第6話 釣り①
「はぁ……なんか疲れた……死にたい……」
いつも先生と会う樹海の一角から、徒歩で約十五分の山麓に位置する湖。胸のもやもやを優しく吹き消すような爽やかな風に、かすかに揺れた枝葉の擦れる心地よい音と小鳥のさえずりが織りなす協奏曲。
心霊スポットにもなっている自殺多発地帯の近くとはとても思えない癒しの地に、私と先生は釣竿を手に隣り合って座っていた。
どうしてこんな状況になっているかというと、約束していたわけでもないのに二人分の釣り具を持って樹海を徘徊していた――知らない人が見たら絶対に不審者だと思われる――先生に唐突に誘われたからだ。
「なんかさ……このままじゃ耐えられないって思ってるんだけど……色々考えてはいるんだけど……何をしても、上手くいかない気がして……。先生は、どうすればいいと思う?」
木漏れ日を受けて輝く湖面に垂らした糸を漫然と眺めながら、慣れた手つきで器用に餌を針に付けている先生にぽつりと問いかける。先日の熱狂的な興奮状態とのあまりに激しい落差は我ながら面倒な女だと自覚しているが、先生は全く気にする素振りもなく慎重に言葉を選んでくれた。
「……そうだね……確実な方法は……逃げること、かな。俺みたいに引きこもったり、あるいは……転校したり……。当然、のどかさんも考えはしただろうけど」
先生が釣竿を軽く振ると、風を切る音と共にあっという間に遠ざかった針はポチャンと水中へと沈み込み、小さな波紋がゆっくりと広がる。
「それはやだよ……。お父さんとお母さんに、迷惑かけちゃうから……」
……いや、違う。そうなんだけど、それだけじゃない。
本音を言うと、両親にいじめを知られるのが怖い。惨めな思いをしていると悲しませるのが嫌だ。弱い子だと失望されるのが嫌だ。この期に及んでちっぽけな体裁を保とうとするなんて、つくづく私は救い難い。
「のどかさんは優しいな……。それじゃあ君の周りに信頼できる人、味方になってくれる人はいる?」
「はは……そんな人……」
いるわけない。と続く言葉が、あまりに絶望的すぎて声に出せずに沈黙した。そもそも学校の中は全員が敵だし、それ以外で関わりがある人なんて家族である両親しかいない。兄弟姉妹もいないし、仲のいい親戚や隣人、知人もいない。
考えれば考える程、本当にどうしようもない、孤立無援の状況だ。
「……やっぱり、やり返すしかないのかな……。相手は二人だから、あんまり自信はないけど……ほら、何か武器でも用意して――」
「ダメだっ!」
突然、先生が有無を言わさぬ語気でぴしゃりと言い放つ。ぷかぷかと揺れるウキから目を離して隣を見ると、眉間に深い皺を刻んだ先生が別人のような冷たい目をしていた。
「いじめをする人間は……何をしたって変わらないんだ。なだめても、諭しても、痛めつけても。友達と遊んだり、害虫を踏み潰したりする感覚で、平気で人を傷つけられる……」
「……先生……?」
「脅されて、唆されて、あるいは衝動的に過ちを犯しただけなら、人は何度でも悔い改めることができる。でも、悪意を持って意図的に人を苦しめる人間は、死ぬまで反省も後悔も改心もしない」
今まで、先生はいつも穏やかで優しかった。私のつまらない話を最後までちゃんと聞いてくれて、決して否定することなく、紳士的で誠実だった。だからこそ、私はこんな怪しい場所で知り合ったにもかかわらず、気づけば毎日愚痴を言いに行くようになったのだろう。
だけど、今の先生は……。
「そんな救いようのないクズでも、学校にとっては同じ生徒……。君が大勢から理不尽に虐げられ、自分を守るために必死に声を上げたとしても……誰も君の気持ちに応えてはくれない。たった一人の被害者よりも、複数の加害者を尊重するんだ、学校は……。たとえ、どんなに不条理であっても……」
釣竿を固く握り締めた先生が憎々しげに吐き捨てる。その言葉の一つ一つが、ようやく意を決して踏み出そうとした私の一歩を乱暴に押し留める。
でも……たしかに、そうだ。完璧な理論武装をしていじめの非生産性を講説することも、金属バットで頭蓋骨を爽快に叩き割ることも、私は何回も何回も妄想した。しかし、あいつらが泣きながら誠心誠意に謝る姿だけは、あり得なさすぎてどうしても想像できなかった。
腐った人間は変わらない。それは嫌というくらいに分かっている……。
「っ……」
急に重く肩にのしかかる不快な絶望に潰されて、がっくりとうなだれる。そんな私の様子に気づいた先生が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「あっ……その……ごめん。昔のこと、思い出して……」
「ううん……大丈夫……」
先生も、本当にいじめられてたんだ……。
以前、昔の話をしてくれた時はここまで感情をあらわにすることはなかった。むしろ、いつもの温和な語り口だから作り話かと少しだけ疑ったくらいだ。
でも、実際は嘘でもなければ、いじめを完全に乗り越えたわけでもなかった。
やっぱり先生も辛かったんだ……と自己中心的な親近感がわくと同時に、散々慰めてくれたというのに気の利いた言葉の一つもお返しできない自分に幻滅する。私は先生のようなカウンセラーではないが、同じいじめ被害者として何か……何か言わなければ……。
と、必死に思考を巡らせていると――
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