第39話 おえかき

俺には、五歳になる息子がいる。名前はユウ。なんというか物静かな子で、友達と外で遊ぶよりは一人で絵を描いているのが好きという。

そのせいか、とってもお絵かきが上手だ。子供の絵というのは、四つ脚の動物だというのが分かっても、それが犬なのか猫なのかまでは分からないことがある。

でもユウの描いたものは違う。細かく描けないクレヨンの太い線でも、ちゃんと特徴をとらえていて、すぐ何が描かれているのかすぐわかる。幼稚園では友達から「うさちゃん描いて」とか「ハムちゃんがいい」とかリクエストされるらしい。きっと才能があるんだろう。あの子がもう少し大きくなったら本格的に絵を習わせてあげようと思っている。


そんなおとなしい子だから、階段から落ちて気を失い、病院に運ばれたと妻から連絡があったときは、思わず驚いて叫び声をあげそうになった。

『お散歩に、カメ山(さん)に行ったらしいの』

「あんな丘みたいな低い山で、どうしてそんな事が起こるんだ! それに確か頂上まで行かずに、麓の広場で遊ばせるって話じゃなかったか」

「ええ、そうなんだけど、ユウ、ほんの少し目を離した隙にいなくなったそうなの。どうも、勝手に山を登って行っちゃったみたいで。先生達たちが探してると、頂上に続く階段を駆け下りてきて、それで……」

サスペンスドラマみたいに誰かに突き落とされたわけでも、上からゴロゴロ転がり落ちたわけでもない。ほんの数段足を滑らせただけだ。それでも気を失うほど強く頭を打つには充分だったらしい。

保育士達は慌てて一一〇番してくれたし、幸いユウは救急車で病院に着く前に目を覚ましたそうだ。

無理を言ってなんとか会社をぬけだし、病室にかけつけた時、ユウはベッドに横たわりヒマそうにしていた。

「大丈夫だとは思いますが、打った場所が場所ですから、一日様子を見ましょう」

 医者の言葉に、ユウは泣きそうな顔をした。

「大丈夫よ、一晩だけだから。すぐおうちに帰れるわ」

 妻がそういってなだめた。


色々検査をした結果、特に問題は無いということで、ユウは予定通り退院をした。

 ちゃんと食欲もあるようで、ユウは昼のうどんを食べきり、俺は少し安心した。

「どうだ、ユウ。明日から幼稚園にいけるか」

 リビングでソファに座っていたユウは、コクリとうなずく。

「ちょっとあなた! まだ退院したばかりなのよ」

「でも、医者からも許しが出てるんだし、元気なら幼稚園にいかないと。今からサボり癖がついたらまずいだろう」

「でも、もし何か急変したら、家の方がすぐに対応ができるじゃない。明日ならなんとか私も休めそうだし……」

 俺はユウの方を見た。ユウはテーブルの上に画用紙を広げ、描いている。

 白い画用紙には、犬やウサギ、ひよこなんかあちこちに描き散らかされている。

 ケガする前と同じで、どれもうまかった。車とか家もなかなかのもの。

 そして……

「ヒッ!」

 俺は思わず小さく声を上げた。

 画用紙の隅に、異形の人間が描かれていた。片眼だけが異様に大きく、顎まで舌が伸びている。肌は青と茶色で塗りつぶしてあり、何より気味が悪いのは首がろくろっ首のように長いことだ。

見るからに背筋をぞっとさせるものがあった。

 俺の視線に気づき、妻も画用紙を覗き込んだ。そして絶句する。

今まで一度もこんな不気味な絵を描いたことはないのに、やっぱり脳に傷がついたのだろうか。そういった場合、計算だけができなくなったり、人の名前だけが覚えられなくなったりすることがあると聞いたことがある。

ユウは、人の顔だけを認識できなくなったのだろうか?

それとも、こんな奇妙な絵を描くくらい、事故がストレスになっているのだろうか?

「あのさ、このヒトの絵なんだけど、もっときちんと描いてあげたらどうかな?」

 そういうと、ユウはムッとしたらしく、口を尖らせた。

「これでいいんだもん。ちゃんと描けてるもん」

 「そうか」と応えたあと、俺は妻に耳打ちした。「すまん、やっぱりしばらく幼稚園は休ませた方がいいかも知れないな」

「え、ええ」

 妻はそう返事をすると、静かにうなずいた。


妻によると、その後ユウの様子は落ち着いているらしい。

夜泣きをすることもないし、食欲もあって、好物のおやつをねだるくらいだ。

ただ、相変わらず不気味な人の絵を描き続けていた。やはり、身体的なことではなく、精神的な物なのだろうか?

