第二十三章 キーボード
閑静な住宅街を、男と女が手をつないで歩いている。
時折、女は歩を遅め、男の手を引っ張り見つめる。
白い歯をこぼして歩きだすと、今度は上下に男の腕を振る。
ゴツゴツとした男の手の感触を、何度も確かめるようにして楽しんでいる。
二人は、青井が引っ越したばかりのマンションに向かっていた。
妹夫婦の家から二駅ばかり先の所に、男はマンションを買ったのだ。
立地条件もよく、今底値であるので比較的安く買えたのである。
来月には、妹の夫もロサンゼルスから帰ってくる。
青井もさすがに一人暮らしに戻ろうと思っていた。
ただ、今度は何となくマンションを買ってしまっていた。
ひとみの事を意識しなかったと言えば嘘になる。
3LDKのそのマンションは見晴らしもよく、その話をすると、ひとみは一も二もなく見たいと言った。
二人でこれから行くところであった。
タクシーで行こうという男の提案を退けて、女は歩くことを望んだ。
少しでも、二人きりでいたかったのだ。
数ヶ月のこととはいえ、あれ程悩んだのである。
これぐらいの回り道はむしろ、うれしかったのだ。
家々の庭に咲く草花がきれいであった。
どの家も丁寧に手入れしているらしく、色とりどりの花に白い蝶が数匹舞っていた。
ひとみは時折、頬を膨らませて男に言った。
「でも、会社の人達だって、
みんな美都子さんの事を奥さんだと思っているわよ」
青井はひとみの手の柔らかさを楽しみながら言った。
「面倒くさかったんや、説明すんのが・・・。
それに俺、今年で三十八やろ?
役員とかうるさいねん、早よー、身―かためーて。
そんで、俺に嫁さんがおるいう噂がたちゃあ静かで、
えーしな・・・・。
どーせ、こんな中年に惚れる物好きはおらんやろと・・・」
「悪かったわね、物好きで・・・」
青井が言い終わらない内に、さえぎるようにしてひとみが言った。
二人は顔を見合わせ吹き出すと、男は女の肩を抱いた。
女は男の腕にくるまりながら、幸せをかみしめている。
男は自分のものになったのだ
何の代償も払わずに。
神様・・・と、女は思った。
又、男と共にいられる。
これからもずっと一緒に。
もう一度神様に感謝すると、うれしそうに男の手を握って足を早めた。
「おいおい、行き過ぎや。
そこや、マンション・・・」
ひとみが顔を上げると、薄い赤紫のタイルのマンションがたっていた。
凸形の箱に円形の白いバルコニーが規則正しく並んでいる。
積木のようなおしゃれな外観をしている。
円形にせり出しているザラザラした石の壁づたいに歩いていくと、自動ドアが開いて男はもう一つ向こうのドアの前のオートロックのスイッチの暗証番号を押して解除した。
中はチェックの大理石が美しいパターンで敷きつめられている。
アーチ状に高級感のある木々が壁に埋め込まれていて、間接照明に照らされた花瓶にはきれいな花がいけられている。
「へえー、ホテルみたい・・・」
ひとみが目を輝かせて言った。
「そやろ、この頃不景気のせいかマンションも安うてな。
ここも結構有名な設計事務所がデザインしたんやで。
オリンピックのスタジアムも設計しとるところなんやと」
男が自慢気に言うと、二人はエレベーターに乗って十階の最上階に昇っていった。
エレベーターを降りると、遠くの方まで街が一望できた。
「わー、すごい見晴らし・・・。
あんなに遠くまで見える。
あっ、あれ、うちの会社のビルじゃない?」
二人は奥の方に進むと、男が鍵を出して玄関をあけた。
新築マンション特有の、何とも言えない木の香りがする。
部屋の中は買ったばかりなのか、リビングには真新しいソファーがあり奥の部屋にはベッドが置いてあった。
「ベランダがええんやで。
ここだけ他とはちょっと高いんやけど、
これが気に入って思い切ってこうたんや・・・」
