第53話 知恵と勇気と(2)
それから彼は破れた一枚の弁尖、破れていない弁尖二枚もまとめて三枚丁寧に切り取った。弁尖の欠片が心臓内部で落ちないよう気を付けながら、リリカの吸引器に吸ってもらった。
「次は糸掛けよ。
豚の大動脈を用いた弁置換は簡単に言えば、豚の大動脈の移植手術だ。人間の大動脈という筒の中に豚の心臓の大動脈を入れて縫い付ける。筒の下部と上部をぐるりとそれぞれ一周ずつ縫い付ければ出来上がる。そうすれば今までの大動脈弁の代わりに新たな豚の大動脈弁が開閉して血液を正しく送ってくれるようになる。
しかし、そこに至るまでに心臓は縫うべき場所と縫ってはいけない場所がある。細かい部位の名称の理解と卓越した器用さを必要とされた。実際、パディの国でもこの手術ができる医者は一握りしかいなかった。
サーキスは縫合用の先の平べったいハサミを両手に持った。
「深めに運針を心掛けて。そうしないと糸を結ぶ時に心筋のカッティングが生じやすくなるわ」
そしてサーキスは左手の
「次は左、
また大動脈という筒の下側を狙って針を通す。それからまたリリカの指示が出る。
「
間違った所に針を通せば不整脈を引き起こす。一針、一針の運針がパディの生命に関わっている。サーキスは緊張に脇の下に汗が滴った。
さらに運針が続き、また一センチない小さな針を両手のハサミで掴み、丁寧に糸を掛けて行く。
やがて丸い大動脈の穴の下部にぐるりと三百六十度、六十本ほどの糸が掛かる。弁輪下の糸掛けに一時間ほどかかった。
ギルもここまでの工程を眉間にシワを寄せて眺めていた。動悸も著しい。切り開かれた死体から見える
そんなことを考えているギルにサーキスは瓶の開封を頼んだ。ギルが硬いコルクを引き抜くと、サーキスは中に指を突っ込んで細長い肉の塊を手に取った。豚の大動脈を加工した人工弁、ステントレス生体弁だ。
サーキスはパディの大動脈から伸びる糸と針を一本手に取ると豚の大動脈の下部に針を通した。内側から外側へ。続けてパディの心臓から伸びる数十本の糸を全てステントレス生体弁に針を通す。そして豚の弁をゆっくりと下ろして糸の
「次はステントレス生体弁のトリミングよ。豚の大動脈がはみ出した部分を切って。縫い
サーキスはパディの心臓からはみ出す、豚の大動脈の頭頂部をハサミで切った。
「次はステントレス生体弁の
サーキスは人工弁の頭頂部をパディの心臓に縫い合わせる。
「順針のまま無冠尖との
サーキスはリリカの声に合わせて縫合を行っていたが、ふとここで彼の手が止まった。視線を変えれば、死んだパディの顔が見えないよう置かれた白い布。手元には骨もばらけた肉塊。いつもの服の補修ではなく自分は心臓を縫っている。突然、自分が何をしているのか認識できなくなり、瞳に涙が溢れだした。
「待って、サーキス。涙を拭くわ」
リリカがハンカチを出してサーキスの涙を拭った。ギルはその姿に二人の強い絆が見えた。ギルは言葉で応援することしかできなかった。
「サーキス頑張れ!」
「頑張って!」
サーキスは縫合を再開。両手のハサミ、
「終わった!」
左右に広がった胸骨も両手で掴んで中央に寄せる。これで必要十分だ。リリカはパディの顔から布も取り上げた。
「ギル、
「よし、タビリティ・レッドヘイト・ニングガードゥ……」
サーキスとリリカは固唾を飲んでパディを見守った。
「……トリッドヘイト・アザーイーチ・ルートファント・レイルズゼント・
特別長い詠唱が終わるとパディの体が光る。首、骨、筋肉と体の傷があっという間に癒えて行く。呼吸音も聞こえ、顔色も良くなった。
サーキスとパディが同時に
「弁がちゃんと動いてる! 逆流もしてない! やった!」
「やったー!」
「よくやったぞサーキス!」
三人が瞳をうるませて喜ぶ。サーキスは血まみれとなった手を洗うために部屋から出て、少ししてまた戻って来た。手放しで喜ぶサーキスは余裕の表情で言った。
「そろそろ先生に起きてもらおうかな。手術、お疲れ様でした、パディ・ライスさん。手術は成功しましたよー」
ペチペチとパディの頬を叩くサーキスはここで異変に気付いた。パディの顔が異常に熱い。慌てて
「す、すごい熱だ! どうして⁉ 一体⁉」
リリカもパディの熱を確認する。
「こんなの聞いたことない…。術後に高熱が出る人なんて今までほとんどいなかったわ…。サーキス、ギーリウス。もう一度、心臓を視てくれないかしら…」
二人がまた呪文を唱えて心臓を視た。
「う、動きが早い⁉」
見直してみれば逆流はなくなったが、あれだけ遅かった鼓動が、今度は普通の人間のそれと比べて倍の早さで動いている。はっきり言って異常だ。
「お、俺は手術の手順を間違えてないよな⁉」
「間違ってない! 成功してるはずだわ! …いけない、ワーファリンだけでも先生に飲ませないと…」
リリカは瓶から薬を取ってパディの口に二錠押し込み、吸い飲み器で水を飲ませて喉に流し込んだ。その後もリリカはパディの熱を冷まそうと氷を用意する。サーキスはパディの呼吸を聞いたり、心臓音を確かめたりした。ただ事ではない事態に彼らはパディに服を着せることを忘れていた。今頃になって裸のパディに寝巻を着せる。
二人が右往左往する中、ギルは自分がもうこの場には必要なくなったとサーキス達に申し出た。
「すまないが、俺はこれで帰ろうかと思う。ガキどもに飯を食わせなくては…」
「あ、ギルごめん! 今日はありがとう!」
「ギーリウス、ありがとう…。今日はあなたに嫌なことをさせたわ…。ごめんなさい…。それにあの時は土下座をさせてごめんなさい…」
「いいんだ。あれは俺が勝手にやったことだ」
「お礼はまたするから…」
ギルが首を横に振った。
「フォード氏からたんまり謝礼はもらう約束だ。あー…。これは内緒だったか…。まあ、気にするな。ドクターが回復したら手紙でもくれ」
二人は交互に何度も何度も頭を下げた。ギルは着替えを済ませると、
その後もリリカ達は眠り続けるパディに何かできることはないか考えたが、何一つ思い付かなかった。時おりうめき声をあげるパディを心配そうに見つめる他なかった。
「今日はもういいわ、サーキス。あんた疲れたでしょう? 家でゆっくり休んで。今日はあたしが先生を看てるから」
「でも…」
「あんたとは明日交代よ。二人で先生を看病しましょ。それにあたしはペスト菌のことをまとめないといけないし。ゲイルさんに渡すためのね。書類を書きながら先生を看てるわ」
サーキスは仕方なく今日は家に戻ることにした。病院を出る前に、サーキスはパディを抱え上げて奥の部屋まで連れて行く。そしてパディを柔らかいベッドに眠らせた。
(気持ちで治せるならずっと先生に付いててやりたいぜ…)
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