第二十一章 猫と洗濯もの
庭から入り込んだ風がレースのカーテンを一瞬、まい上がらせた。
うつ伏せに眠っていた頬をかすめると、ひとみはくすぐったそうに目を覚ました。
心地よい夢であった。
内容はよく覚えていないが、小さい頃よく行った河原に、父と母の三人で手をつないで歩いていた。
まだ自分は幼くて、二人の手をもってブランコのようにとんでいる。
キャッキャッとはしゃぎながら、まるで自分が鳥にでもなったように感じていた。
いつまでも、いつまでもやっていたような気がする。
何もかもが白かった。
レースの模様がひとみの身体に影を揺らす。
下着とTシャツだけでいる素肌に、からみつくように花の模様を描いている。
ひとみはもう少し、この幸せな余韻に浸っていたかった。
父の手の温もりを忘れたくなかった。
庭の桜の木は、まだ強い夏の日差しを細く砕いてくれる。
光の放射状の筋をまぶしく見つめながら、やがて父の顔は青井の顔に変わっていく。
そういえば・・・。
ひとみは自分の唇に、細い人差し指をそっとあててみた。
ゆっくりなぞってみると微かな弾力を伴い、くすぐったい快感を思い出させてくれる。
昨夜、青井と初めて口づけを交わしたのである。
タバコの匂いがむせ返るように、ひとみの鼻をくすぐった。
男の伸び始めた髭が、チクリとした。
「好きや・・・」
男の言葉が頭をかけ巡る。
「愛しています」
自分の言った言葉に顔を赤らめる。
初めての恋の充実感。
「好き」と言ってくれた。
男は言ってくれたのである。
ひとみは長い足を上に伸ばすと、乱暴に落とした。
バタンと大きな音をたててベッドに弾んだ。
何ともいえない開放感で思いきり伸びをした。
ここ数ヶ月、ずっと自分の胸の中に閉じ込めていた言葉を男が言ってくれた。
言ってくれたのである。
ひとみは枕を抱きしめ顔を埋めると、声にならないものをしぼり出してみた。
くすぐったい振動が伝わってくる。
心地よい恋の震えであった。
服を着替え下に降りていくと、母はもう出かけたのか、誰もいないリビングの窓のカーテンが開いていて、日差しをソファーにおとしている。
ひとみは窓を開けて、小さな縁側に腰をおろしてみた。
インディゴブルーのジーンズに、大きめのボーダーのシャツを着ている。
サンダルをはいた素足をぶらつかせて顔を上げると、両手を後ろについて身体を支えながら大きなため息をついた。
「好き」と言ってくれた。
何度も何度も、同じ言葉を心の中でつぶやいている。
幸せに身体中を震わせている。
閉じていた目を開けると、元気よく言った。
「よし、洗濯でもするかぁ・・・」
ひとみは、ダイニングに置いてあったサンドイッチを二つばかりつまんで牛乳で流し込むと、洗面所へ行き洗濯ものを入れた。
蓋をして機械がまわっている間、身仕度を整え、キッチンの片づけをする。
それが終わると、次の汚れものを機械に入れ、庭に出てきれいになった洗濯ものを干していく。
夏の日差しが白いシャツに照り返し、ひとみの目に飛び込んでくる。
せっけんの香りが、身体中をくるんでいく。
次々と翻っていく洗濯ものが、きれいに並んで風にはためいている。
ひととおり洗濯が終わって何もする事がなくなると、急に心に重くのしかかるように暗い気分が押し寄せてきた。
わざと考えないようにしていたのだが、わかっていた事であった。
幸せと引き換えに、残酷な運命のカードをひいてしまった事も。
これから、どうすればいいのであろうか。
男は「好き」と言ってくれた。
自分も愛を男に告げた。
だが、男には家族がいる。
美しい妻とかわいい息子が。
何故、男を好きになってしまったのであろうか。
あれ程、さっきまでうれしかった男の言葉が、今は重く心に響いてくる。
自分が幸せになる分、何倍もの不幸が男の家庭に降りかかるのだ。
ひとみの小さな肩では支えきれない程の罪悪感がおそってくる。
サンダルを素足でもてあそびながら、ひとみはもどかしげに悩んでいる。
ずっと自分の心の中に沈めておけばよかった。
カードを出すべきではなかったのだ。
だけど、神様。
もしも、いらっしゃるのなら・・・。
初めての恋だった。
こんなに自分を燃えあがらせ、身をこがすように相手を想った事などなかったのだ。
どうして、よりによって、あの男なのだ。
やはり、悪い事なのですか?