そう言って男はひとみの手をとってベランダへ出ると、約二十畳程のルーフバルコニーになっていて視界がほぼ180度以上開けている。
向こうには川が流れていて小さな船が進んでいる。
ひとみはうっとりと眺めて声も出ない。
「どや、ビヤガーデンにもなるで。
夜は星がきれいやし・・・」
男は得意気にしゃべっている。
そして女の手をとり、強引に引き寄せると唇を重ねた。
このマンションは周辺で一番高い所にあるので、辺りからは見えなかった。
二人は、しばらくの間ベランダを離れなかった。
女がうっとりともたれかかるのを抱くようにして促すと、男は少し照れながら言った。
「もう一つ・・・・驚かす事があるんや」
女は幸せの中、頭をポーッとさせて男についていった。
まだ見ていない部屋を開けると机が一つあり、その上にワープロの機材が乗っていた。
「どや、ワープロしか機能ないけど
結構シンプルで使い易いんや・・・。
それとな、これが気に入ったんや・・・」
男がスイッチを押すと、画面が写し出され色々な機能のメニューがでてきた。
その内の練習メニューを選んで実行キーを押すと、画面に文字が浮かんできた。
【サルにでも出来るワープロ上達法】
ひとみはそのタイトルを見たとたん、吹き出してしまった。
「何これー。おかしー。
へえー・・・成程、これならブラインドタッチ
(キーボードを見ないで叩くこと)も覚えやすいわね」
ひとみが試しに練習問題をやってみている。
次々とクリアしていく。
もちろん評価は全てAランクである。
「へえー、やっぱ、すごいな。
俺なんか、ずっとEばっかしや・・・。
そやけど三カ月練習したからな。
見てみ・・・」
そう言うと今度は普通のワープロ機能に戻し、椅子に座り直すとキーボードを叩き出た。
画面に文字が写し出されていく。
ひとみ程ではないにしろ、ちゃんと両手でキーボードを見ないで叩いている。
【どや?
なかなかのもんやろ・・・?】
ひとみは驚きの表情で男を見るとクスッと笑って、男を抱くような形で後ろから手を出してキーボードを叩いた。
【へえー、やるじゃない?】
男は女の甘酸っぱい香りをくすぐったく感じながら、尚もキーボードを叩く。
【ワープロなんて、簡単な、もんや・・・と】
女は少し頬を膨らませると、男の背中に胸を押しつけて打った。
【よく言うわよ。
じゃあ、これから書類は御自分で打って下さいね】
女のふくらみが、背中に当たっている。
【すぐ、イジワルする・・・。
それよりお前、結構、胸大きいな?】
ひとみは顔を赤らめると、指で会話をするように叩いた。
【バカ、スケベ・・・タコ焼きー!】
【な、何やとー?。】
【何よー。ねえ、私の事・・・好き?】
女の息が少し荒くなり耳にくすぐったく、かかってくる。
【ああ・・・好きや】
男も息が荒くなってくる。
キーボードを打つ手も汗ばんでくる。
女のしなやかな指が、目の前で踊っている。
美しい指だと思った。
【愛している?】
女はホンノリ頬を染めて、入力している。
【ああ・・・愛しとる】
不思議なもので文字にすると、普段は中々言えない言葉でも照れずに使えるのであった。
【本当に・・・?】
【ああ・・・本当や。それと・・・な】
【何・・・?】
【あのなあー、イヤやったら・・・
ええんやけど・・・・】
【何・・ですか・・・?】
女の指が恥ずかしそうに動く。
何かを期待している。
男は決心するように、少し早めにキーボードを叩いた。
【結婚、してくれ】
女は白い指を男の指にからませ、軽くにぎったあとオズオズと入力した。
【キス・・・して】
男は女の手をとり引き寄せると、膝の上に抱きしめて唇を重ねた。
女は細い腕を男の大きな背中に回すと、身体を預けていった。
椅子がきしんだ音をたてている。
ワープロの画面は、女の言葉で終わっていた。
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