第五章『娘』


目を覚ますと見覚えのない光景が目の前に広がるという夢を見た。

真っ白な空間の中で少女が倒れており傍らに老人が佇んでいる。彼は悲痛そうな面持ちのまま「大丈夫か、しっかりするんだ」と話しかけている。少女が苦しそうにしながらも「おじいさん……」と言うので慌てて駆け寄ろうとすると突然足元の地面が消えた。そのまま私は奈落の底に落ちていきそこで目が覚めたのだった。額にはびっしりと冷や汗をかき息は上がっていたがまだ午前五時前であることはわかる。

少女は枕元に置いてあったタオルを手に取り額の汗を拭きとる。そして「ふぅ」と溜息をつくとそのまま再びベッドの上に倒れた。しかし今度は夢を見ることはなかったようである。そのまま二度寝しようとしたが眠気が全く無かった為体を起こして窓際にあるベッドに腰かける。カーテンの向こう側は薄暗いが夜明けはまだのようだ。少女は大きく深呼吸を繰り返して気を取り直すと机に向かい教科書を開いた。今日もまた高校二年生の二学期中間テストがあるのだ。

勉強は好きではなかったが成績を上げることだけが両親からの期待だったので彼女は必死で机に向かう毎日を送っていたが、ここのところはずっとサボっていたせいですっかり自信を失っていたのである。

(勉強は得意じゃないんだけど、でも今回は絶対にいい点を取るんだ)そう心の中で呟く。(だってお兄ちゃんが帰ってきてくれる日なんだから頑張らないと!絶対だよ?)

彼女は自分の頬を両手で軽く叩いてから机の前に座るとシャーペンを片手に参考書の問題に挑み始める。

それからどのくらいの時間が経った頃だろうか。

玄関のドアを開ける音がしたので少女の母親は顔を上げた。「もう、お父さんったら……」と言いながらも娘のことが心配だったので様子を窺いに行くことにしたのだった。

階段を下りると夫は居間のソファに座っていた。テレビを眺めながら朝刊を読んでいるようだったが、娘の姿を見かけると新聞を置いて近づいてくる。「ただいま」

そう言った後で「おかえりなさい」と返事が来ると安心して「うん」と答えたのである。

「起きてきて平気なのか?」

夫が尋ねると少女はやや申し訳なさそうな表情をしながら「はい」と言った。「ちょっと変な夢を見ちゃって、あまり眠れなくて……」

「そうか、大変だな」と言って夫の手が少女の頭の上にポンと置かれた。「さあ顔を洗っておいで。朝食は用意しておくから、食べながら学校に行く準備をするといい」

夫の提案を聞いて、少女の顔がパァッっと明るくなる。

「はい、ありがとうございます」

「気にするな」と笑ってから夫は居間から出ると台所へ向かった。妻に「朝食は俺が作っておくから」と言ってコーヒーメーカーに豆を入れる。妻はその様子を見つつ、少女の様子はどうか尋ねた。それに対しては問題なく朝食を食べているとの返事があり一安心である。「それに、朝早くに起きたおかげで勉強をしているようだ」

それを聞くと彼女は微笑んで「良かった」と言って自分も台所へと向かったのである。

朝食を終えて身支度を整えるとちょうど七時半になる少し前という時間になった。

「じゃあ行ってきまーす!」元気に言う少女の声に両親は笑顔で手を振った。父親は車のキーを持ってから見送りに出ようとして少し考えるような仕草をしてから思い出したように「そうだ」と呟いた。

「気をつけて行きなよ、寄り道しないでよく頑張ったって褒めてもらえるようにな」「はぁい」と返ってきたので父親も笑い返した。「では行ってくる!」

「行ってらっしゃい!」「ああ、あと帰りは迎えに来るつもりだから一緒に夕飯を食べられるよ。何食べたいか考えておいてね?」

そう言われて少女は一瞬きょとんとするが「やった!」と言って喜び、それを見ている両親がニコニコしている。その様子を見ていた母親が苦笑しつつ「あんまり羽目を外すんじゃないわよ」と釘を刺した。少女はそれを受けてわざとらしい膨れっ面を作ったがすぐに笑ってしまった。そして「気をつける」と言って手をひらひらさせながら家を出ていったのである。

少女を見送った後は家族全員でのんびりと過ごすことができた。普段よりも余裕をもって行動することができたということもあるがそれ以上に少女がいつも以上に上機嫌だったからだ。

やがて午後四時頃になり「学校まで送ろう」という父親の提案によって三人は車に乗り込むことになった。運転は父親が担当し、後部座席には母親と少年の姿が見える。助手席に座ろうとしたのだがそこは父親が譲らなかったのである。

「ねえお父さん、なんで私がここに居ると思う?私ね……この車にね……」そこで言葉を区切るとその目は隣で黙っている兄の方を向いた。「この席に昔、男の子が座ってたことがあるって知ってた……?」

父親はバックミラーでチラリと後ろを見て、小さく肩をすくめてから何も言わずに正面を向いて車を発進させたのだった。

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