君に会えたからもう満足だよ

「私たちもついています」健也さんは優しい顔つきになって言うのだった。「これからよろしくお願いします」「はい」と彼女は微笑む。すると彼は、美知香の肩を抱くようにしたかと思うと、彼女の背中を支えてゆっくりと起こし上げた。そうしながら、俺の方に向かって目で問いかけてきた。俺はまたも健也さんの仕草に反応してしまったのだが、彼が何を聞きたかったのかが分かった。俺に確認を取りたがっているのだろう。だから「ありがとうございます。もう十分です」と言うと、美知香は健也さんに支えられたままベッドの縁に移動した。彼女はそこから身を乗り出すようにしてこちらを見た。

俺は彼女を見ることができなかった。それでもなんとか視線を合わせようと試みたが、やはり失敗してしまう。しかし、そうしながらも必死に考える。どうやれば、美知香との再会を上手くやり過ごすことができるのか。何か上手い言い訳があるのではないか。

しかし焦りは空回りばかりを生んだ。いくら頭を働かせてみてもこれといったアイディアはまったく浮かんでこないのだった。俺は追い詰められて、最後には半ばやけっぱちになり、目をそらしたままでぼそりと答えた。

「君に会えたからもう満足だよ」と。

○ 4月7日月曜日午後12時15分 俺は結局何もせず病院から逃げ出した。

病院の敷地から出た途端に携帯電話を取り出す。番号を確認しなくても登録してあるから分かるはずだった。指先が素早く動いて画面をタッチしていく。そして電話帳に登録してあるものの中で最も新しい番号を選んでコールする。

2回目の呼び出し音の途中で相手が出た。俺は自分の声が震えていることを自覚する。それをどうにか隠せないものだろうかと考えた。無駄だな、とあきらめた。

「俺だ」

『はい』短い応え。

「美知香の様子は」『落ち着いています。今は眠ってるようです。昨日の晩は眠れなかったみたいだし。さっきまでは泣いてましたけど。いま、やっと泣き止んだところで』

「そうか」と言って俺は口をつぐんだ。何か気を紛らせるものはないかと考える。

しかし俺はこの場を離れることができたことの安心感から、つい口が軽くなって余計なことをべらべらとしゃべる結果になった。

「美知香を俺の家に連れ帰るわけにはいかないかな。君の家の方が良いならそれでもいいけど」『美知香ちゃんの荷物を全部持っていくことはできないでしょうし、さすがにそこまではしない方がいいと思いますよ。杉村さん、一度、家に戻りましょう。その間に僕はレンタカーを借りておきますから、一緒に帰りましょう。車の中でも話はできますから。あと美知香ちゃんには杉村さんはちょっと急用ができたから、今日の夕方には会えるよって伝えときました。嘘も方便ですよ。本当はもう少し時間を空けないと、混乱するかもしれないんですけど、それはどうにもできないから、しょうがないですね』

俺は了解の意を伝えるために沈黙を選んだ。そうすることで相手には俺が了解したと理解してもらうつもりだったのだが。実際それは成功した。俺が何か言う前に、『あ、もしもし?』という男の声が耳に届いた。

『すみません杉村さん、僕、津久居といいます。お嬢様はそこにいらっしゃるでしょうか』

「はい、代わるか?」

津久居というのが誰かはすぐに思い出せなかった。誰だっけ、と考えて、そうだ美知佳の付き人だと思い当たる。俺とは面識が無いのである。俺は「いえ」と言ってから、「美知香に替わろうか?」と提案した。彼女はそれに素直に従ってくれて、しばらくやりとりを交わすと、通話をスピーカーホンに切り替えた。そうして携帯をこちらに差し出したのだ。

「津久居さん」『あ、これはどうも。このたびは本当に、申し訳ありません』

深々と頭を下げる様子が目に浮かぶようだった。俺は苦笑する。

「美知佳が世話になっているそうだね」

『ええ。私もお世話になっておりまして、いやもうどうしたら良いやらで、途方に暮れてしまっております。どうぞお気になさらず、普段通りで構いません。どうか娘さんとゆっくり過ごしてください。失礼しました。それでは、これで。あ、もしよろしかったら、今度の日曜日、うちに遊びに来ていただけたら、と思っておりますが……いかがでしょ、え? はい、ではまた後ほど、ご連絡させていただきます。はい。あ、いやその』美知佳に「お父さん、なんて言ってるの?」と聞かれた津久居氏が「いや、日曜のことだけど」と慌てて返事をしている様子がありありと想像できた。それで俺は、ふき出してしまったのだった。

笑いが収まるまで待って、改めて言う。「うん。じゃあそっちに行く」

津久居氏に別れを告げると、美知佳に向き直って聞いた。

「今の、何?」

美知佳は、先ほど俺に対してやったように携帯の液晶面を下に向けて差し出して見せてくれる。メールの着信を知らせる表示があった。送信者名は「父」となっているのである。

「うん」美知佳は自分の耳の後ろに手をやってうなずいてみせた。「実は前からそういう話だったんだけど、昨日の夜に決まったの」

俺は思わず彼女の顔を見直した。

美知香の顔ではなかったからだ。美知香の顔をした女。

「お父さんが言うんだよ。わたしのことがすごく心配だから見守り隊に入隊してくれって。お母さんは反対するんじゃないかって思ったけど、お父さんがお願いしたの。わたし、もちろんお父さんの側にいたいし、断る理由が無かったから入隊することにした」

そして彼女は少し悪戯っぽい顔つきになって言った。「だから杉村さんは、隊員二号ってことになるの」冗談を言われたような気がしたがまったくそんなふうに思えなかった。「どうして?」

美知香はうーんと考え込んだ。「どうしてだろうね?」そして肩をすくめて首をかしげる。「でもまぁお父さんはいつも忙しいから仕方ないよね。今度からはお父さんのことも気にかけなきゃな、とは思うけど」

彼女の口調には、どこか突き放すような響きが含まれていたように俺は感じる。「そうなのか?」と聞いてみた。

しかし彼女はそれ以上は答えずに、代わりにまた俺の手を取って歩き出すのだった。今度は引っ張られたわけではなく並んで歩いた。俺はまた少し遅れてしまって小走りで追いついたのだが、そのときになってやっと、彼女はまだ例のスリッパを履いていることに気づいた。俺は「その格好は寒くないか?」と聞く。

「大丈夫だよ」美知香は短く答えた。「どうせすぐ脱ぐんだし」「そうか」何を脱ぐのかという質問を口にする勇気は俺にはなかった。

病院の敷地を出たところの車道に軽自動車が停まっていた。運転手はドアを開けて待っていたが、車は動いていなかった。運転席から降りてきた男が、助手席側に回り込む。後部座席側のスライドドアに手をかける。そこで俺達の接近に気づいた。「あっ」男は小さく声を上げ、それからあわてて挨拶するのだった。「こ、こんにちは!」と、体育会系を思わせるハキハキとした大声で。

俺は反射的に背筋を伸ばして敬礼をするのだったが、すぐに我に返った。そうだった。もう警察官ではないし――。

だが男はさらに大げさに反応した。まるで警察手帳を見せられると思い込んだみたいだった。彼は両手を挙げて後ずさりした。

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