第十一章 やる気と自信
電話のベルがひっきりなしに鳴っている。
大きな声が部屋中に響いている。
パソコンを操作する音とキーボードを叩く音が、あちらこちらから聞こえてくる。
営業部は二課を中心にがぜん活気づいていた。
もう7月も終わりになろうとする、夏真っ盛りの陽気である。
窓から見える高層ビルから反射された光が、まぶしく感じられる。
青井が転勤してきてから営業二課は明らかに変わったと、ひとみは思う。
パソコンの手を止めて、マグカップに入った紅茶をゆっくり飲むと課長席を見た。
今も山中とメスレとの企画書の最終打ち合わせを、真剣にやっている。
青井のやり方というか、指示の出し方は常に具体的で仮に失敗しても原因とか反省点が明確に出る。
だから、何をしても無駄にならなかった。
そうなると、どんな小さな物件の資料でもおろそかにせず真剣に取り組む。
又、常に課員のスケジュールに気を配っていて、少しでもオーバーワーク気味になっていると思うと、自分が出向いていってクライアントと調節をとる。
それでも急ぎの仕事の場合、二課全員がフォローする体制をとる。
青井自身が自分の仕事の手柄を人に分け与えるため、他の課員達も進んで手伝うのだった。
そのおかげで、残業も少なくなった。
そうすると体調も良くなり、朝の遅刻者も少なくなる。
すると又仕事の能率が上がる・・・と、まあ、そんなにトントン拍子にはいかないにしても、明らかに前の課長の時や四課の者達に比べると、みんなのやる気が違っていた。
あの高橋でさえも、あまり見栄をはらなくなり、素直に仕事を進めるようになった。
例のレトルトカレーもこの夏のヒット商品の一つとなり、そう多くはないが受注契約数も増えて役員からも誉められたのであった。
それは彼にとっても大きな自信となり、そうなると後輩達にも目が行き届き、色々アドバイスするようになったのである。
ただ青井としては、そんなに難しい事をしているつもりはなかった。
一つ一つを面倒がらずに、課員の意見や悩んでいる事を聞いたりするだけだ。
決して揚げ足をとらず、根気よく理解するまで意見を交わすのである。
簡単な事なのだが、日本の会社というものはよく「あ・うん」の呼吸だとかいって、上司の方が下におりていかないような気がする。
若い頃さんざん自分も苦労させられたのだから、そうならないようにアドバイスをしてやればいいものを・・・その少ない知識を温存して、若い者が慌てふためくのをホクソエンデ見ているような気がする。
大切なクライアントから、ちょっとしたクレームがきても自分が動こうとはしない。
小さな事だから君が行きなさい、と部下に言う。
だが、小さい事であるからこそ早い内に上司が謝りに行けば先方の印象もいいのに、騒ぎが大きくなってからでは遅いのだ。
大をとって小を捨てるというのか、みんながみんな、戦国大名にでもなった気でいる。
だけど世の中そんな大げさな仕事ばかりだったら、すぐにパンクしてしまう。
小さな事の積み重ねなのである。
ここを勘違いしている者が多い。
そういう意味で、青井は誰に対しても平等であった。
やる気のない者は、たとえ役員であろうとも遠慮しないで意見を言う。
もちろん言葉使いは丁寧にではあるが。
そういう上司にはよっぽどひねくれていない限りは、みんなついていくようである。
現に営業部は二課が中心となって盛り上がっている。
それにつられるように、他の課も次第にやる気を見せていた。
あの四課の者達でさえ、最近は横田課長に対してはっきり意見を言うようになってきている。
一課も田坂が自分の悩みを吹っ切ってからか、持ち前の鋭い企画力でグングン成績を上げている。
営業部では前評判通り、青井と田坂の次期部長レースが本番にさしかかったともっぱらの噂である。
ひとみは今でも相変わらず青井とは漫才に似た口喧嘩をしてはいるものの、彼の仕事をよく理解し、サポートしている。
青井の方でもひとみがいるおかげで苦手のモバイル関係も便利に使いこなし、大阪本社時代以上の能力を発揮していた。
何より一番あぶらののった時期で、精力的に仕事をこなしている。
時には、ひとみも同行させて女性の立場からの意見等を求め、クライアントからの好印象を得ていた。
ひとみも最近仕事がおもしろくてしようがなく、新聞や色々な経済情報誌等にも目を通し、少しでもみんなの役にたてればと思うのであった。
トイレから戻ってくる時、ロビーの喫煙コーナーのベンチで、青井が競馬新聞を握りしめてイヤホーンから競馬中継を聞いている。
手に持ったタバコの灰が、今にも落ちそうである。
ひとみは含むように微笑みながら近づくと、イヤホーンの反対側の耳元で言った。
