第66話

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「くそっ……あんなの卑怯だぞ」体を引き摺って無様に逃げ帰ったゆづるは、吐き捨てるように言うと壁に手を付いた。いつもよりも重い身体に早々に息が切れていく。汗も通常の二倍以上が流れていき、肺が圧迫されたように息苦しい。ふと、カーブミラーに映る自身を見て、ゆづるは盛大に顔を顰める。「最悪だ……!」腹の底から滲み出ていく声は、まるで地響きのよう。ゆづるは再び足を踏み出すと、自身の家へと向かった。


「おかえりなさいませ。ゆづるさ……ま……」見覚えのある玄関を潜ると同時に、聞こえた声に振り返る。そこにはふくよかな体で頭を垂れる女性がいた。にこやかで表情豊かな彼女が、ゆづるを見て表情を止める。動揺し切った心は、声にまで現れていた。ゆづるが不快そうに睨みつける。「何だ。何か言いたい事でもあるのか」「い、いえっ! 何でもございません……っ」「フンっ」そっぽを向いて颯爽と家の中へと入っていくゆづる。その背中を女は訝しげに見つめた後、他の屋敷の人間に報告すべく走り出した。重そうな体では、早歩きしているのと大差はないのだが。




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屋敷に足を踏み入れたゆづるは、ひそひそと聞こえる声にイライラと苛立ちを募らせていた。「邪魔だ、どけ!」「きゃっ! も、申し訳ございませんっ!」前を横切った世話役の女性を押し退け、ドスドスと足音を立てて奥へと向かう。苛立ちで気持ちが急く中、足は思った通りのスピードで動かず更に苛立ちが込み上げてくる。「くそっ、どうして俺がこんなことに!」くそっ、くそっ、と何度も苛立ちを言葉にして吐き捨てる。しかし、どれだけ吐き捨てても心の中は全く軽くなることはなかった。「体が重いとこんなに動きづらいのかよっ。何をするにも前より二倍の時間がかかるな」感情のコントロールが出来ないまま、ゆづるは苦し気に言う。重すぎる体が本当に腹立たしい。自室へと足を踏み入れ、前に折る事も出来ない体をどうにかこうにか座布団の上に落とす。衝撃が尻から突き抜けるが、それよりもやっと足を休めることが出来るようになったことに、嬉しさすら感じる。


刹那、ぐぅ、と鳴るお腹に思考が持っていかれる。食べない方がいいとはわかっているものの、やはり頭に浮かんだ欲求を簡単に消すことは出来ず、ゆづるは唸り声を上げた。「ぅ、ぐぐぐ……っ、ああもう! やめだやめだ!」しかし、唸り声で腹は満たせない。空腹を訴える胃に手を当て、思考を振り払うように頭を振った。「先に飯だ、飯! オイ、まき!」「は、はいっ!」「食事を持ってこい!」「えっ。しょ、食事……ですか」「何か問題があるのか」「い、いえ。只今お持ちします」家に隔離していたまきを呼びつけ、要件を言い、直ぐに追い払った。大きなでっ腹を頑張って持ち上げ、廊下を小走りに走っていく。最近、何かと口うるさいまきを貶める為に何か策を練っていた気もするが、ゆづるにはそんな事どうでもよくなっていた。ただただ腹を満たしたいばかりの欲が、彼を支配していた。

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