第十八章 メモ用紙
営業部の掲示板に人だかりがしている。
外廻りから帰ってきた青井がその中に入っていくと、大きな声をあげた。
「な、何やこれ・・・。
誰がこんな、しょーもないの決めたんや。」
憤然と自分の席に座ると、ひとみがすました顔でお茶を運んできた。
苦そうにお茶を飲んでいると一枚のコピーと一冊の本を差し出した。
それを見て、怒ったように青井は言った。
「なんや、こんなけったくそ悪いもん・・・
あっ、お前やな、こんなこと考えたんはぁ?」
ひとみは悪戯を見つかった子供のように、肩をすくめて言った。
「えー、確かにこのチラシ作ったのは私ですけど、
アイデアは相沢常務ですよ」
常務の名前を聞いて、青井は複雑な表情をした。
9月に入って、青井の会社は決算期になっていた。
今年度の成績が発表され、青井の二課がメスレ社との企画で社長賞をうけ、田坂の一課も大ヒットこそないが、コンスタントな成績の優秀さがかわれ特別賞をもらっていた。
そこで相沢常務が二つの課の慰労会も兼ねて、カラオケ大会を開こうと言い出したのだ。
ただ、これには尾ひれがついていて、青井と田坂の事実上の部長レース決着をつける大会だという、まことしやかな噂が広がっていた。
仕事の上では甲乙つけがたく、カラオケ好きな常務のやりそうな事だと、みんな思っていたのだ。
三課と四課はおいてけぼりをくった形なのだが、こうも成績が離れてしまうとかえってさばさばして潔く負けを認め、素直に仕事ぶりを参考にしようとする姿勢になっていた。
「そやけど、何でよりによってカラオケなんや・・・。
ただの飲み会で、ええやないか?」
青井はブツブツ文句を言っている。
「常務が好きなんですよ、カラオケ・・・。
それにこれは両課長の部長決定戦だって、
もっぱらの噂ですよ・・・」
ひとみも、おもしろがって言っている。
「アホッ、そんなもんカラオケで決められてたまるか、
芸能人やあるまいし・・・。
田坂が部長になったらええやないか。
俺は、そんなめんどくさいのなりたないわ・・・」
青井がそう言うと、ひとみは口をとがらせて言った。
「そんな事言わずにがんばって下さいよ。
二課の名誉が、かかってるんですから・・・」
「まー、どうせ、俺は歌わんからええけど。
このコピーはなんや・・・?
エレガンス田坂VS青井タコ焼き店って。
田坂のはともかく、何で、俺がタコ焼き屋ねん?」
青井が顔を真っ赤にして怒っている。
周りの人達もくすくす笑っている。
「あらー、でもいいじゃないかって・・・・
常務には大うけでしたよ」
ひとみが白々しく言った。
「せやけど・・・俺は、歌わんからなー」
青井が断固とした態度で腕組みをしていると、一課の方で田坂と優子が何やら話し込んでいる。
そして、優子がこちらの方を見て笑うのを見ると、ひとみはカチンとした。
(な、何よ、優子ったら・・・
そりゃ田坂課長は営業部の中では唄はうまい方よ。
特に谷村新二を歌わすと、結構聞かせるのよね)
チラシには一課と二課のメンバーと持ち歌が記されていた。
青井には内緒で前から回覧して決めていたのだ。
どうせ青井は反対するに決まっていると、ひとみは読んでいたのだ。
一課は若者向けのポップス系でまとめている。
二課はひとみを中心に演歌調にして、常務に対するうけを狙っている。
ただし、青井の欄には「?」マークがついていた。
ひとみは一冊のカラオケ本を差し出すと、有無を言わせぬ口調で言った。
「とにかく、もう決まってしまった事ですから、
課長もご自分の唄う歌を決めておいて下さい。
これはカラオケ大会をする時の歌本です。
特別に借りてきたんです。
何だったら選んだ曲のCD・・・
私が買ってきますから、練習して下さいよ」
ひとみの気迫におされ気味の青井であったが、ここは一歩も退かなかった。
「何回言うても、イヤなものはイヤなんや。
俺は絶対、唄わんからな・・・」