「相沢常務がお呼びですよ、課長・・・」
「うぎゃーっ。」
と、大声をあげて青井は立ち上がると、ひとみの笑い顔を見つめて言った。
「び、びっくりするやないかー・・・」
ひとみは、くすくす笑ってベンチに座った。
青井はイヤホーンをはずして、又ベンチに座り直すと恐る恐るひとみに聞いた。
「じょ、常務・・・何やて・・・?」
ひとみは、お腹をかかえて笑いながら苦しそうに言った。
「冗談ですよ・・・。
あー、おかしい・・・さっきの顔・・・」
青井は顔を真っ赤にして、怒って言った。
「おどかすなやー、心臓止まるかと思たわい」
ひとみは呆れ顔で、新聞を取り上げ言った。
「何言ってるんですか・・・
勤務中ですよ、会社で競馬中継なんか聞いてて、
いいと思ってるんですか?」
「ちょっと、タバコのついでに聞いてただけやんか・・・
固いこと言うなよ」
ひとみは頬を膨らませて腕を組むと、ジロッと横目をむいて言った。
「それで・・・とったんですか?」
青井は、顔をほころばせて子供が自慢するように言った。
「おおよ・・・見事、馬連で3740円や。
5000円買ったから・・・えーと・・・」
「18万7000円ですよ」
「お前、天才やなあ・・・?」
「課長が計算に弱いだけですよ。
でも・・・いいか、ふふっ・・・
何を、おごってもらっちゃおうかなー、と・・・」
ひとみは足を揺らして、うっとりと上を見上げている。
伸ばし始めているのか、肩にかかる髪が艶やかなにすべって、いい香りを漂わせている。
夏物の制服のブラウスが少し透けて、均整のとれたプロポーションを妖しくうつしている。
青井はひとみの美しさに、少し照れたように大声で言った。
「何で俺が、お前に、おごらなあかんのやぁ?」
ひとみは振り向くと、笑顔を見せながら意地悪そうに言った。
「あらー、そんな事言っていいんですかぁ?
あっ、私、急に相沢常務に会いたくなっちゃったなー。
じゃあ、お茶でも持っていくかなーと・・・」
立ち上がりかけるひとみの腕をとって、あせりながら青井が言った。
「ちょ、ちょっと・・・。
もしもし?
あの・・・わかったわい。
もう、久しぶりにとった馬券やのにぃ・・・
勝手にせいっ・・・」
そして開き直ると、腕を組んで座り直した。
ひとみは勝ち誇ったような表情で、うれしそうに言った。
「じゃあ、今度はさすがに高級レストランとは言いませんけど、
優子と相談してお知らせしますわ」
そう言って立ち上がるひとみに、腕を組んだまま青井が言った。
「たまには、二人だけで・・・・・行こか?」
ひとみが意外そうに、青井を見た。
「そんな顔、すなや。
あのなあ・・・ここだけの話やけど、
堀江さんの事、ちょっとほっといたれ・・・。
まー、今までも何回か二人におごったけど、
俺もその度に田坂連れてきてたやろ・・・・?
何かこの前聞いたら、あいつら付き合うとるみたいなんや。
そんなん聞いたら、俺、意識してもうて旨いもんも、
よう食われへんもんな・・・」
今度はひとみの心臓がとまるかと思う程、ショックをうけた。
さすがに以前ほど田坂の事を思っているわけではなかったが、親友の優子からは何も聞いていなかった。
その事の方がショックであった。
呆然としているひとみを見て気の毒に思ったのか、青井が気を使うように言った。
「まー、お前には気の毒な話やけど・・・
ええやないか、お前には山中がおるし・・・。
あんまり中年とは、ええことないでぇ・・・」
ひとみは我に返ると、憤然として言った。
「や、山中さんとは何でもありませんっ・・・。
それに、そんな事を課長に言われる筋合いはありません」
そう言うと振り返り、肩をいからせて歩いていった。
目に、涙がたまっている。
だが廊下の途中で、青井にわからぬようにハンカチで涙をぬぐうと、又ツカツカと靴音を響かせて戻ってきた。
「でも、せっかくですから、おごってもらいます。
今日の6時に会社のビルの一階、
セザンヌで・・・いいですね?」
青井はひとみの気迫に圧倒されて、頷きながら言った。
「は、はい・・わかり・・・ました」
ひとみは「フンッ」と顔をそむけると、又肩をいからせて部屋に戻っていった。
青井はタバコを取り出し、火を点けると「フーッ」と白い煙をはいた。
「何やっちゅうねん・・・
そないに、怒らんでもええのに・・・」
窓を見ると、高層ビルの向こう側に大きな入道雲が出来ている。
それが徐々に大きくなって、青空を消していく。
もしかしたら、一雨降るかもしれないと思った。
もうすぐ8月。
日本の夏は真っ盛りであった。
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