第14話 憎悪
「……せ……せん……せい……?」
「のどかさん、じっとしてて。もう少しで救急車が来るから、辛いけどそれまで頑張るんだ」
先生は心配そうな顔で私を見て、いつもの柔らかな口調でそう言った。だが、その態度とは裏腹に、爪が食い込んだ喉元から血が滲むくらい尋常ではない力で、クズ女の首を容赦なく絞めている。
「げほッ……は……はな……せ……ッ!」
宙に浮いた足を必死にばたつかせて懸命にもがくクズ女を、先生は醜悪な物を見るように眉をひそめて、冷ややかに睨みつける。苦しみで力が緩んだ指から包丁がこぼれ落ち、クズ女は締め付ける手を荒々しく引っ掻いて逃れようと暴れるが、先生は全く意に介さない。
「ね、ねえ、あなた大丈夫!? 応急処置するから傷口を見せてっ!」
遠巻きに静観していた雑踏の中から女の人が駆け寄ってきて、私に呼びかけた。包丁がクズ女の手元から離れたことで、危険がなくなったと判断したのだろう。
刺された箇所を見た女の人は一瞬顔をしかめたが、そういう知識があるのか慣れた様子で手当てを始めた。私は怖くて改めて傷を見ることはできないが、脈打つ度に血が流れ出ていくのを感じる。そのせいか、なんとなく頭がぼーっとしてきたような……。
「……昔はね……こんな奴を見ていると……自分のやっていることに意味はあるのだろうかって、よく悩んでいたんだ……」
手負いの獣のような凄まじい形相で抗い続けるクズ女を無視して、小さく息をついた先生は、誰に向けるでもなく物憂げに、悲しげに、静かに語り出した。
「俺に出来るのは、傷ついた人に寄り添うことだけで……傷つける奴には、どうすることもできない。そんな奴の腐った性根は誰にも変えられないし、自身で変わる気も全くない。こいつのようにね……」
「……ぐ…………げぁ……っ」
騒ぎを聞きつけて数を増す群集のどよめきも、戸惑いの眼差しも、先生には何一つ届かない。
一向に緩む気配のない絞め付けでクズ女の抵抗は徐々に鈍くなり、呻く気力すら失われていく。
「残念ながら、今の社会にそんなクズを粛清する制度はなく、更生する機会を与える名目で放置している……。おかしいだろう? 傷つけた奴は子供だからと無条件で救済されるのに、傷つけられた人は復讐する権利はおろか謝罪も賠償もなく、癒えないトラウマが残されるだけだなんて」
誰かを非難することも、何かを否定することも、不満を漏らすことも、苦言を呈すことも、ほとんどなかった先生。そんな優しい先生が、ずっと内に秘めていた禍々しい憎悪が溢れ出している。
それは、まだ十数年しか生きていない私が軽々しく意見していいものではないのかもしれない。先生の言葉に、痛いくらい同意できる私もいる。
でも……。
でも……それでも…………。
「俺は、いじめられている子供を……かつての自分のような子供を救いたかった……。だけど、カウンセラーになんかなったところで、無責任に慰めることしかできなくて……。こんな仕事、なんの意味もなかったんだ。むしろ、苦しみを長引かせるだけで……俺は一体、なんのために頑張ってきたんだろうな……ははは」
――違う! そんなことない!
そう叫びたかった。今すぐ立ち上がって、駆け出して、絶望している顔をビンタして、そう言ってやりたかった。でも、どうしても体はぴくりとも動かず、声は出ない。息を吸うごとに、吐くごとに、全身から力がすぅっと抜け出ていく。
もどかしい思いで見つめることしかできない私を、先生はちらりと一瞥してから寂しそうに呟いた。
「ごめん、のどかさん……俺はまだ甘かった。こいつだけなら、もう大丈夫だと思ってた。こんなことになるなら……もっと早く殺しておくべきだった」
え…………?
殺……して……?
何を……先生は、一体……何を言って…………。
「君には、何も見せたくなかった……何も知らないままでいて欲しかった……俺なんかと違って、とても優しいから……。それなのに、俺のせいで……本当に、ごめん」
両の手指が限界までめり込んだクズ女の細く筋張った首が、さらに固く強く圧縮される。
そして、ついに――――背筋が凍るような鈍い重低音を響かせると同時に、クズ女の首は無惨にひしゃげて、あり得ない方向にぐにゃりと折れ曲がった。手足は一瞬びくっと痙攣してからだらりと脱力して垂れ下がり、周囲の野次馬からは一斉に悲鳴が沸き起こる。
先生は、壊れた汚い人形を捨てるようにクズ女を無造作に地面へ放り投げた。
「…………最後に………………」
聞きたいことがたくさんあるのに、伝えたいことがいっぱいあるのに、そんな些細な願いは叶わず、私の意識は無情にも遠のいていく。
視界がぼやけ、どんどん暗くなっていき、ついには真っ暗になって……深い眠りに落ちる、その間際。
「最後に……のどかさん……君と出会えて、良かった。今まで、ありがとう。………………さよなら」
何も見えず、何も聞こえず、何も考えられなくなった私の心に直接ささやきかけるような、先生の穏やかな声。
私は今後、その声をずっと思い出すことになる。
そして……その声に応えられなかったことを、ずっとずっと後悔することになった――――。
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