つの飲み物を同じように飲んだら君の唾液を摂取することになるじゃないか」

自分で言語化することで余計に威力を上げてしまい、首が余計に絞まった。

「そんな風に言葉にしてしまうと潔癖症ではないとはいえ、中々堪えるものがあるわね。そこまで想像しちゃうなんて、ヘ・ン・タ・イね」

そんな言葉をこんな完成度の顔から言われると料金が発生するような何かのプレイか何かかと錯覚してお金を払いそうになった。ほとんど財布を取り出すためバックに手をかけていたところだ。

「でも、残念。それも考慮して全部飲み干しておいたわ。これで今現在接触感染するウイルスが蔓延していたとしてもばっちり」

「ん?どういうことだ?」

そんな仮定をすることに何の意味があるんだ?

「今更、そんなことを貴方が気にしてどうするのよ?後悔するにしても手遅れだわ。だから、だまって答えて頂戴」

「そ、そうだな。まあ確かに多くの飲食店で働く方が苦境に立たされるようなウイルスが流行っていても大丈夫かも知れない。いや、冷静に考えると僕の飲んだものを君が飲んでるいるのだから対策は全くもって万全ではないじゃないか!?」

「もし私が何かの病気罹ったら佐倉君のせいね。佐倉君のウイルスが私の中に入って来て、私の体の隅々を周遊して蝕む」

「語弊を生みそうな表現、どうもありがとうございますっ!!」

僕は喜んでなんかいない。怒っている。

「でももしそうなったとしても、構わないわ。佐倉君と一つになれているのだから」

「まだ続くんですね、この虐めは」

「でも私が良くても、私の家族はどう思うかしらね。責任は、取ってよね」

「完敗だよ」

「え、文芸復興?」

「その言葉に変換されるまでの過程で正答を理解しているだろ、そのボケは」

「私勝ったー」

そういいながら彼女は左手で手刀を作り、空を切った。

「いや、そこまで行けるなら才能を感じるよ、座布団七枚」

先ほどから、いや開始時から完全に彼女のペースだった。小悪魔的な笑みから繰り出す言葉の銃弾はすさんで空洞だらけの僕の心まで笑顔にさせた。

そうだ、そうなのだ。別に人間ではない僕だって、悩みを抱えた僕だって、嘘をついている僕だって、笑ってはいけないことなどないのだ。年末の大型特別番組でもなければ、ネット配信型芸人腕試し番組でもあるまい。

人の感情はそう簡単に無くなるものではない。そう表現されるものは時間停止が九十九パーセント偽物なことと同様に、十中八九まがい物なのだ。ただ、感情を表情に出すことが苦手であったり、抑えていたりするのが現実。

彼女はそんなことを教えようだとか、思い出させようだとか高尚な意図はもっていないだろうけれど、無意識であるからこそ凄いことだ。

彼女は顔がいい女ではあるけれど、それだけではないのだと思う。気もよくて、人がいい女だ。いや、女性なのだろう。

「でもそうね、答えてあげるわ、静とのこと」

工藤の下の名前が静であることを初めて知ったことと、なんだか往年の大歌手みたいだなと思ったことは心の奥にしまっておこう。

「でも、その前に一つ約束。聞いたからには引いたりしないで欲しいわ。私は貴方がたとえどんなに傍若無人で慇懃無礼な最低ヒモDV男であっても手に入れる、手に入れたいと思う覚悟があるけれど、貴方にはそれに相応するほどの覚悟がある?どんなことでも受け入れる覚悟がある?」

話を聞いている中で仮定される僕の最悪の最大値のイメージが救いようのなさったらなかったのにはかなり気になったし、彼女ならより良い条件の男は五万と寄ってきそうではあったが、そういうことではないのだろう。そうでなければまずサッカー部のエースで十番トップ下である優良物件工藤静を手放して、帰宅部のベンチの人間失格の僕を求めたりしないだろう。いや、彼女の目線から見れば僕はまだ人間なのか?

まあそこはどうでもいい。どちらでも構わない。

今大切なのは僕の覚悟の有無だ。冷静に考えれば、僕には毛ほどにもそんな素晴らしいものはない。今は人の問題に首を突っ込んでいられるほどの余裕はない。いくら脳のストレージに余白はあろうとも、余裕はない。これからまさに自身の問題解決以外の用途にしてはいけない。そう思っている。

しかし、それと同時に、それと同じくらい彼女の話を聞くべきだと思う自分もいる。というのも、人間が人の覚悟を問うということはその問うている人間も覚悟をもって話すということだからだ。話すことにリスクがあるということは、リスクを共有することになるからだ。人を撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ。

そう考えるならば、彼女は僕にそれを教えてもいいと思えるほどに信頼を置いているということだ。この唐変木で朴念仁な僕に。

正気ではない。でも僕は、理由無しにそれにこたえなければいけないと思う。

生まれ変わったことを理由に嘘を正当化した僕を少しだけではあるが贖罪できるのであれば僕はこの問いかけに乗るべきだ。

「答えは決まった?」

今度は僕の思考の時間をはぐらかさないで待っていてくれた彼女はそう聞く。

「・・・・・・互いって言う漢字って『ご』って読むだろ。互角だとか交互とかって使うとき」

「ん?それがどうしたの」

「だから互いに『かくご』は出来てるってことさ」

この僕の言葉に彼女は

「はぁ。なるほど」

と答えた。それもかなり疑問符を携えた発音で。

人生っていうものは、肝心な時に成功することのほうが少ない。僕だって何を言いたかったかよくわかっていないし。

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