第二十三話 仙婆と饕餮
「ひっく……うっうっ……」
嗚咽を零しながら、床に涙の染みを浮かべる。
後悔と絶望に打ちひしがれている雪蓉の横で、妙に気楽な声がした。
「なんじゃ、もう必要なさそうではないか。せっかく持ってきたのに」
宝玉を手にした仙が、眠っている饕餮を見てがっかりした様子で言った。
「仙婆……、劉赫が、劉赫が……」
顔を上げ、小さな子供のように泣きながら言う。雪蓉にとって、仙は育ての祖母のような存在だ。
「劉赫がどうした。ただ寝ているだけではないか」
「……え?」
涙でぐしょぐしょになった顔が固まる。慌てて劉赫の胸に耳を当ててみると、ドクッドクと確かに心臓が動く音がした。
「え……本当に?」
次に劉赫の顔を食い入るように見つめる。すると、唇から微かにスースーと寝息をたてている。
「本当に……寝てる……」
さっきまで悲しみに打ちひしがれ、泣いていていた自分が馬鹿らしく思えてきた。
「紛らわしいのよ、この阿呆!」
スコーンっと綺麗な音を立てて、劉赫の頭を叩く。
皇帝に向かって阿呆と言うのはどうかと思うし、皇帝うんぬん抜かしても大怪我して倒れている人間の頭を叩くのはいかがなものかと仙は思ったが、あえて口にはしなかった。
「それよりも、この女(おなご)の方が重症じゃぞ」
仙は、劉赫の近くで倒れている華延を指さして言った。
雪蓉は、劉赫が刺されたことで頭がいっぱいになり、華延にまで気が回らなかった。
見ると、倒れている華延の体から血が出ている。
「え⁉ どうして⁉」
刺したのは華延であって、華延には誰も危害を与えていない。うつ伏せになって倒れている華延を仰向けにさせると、手の平から大量に出血していた。
左手の真ん中が、何かで突き刺したように貫通している。怪我の様子からして、剣で突き刺した痕だった。
仙も屈みこんで左手を見つめる。
「これは、神経も切断されているな。もう二度と左手は動かせないだろう」
雪蓉は黙り込んだ。劉赫を殺そうとした華延に同情することは手放しではできず、複雑な思いが駆け巡ったからだ。
「それに、強力な仙術がかけられておる」
雪蓉は驚き、仙を見た。仙は華延の頭を起こし、首の後ろに素早い動きで手刀を与えた。すると、華延の口からポロリと赤い実が零れ落ちた。
華延も仙術に冒されていたと驚くと同時に、こんな簡単に相手に与える打撃が少なく赤い実を吐き出させることができるのかと目を見張った。
平低鍋で思いっきり殴られた衛兵の皆さん、すみませんでしたと心の中で謝る。おそらく起きた時、頭に大きなこぶができているだろう。
「じゃあ、華延様が劉赫を殺そうとしたのは、仙術によるもの……?」
雪蓉の問いに、仙は頷いた。
「殺すように仙術をかけられたが、自らの思いに相当反する呪いだったのだろう。
寸前で仙術の呪いを破り、劉赫の胸に短剣を突き刺す前に、己の左手を盾として劉赫の心臓を守ったのじゃろう。
いくら神龍を宿す者であっても、心臓を一突きされては生き延びることはできんからな」
「ということは、華延様は、劉赫を守ったの?」
息子を殺そうとした華延に、侮蔑の目を向けていた雪蓉は、自分を責める。
(そうよ、あんなに劉赫のことを心配していたじゃない。それなのに、疑ってしまうなんて……)
華延の優しい笑顔を思い出して、胸が痛む。同時に、黒幕が華延ではなかったことに、ほっとした。左手を犠牲にしながらも、劉赫を守ってくれて良かった。
仙術のせいとはいえ、息子をその手で殺したとなっては、華延の絶望はどれほどのものだったか。
「仙術の意に反し、さらに自らの体を強制的に動けなくしたとは、この女(おなご)、なかなかやるな。だが、仙術の実を吐き出していなかったら、あと数刻で命を失っていたぞ。まさに命懸けで守ったのじゃな」
「仙婆、ありがとう。もし仙婆がいなければ、華延様にかけられた仙術に気が付くことなく、華延様は亡くなって、死後もいわれなき罪を背負わせることになるところだった」
「別に。わしは、饕餮を引き取りに来ただけじゃ」
仙は、そっぽを向いて興味なさそうに言った。
(仙婆は、来る者も拒まないし、去る者も追わない。
女巫の姉様たちが嫁入りする時も、寂しそうな顔を一切見せなかった。
仙は、人の心を失うから? でも、本当に困った時は、いつも助けてくれる。
私は仙婆に、人の心がなくなったとは思えない……)
雪蓉は、複雑な思いで、仙を見つめた。仙が人間ではないことは、不思議とすんなり受け入れられる。
けれど、人の心を失った魔物のような存在には、思えないのだ。
それは、育ててもらった恩や情があるからかもしれないし、そんなことは関係ないかもしれない。
「華延様や衛兵に、仙術をかけた人物は誰なのかしら……」
雪蓉は呟くと、仙は何でもないことのように答えた。
「結界を破り、驩兜や饕餮を解き放ったのも、さらに、十四年前皇位継承の儀式の際、神龍に宝玉を与え、皇子を殺したのも、同じ人物だろうな。こんなことは普通の人間にはできぬことじゃ」
「人間じゃないってこと?」
「そうじゃ、こんなことができるのは仙しかおらん」
「仙……」
雪蓉は、寒気を覚えた。仙は人間じゃない、こんな恐ろしいこともできる存在なのだと現実を突きつけられた。
そして、饕餮を抑えるために仙術を使った自分は、もう人間ではないのかもしれない。そう思うと、心臓が凍えるような思いだった。
「こんなことをした仙は一体どこに?」
「そこまでは分からん。だが、こんなに一気に強力な仙の力を使ったのでは、もう……」
その後の言葉は、仙は話さなかった。しかし、それは仙がすでに死んでいることを指していることは、誰もが分かることだろう。
感傷に浸る間もなく、仙は眠っている饕餮を数匹の馬が引く台に乗せるよう指示し、饕餮を紐でぐるぐる巻きに縛った。
饕餮を運ぶ衛兵たちは恐ろしさで顔を真っ青にさせていたが、仙は素知らぬ顔で饕餮の真横に座る。
「そんなに怯えなくても大丈夫じゃ。もう饕餮に怒りはない。仮に起きたとしても、わしがすぐに眠らせる。さあ、行くぞ」
馭者(ぎょしゃ)に声を掛けると、饕餮と仙を乗せた台はゆっくりと動き出した。
「もう行ってしまうの?」
雪蓉が寂しそうな顔で仙に言った。
「ああ。迷惑を掛けたな」
久しぶりに会った雪蓉の近況を聞いたり労わりの言葉を掛けることなくあっさりと仙は行ってしまった。少し寂しくもあるが、仙らしいと雪蓉は思った。
「気を付けて!」
だんだん遠くなっていく雪蓉が手を振っている。仙はそれを表情一つ変えずに見ていた。
そして仙は眠っている饕餮に囁きかけた。
「さあ、帰ろう。〝峻櫂(しゅんかい)〟」
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