「ユウ、今度の土曜か日曜に、どこか行きたい場所はないか」

「え? どっかでかけるの?」

 ぱっとユウの顔が明るくなる。

 もし、精神的な物ならば、日常と違う場所に出掛ければ気分転換になるかと思ったのだ。

「ぼく、カメ山に行きたい!」

「ええ?」

 俺は少し心配になった。嫌な思い出のある山だ。これ以上妙な症状が増えたら。

「もっと、楽しい所にすれば? 遊園地とか動物園とか」

 妻も同じことを思ったのだろう。なだめるような、ぎこちない笑顔で言う。

「ううん、ぼく、カメ山がいいの」

 そこまで言われては仕方ない。不安に思いながらも、俺はユウをカメ山に連れていくことにした。もちろんユウの好きなお絵かき道具を持って。


カメ山は、明るい緑に囲まれていた。ふもとの公園風の広場では、犬を連れた老人やスケートボードの練習をする男の子たち。

事故後初めてここに戻ってきて、どんな反応をするかと思ったが、嬉しそうに駆けだした。頂上に続く階段を登っていく。

「おいおい」

 また落ちたら大変だ。それに、まだ完全に頭の傷も治っていない。慌てて俺は後を追った。ユウはスピードを落とさず走り続ける。

まったく、子供のあの小さい体のどこにあれだけのパワーがあるのだろう。

 階段の途中までくると、ユウは急に横に曲がり階段をそれて林の中へ走って行った。

特に手入れをしていない雑木林は、背の低い清清の高い雑草が生い茂り大人はようがない限り入ろうとは思わない場所だ。

近づくに連れ風に生臭い匂いが混じり始める。

 そこでユウは急に腰を下ろすと、スケッチブックを膝にのせ、何かを見上げた。

「ほら」

ユウが指さした先、枝に、何か大きなものがぶら下がっていた。

高い枝だから垂れる太い縄。その先端の輪に、男が首を突っ込んでいた。

顔がゆがみ、まぶたが半分閉じているせいで左目が大きく見える。口からは干からびてジャーキーのようになった舌が、顎まで垂れていた。

そして自重で引っ張られたのか、長く伸びた首。

「うわあ!」

 思わず叫び声をあげ、後ずさったとき、倒れた踏み台が視界の隅に映った。

きっと遠足の時、ユウはこれを見つけたのだろう。そして誰かに報告する前に転んでしまったのだ。

 でも、それならなぜ意識が戻った時に言えばよかったのに。

 俺の混乱に気付かず、ユウは得意気に言った。

「ね? うまく描けてるでしょ?」

 そうだった。ユウは最初から「これでいいんだもん。ちゃんと描けてるもん」と言っていた。別に山で見たものを隠してはいなかった。

 それに、子供は気が変わりやすい。入院という大イベントを経験したので、変なおじさんを見たことを大人に伝える事を忘れてしまったのかも知れない。

 とにかく、ユウの脳に傷があるわけではなかった。ただ自分が見たものを忠実に描いただけだった。

自殺したこの男には悪いが、心底ほっとした。

 そこでようやく警察に通報しなければ、と思いついた。

「もしもし、死体を見つけたんですけど……」

 

 警察に死体発見の状況を説明し終わったころには、俺はぐったりと疲れてしまった。

 ソファに沈むように腰かけ、深く息を吐く。

 妻が台所で夕飯を作る音が、異常事態にすり減った心を癒してくれるようだった。

「まさか、ユウがあんなものを見ていたとはなあ」

 ユウは、相変わらずクレヨンで絵を描いている。

 また死体を描いているのではないかとのぞいてみると、そこには台所に立つ妻の絵。ちゃんとした比率で描かれているのにほっとした。

 テレビをつけると、もう夕方のニュースで報じられていた。一体、マスコミはどこから聞きつけるのだろう。

 とても見る気になれず、テレビを消す。

 静かにコーヒーをすすって目を閉じた。

「そういえば、警察が『ひょっとしたらまた話を聞くかも知れない』って」

 妻の言葉に溜息をつき、再びユウの絵に目をやった。

 驚きと恐怖のあまり、叫ぶことすらできなかった。

 妻のそばに、ソファでくつろぐ俺が描き加えられている。そして、その背後に立つ、何か黒い影。

 それはおぶさるように手を俺の両胸へ垂らしている。そして、長い首と、俺の腹の当たりでぶらさがる頭。

「ほら、じょうずに絵描けたでしょう?」

 ユウは俺に話しかける。いや、俺の腹あたりに。

 俺はソファから転げ落ちた。もう叫び声を上げることもできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る