それならどうして私に・・・。
ひとみはフッと笑みと共にため息をついた。
言い訳である。
全て、自分に言い聞かせるだけの・・・。
でも、逆らえなかった。
自分でも、知らず知らずのうちに魅かれていったのだ。
これだけは嘘ではない。
あれだけ毛嫌いしていた男の態度も、暑苦しい仕草のべールに隠された優しさを読み取ると、吸い込まれるようにして魂を引っ張られていった。
数ヶ月の短い間に、磁石のように二人の心は引き寄せられ、愛し合うようになってしまった。
自分一人の恋ではないのだ。
二人の想いがあってこそ、生まれた恋なのであった。
十五才近く年上の妻子ある男に・・・何故だろう。
運命としかいいようがない程、強烈に導かれていったのだ。
今まで色々な男性と会ってきたのに。
山中に恋心らしいものを打ち明けられても感じられなかったものを、よりによって何故、青井でなければいけなかったのだろう。
わからない。
何もわからない。
ただ・・・好きなのだ。
それしかない。
ひとみは肩を震わせて涙を一粒こぼすと、あとは堰を切ったようにあふれさせていった。
身体の奥底から熱いものがこみあげてくる。
自分は、とんでもないあやまちを犯してしまったのであろうか。
今から自分は人の不幸を踏締め、幸せをつかんでいくのだろうか。
美都子の美しい顔が浮かぶ。
勇太の愛らしい笑顔が・・・。
二人には何の恨みもなかった。
むしろ、今まで会ったどんな人よりも愛おしく感じられる。
どうして、青井なのだ。
何故、あの男でなければいけないのだ。
自分が身をひけば・・・。
何度もひとみは考えた。
でも、男を忘れる人生など考えられなかった。
では、男に出会うまでの人生はどうなのだ。
わからない。
どうして、そんなに私をいじめるのか。
ひとみは、両腕で自分の身体を抱きかかえるようにしていた。
寒い、夏だというのに。
気温は高いのに寒くてしようがない。
抱きしめてほしい。
今すぐ男のもとに走って行き、何もかも忘れて抱いてほしかった。
勝手なものだ、さっきまで男の家族の事を思って泣いていたのに。
涙の乾いた頬で見上げると、さっきと変わらぬまぶしい日差しがひとみを照らす。
少し前までは幸せのシャワーのように感じていたのに、今は罪悪感が針のように突き刺さってくる。
頭の中をぐるぐると様々な思いがかけ巡る。
ふと、足元にくすぐったい感触が伝わった。
隣の猫がじゃれついている。
ひとみはクスッと笑うと、猫を抱き上げ膝の上においた。
指で顎をくすぐってやると、猫はごろごろと喉を鳴らしている。
気持ち良さそうに、ひとみの指に身をゆだねている。
(猫は、いいなあ・・・)
ひとみは思った。
自分の好きな時にやってきては、こうして誰彼となく抱かれる。
ひとしきり満足したのか、ひとみの膝の上から無造作に足を蹴るようにして下りると、さっさと庭の茂みから消えていってしまった。
まるで、ひとみの事などは忘れてしまったかのように。
ひとみは無意識に立ち上がると、自分の部屋に行き、服を着替えた。
薄いブルーのタイトスカートに、シンプルなべージュのプリントのある白いブラウスの裾を外に出して、腰の所で結ぶ。
少し、お腹の素肌がのぞいている。
若さが弾けるようなファッションであった。
この頃、背伸びするような大人っぽい服装をしていたが、やはり自分に合ったものが一番いい。
イネスのデザインは、ひとみの幼い美しさによく合うのだった。
軽く化粧をして、最後のルージュをひいたあとキッと鏡をにらむと、白いディオールのバッグを肩に下げて家を出た。
通りを抜けるとひとみはタクシーを拾い、乗り込むと住所を告げた。
青井の家の住所であった。
小さな身体に埋まっている心臓が、激しく動き出している。
熱い情熱にたぎらせた血液を身体中に送っている。
ひとみは背筋を伸ばし、一点を見据えて動かないでいる。
ただ、これから訪れる出来事に対する不安から目を潤ませ、か細い喉を鳴らして息を飲み込んだ。
今、タクシーは男の家へ向かっている。
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