第105話

 瓢箪から駒。口に出した話が現実のものとなることがある。古代社会ではあるまいし、言葉に魔力があると言いたいわけではない。言葉にすると意識に登りやすくなるので、いざそれが生じたときに気付きやすいということだろう。決意表明によってその実現への努力に磨きがかかるということもある。


 だが、今回ばかりは疑り深い私も言霊の力を信じたくもなる。


 私は先日、最近ちっとも旅行に行っていないことに気付いた。そして、我が家の身の丈四尺の飼いネコであるメニョに温泉旅行への同伴を打診し、断られた。そのこと自体はガッカリではあるが、結果として美味しい刺身を自宅でたらふく食べることとなり、それはそれで結果オーライだった。


 そして、本日。私は何故か宿泊を伴う出張を命じられたのである。まあ、仕事上のことなので何故もへちまもないのだが。無論、とんでもない失態の謝罪に行くとか、ある筋の事務所にかちこむとか、そういった恐ろしい出張ではない。極めて事務的なものであり、空いた時間でぷらぷらもできそう。普段なら諸手を上げてウキウキ拝命するところである。


「沢田さん、出張ですよね。良いなあ。あ、お土産にこれ買ってきてくれませんか。駅で数量限定販売してるらしいんです。」


ほら、隣の同僚にもかように羨まれる。スマホで示されたお土産を買うつもりはないが。


 しかし、である。メニョとふたり暮らしを始めて以来、初めての外泊だ。折角なのでメニョと一緒に出掛けたいが、先日の反応からすると同行してくれないだろう。となると、メニョを一匹で家に置いておくか、ペットホテルを利用するかということになる。普通のネコならペットホテルであろうが、どうしたものか。


 私は思案しながら帰宅し、出迎えたメニョの毛皮に顔を突っ込みつつ早速相談した。


「メニョ、一緒に出張に行くぞ!」


他人はこれを相談と呼ばないかもしれない。が、ついうっかり願望が駄々洩れた。


「今度、一泊二日の出張に行くことになってさ。メニョを一人で置いていけないし、ランデブーだ。」

「んうー」

「帰りにお魚の美味しいところに寄って、うまいもの食べるぜよ。」


高知に行くわけではないが、エセ竜馬弁も使ってみる。が、案の定、メニョは気乗りしない様子である。太いしっぽが垂れたままぷいんぷいんと揺れている。


「行きたくなさそうだなあ。それなら、ペットホテルだな。動物病院で預かってくれるらしいぞ。」


 ワクチン接種に行くたびに、ずんぐりむっくりの獣医が案内してくれるから間違いない。それにしても、あの獣医は飽かずペットホテルを勧めてくるが、メニョを預かりたくてしょうがないのだろうか。まあ、メニョの魅力は上限知らずだから、獣医と言えども誘惑されてしまうのはやむを得ないことではある。


 それはともかく、動物病院と聞くとメニョのしっぽの標高はさらに下がった。


「んぬう」

「やっぱり、それは嫌なんだろ。でも、家にネコだけ置いていくというのもなあ。メニョ、いつも自分のご飯自分で出さないじゃん。」


 何とかして旅行に誘導しようとする私であるが、メニョはそれを無視してぽてぽてと台所に行ってしまった。待て待て、話は終わっていない。私は慌てて後を追いかける。


「ういうい」


 メニョは何事かをもごもご呟きながら、自分のどんぶりとカリカリを戸棚から取り出した。まさか、自分でメニョごはんを準備するつもりか。私の食事を準備できるくらいだから、カリカリを出すくらいそれこそ朝飯前であろうが。それでも、今まではメニョのご飯は私が出すことになっていたのに。むむむ。


「まあ、待ちなさい。メニョにネコ缶は開けられないだろう。」


私は抵抗を試みた。我が家のネコ缶は量が多くて低廉なお買い得品である。こうした格安ネコ缶は缶切りでキコキコ開けねばならない。そして、物を把持するのに適していないネコの手では、缶切りは使えないはずだ。ところが。


「にゃ」


メニョが追加で戸棚から取り出したのは、レトルトパウチに入ったネコ飯である。缶詰より量が少なく、体の大きなメニョには足りなさそうなのであまり買わないのだが、美味しいらしくメニョの食いつきは良いので、たまにご馳走として供しているものだ。


「おいおい、それをどうするつもりだ。」

「にゅー」


 メニョは引き出しからカッターを取り出すと、両前足で挟み、ぐーっとレトルト袋の口に切り込みを入れた。指が無くてハサミを使えないメニョが何かを切る時は、大抵この手段である。充填豆腐のパックも、もやしの袋も、こうして開封する。あ、もやし袋は爪を引っ掛けて裂くか。


 それはともかく、こうして無事レトルトを開封し終えたメニョは、中身をどんぶりに空けた。レトルトネコ飯は大抵ゼリーで固めてあって、逆さにすればつるりと出てくるのだ。そして、そこにいつものカリカリを袋からカップですくってどんぶりに流し入れれば、メニョ定食のいっちょ上がり。


「にゃーん」


 メニョがじゃーんと言った気がするが、それどころではないぞ。何たることか。私の存在意義が今ここで消滅したではないか。洗濯も掃除もお買い物もゴミ出しもできるメニョが唯一自分でやらなかったのがネコご飯の準備だったのに。その役割を失っては、私はただの冷や飯食いに格下げである。


 私が悄然と立ち尽くすのを尻目に、メニョはどんぶりをメニョ用の食事台に置き、ちゃむちゃむと食べ始めた。久しぶりのレトルトなので、旨いのだろう。いい食いっぷりである。私の傷心などお構いなし。


 私はしょんぼりと寝室に行き、部屋着に着替え、そのままごろりと寝床に横たわった。暑いので冷房のスイッチを入れる。もう、部屋から出るのもおっくうだ。何だか疲れちゃった。明日は週末だし、このまま寝てしまうか。寝るのは得意だ。目を閉じればほら、すぐにうとうとと…


「にゃにゃ」


 メニョの声がした。ついでに、頭に何か硬いものが当たっている。


「痛い痛い。何だ?」


私は重い瞼を渾身の力でこじ開け、正体を確認した。メニョのどんぶりがごつごつと当たっている。うん?もしかして、さっきメニョがご飯を食べていたのは週末の疲労が見せた幻覚で、夕飯がまだだったかな。とも思ったが、よく見るとレトルトの欠片と思しきものが付着して汚れている。


「お代わりをくれってことか?」

「ぬー」

「違うのか。ってことは、皿を洗えとでも?」

「にゃ」


 そうきたか。確かに、メニョは水仕事を嫌がる。絶対に何があっても断固拒否する、とまではいかないが、大層不快らしい。メニョもたまに皿を洗うが、大急ぎで済ませるからか、洗浄具合がイマイチだったりする。基本的には洗いものや水拭きは私の仕事だ。


 そうか。そうじゃないか。私にはまだやるべきことがある。


 私はそこはかとない元気が出てくるのを感じた。よし、まずは夕飯を食べよう。さっき台所で湯気を上げている何かを見た。きっといろんなものが丸茹でになっているはず。私は汚れたどんぶりをしっかりと抱えて寝室を出た。こいつをきれいに仕上げるのは、私にしかできない仕事だぜよ。この食器を洗濯し候。


「ん、待てよ。ということは、私がいないとメニョはやっぱりご飯食べられないんじゃないの?」

「ふあ」

「一緒に出張行こうよ。」

「ぬー」


 ダメか。説得にはまだ時間がかかるようだ。まあ、いい。この週末、冷房の利いた寝室でグダグダごろごろしながら話すことにしよう。

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