そう言うと青井は本の上にチラシのコピーを重ねて、ひとみの前に押し出すように机の上をすべらせた。
それでも又ひとみの説得の言葉を覚悟していたのだが、何も返事がない。
するとコピー用紙の上に一雫、水滴が落ちた。
顔を上げて見ると、ひとみが顔を真っ赤にして涙を流していた。
そして、何も言わず踵を返すと部屋を出ていった。
青井はしばらく呆然と見送った後、涙のしみのついたコピー用紙をとってながめた。
ため息を一つついて、頭をかきむしると舌打ちをして、コピー用紙と本を鞄にしまった。
この世の中で、女の涙ほど強いものが他にあるだろうか。
どんな怪物のような男でも可愛い小悪魔に泣かれれば、もうそこでギブ・アップなのである。
田坂は遠くで二人の遣り取りを見ながら、優子と目をあわせ微笑んだ。
優子は心配そうに、ひとみが出ていったドアのあたりを見つめている。
※※※※※※※※※※※※※※※
トイレのブースの中で、ひとみは壁にもたれ泣きじゃくっていた。
自分は何をしているのだろうと思った。
確かに青井にとっては迷惑かもしれないが、せっかくここまでお膳立てをして本まで借りてきたというのに、あの言い方はないではないか。
どうして、あんな男を好きになってしまったのだろう。
田坂と違って、デリカシーのかけらも持ち合わせていない。
それに、優子の勝ち誇った微笑みも悔しかった。
優子が羨ましかった。
田坂は奥様と離婚していて、きれいな身体であるし何よりも優しい男である。
女の恋心もよく理解していて、二人は結ばれている。
自分などは、青井に好きだとさえ言えない状況なのである。
せめて今度のカラオケ大会の間だけでも、青井の為に何かしてあげたかった。
営業にいていくら音痴とはいえ「六甲おろし」と「メダカの学校」ばかりでは、仕事にもさしつかえるだろう。
部長レースの方はジョークとしても、今回の事をきっかけに青井の為に一つでも、レパートリーを増やしてあげたかった。
あわよくば、一緒にカラオケボックスに練習にでも行けたらと、淡い期待もあったのだ。
青井がドイツから帰ってから二週間あまり経ったが、メスレとの契約などで忙しい日々が続き、ろくに話も出来ない状況であった。
ましてゆっくり夕食を共にする事もなく、寂しい日々を送っていた。
だから、このカラオケ大会の話を常務から聞かされた時、やっと青井と何かしら接点をもてると思い、いじらしくも舞い上がっていたのである。
だが、青井の口調は厳しく、今回だけは絶対におれない気がした。
ひとみは、今はただ泣く事でしか自分の気持ちを整理出来なかった。
(あなたが・・・好きです・・・)
心の中の泉に投げかけた言葉は、大きな波紋となり消える事なく、ずっと揺れ続けている。
もう何百回、この空しい言葉を青井に向かって、心の中でつぶやいたことであろうか。
激しい恋の感情が出口を探すように、涙としてほとばしっている。
今はもう泣く事だけがひとみに残された、ただ一つの手段なのであった。
※※※※※※※※※※※※※※※
三十分程して、ようやく気持ちを落ち着かせて化粧を直し、ひとみは自分の席に戻った。
机の上にメモを見つけた。
青井の字であった。
『通産省に挨拶に行ってくる。
今日は戻らん。
本は借りておく。
当日までに曲は決めておく。
それから、つまらん事で泣くな。
アホ。
青井』
ひとみは何度もメモを読み返すと、丁寧にたたんで大事そうにポケットにしまった。
そしてホッとため息をつくと、パソコンに向かってキーボードを叩き始めた。
心なしか弾むように軽やかな音に聞こえてくる。
優子は遠くからながめていたが、少し微笑むと自分もパソコンに向かった。
カラオケ大会は今週の金曜日に開催される。
何はともあれ、青井も参加する事になった。
女の涙は・・・強いのであった。
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