45:騎士団大ピンチ! え……、違うの?
涙を拭って立ち上がったわたしの足元では、ミハイル様がわたしのドレスに付いた草葉や砂を手で叩き払っていた(悪魔の言っていたとおり、鏡の中の泥沼に実体はなかったようで、それ以外は至って綺麗なものだった)。
「す、すみません。ミハイル様。ミハイル様にそのようなことをしていただいては」
「でー? どうします? この鏡」
ノイン君は平常運転で、つまらなさそうに両腕を首の後ろに回している。
そうやって広げられたノイン君の二の腕の裏あたりに、赤黒い血痕が染みているのが目に留まる。
「ノイン様。その血は? 怪我をなされたのですか?」
「ん、ああ……。あれですよ」
なんと言うこともない話。
そんな気軽さでノイン君が指を差す。
目を凝らすと、崩れた寺院の石壁の脇に、背をもたれかけさせて座り込む一人の男の姿があった。
首をダラリと下げ、胸には短剣が突き刺さったまま。
一目で絶命しているのが見て取れた。
「危なかったんですよ? あいつ、あそこから石弓でアシュリー様のことを狙ってたんです」
え⁉ わたしを?
いつのこと?
全然気が付かなかった。
確かに言われて見返せば、男の死体の側には小振りの仕掛け弓が転がっている。
「飛び掛かったんですけど間に合わなくて。揉み合っているうちに、うっかり刺しちゃいました。ミハイル様は見てたから分かってもらえると思うけど、エッガースたちには、どやされるだろーなー」
間者の男を殺してしまったせいで情報を訊き出せなくなったから怒られる、ということを愚痴っているのだろうけど、わたしにはそれより前の言葉が気に掛かった。
「間に合わなかった、とは?」
それならわたしが無事でいる理由は?
その疑問に答えたのはミハイル様だった。
「あいつが矢を放った瞬間、君が突然姿を消したのだ。しっかり目測できたわけではないが、あの悪魔によって、鏡に吸い込まれていなかったら、君はあの矢で射殺されていた、かもしれない……」
「そんな……!」
じゃあ、わたしはまた、あの悪魔のお陰で助けられてたってこと?
嫌がらせで(あるいは面白半分で)、わたしに掛けた呪いが、逆にわたしを助けることになったこともそうだったけど、自分勝手な理由でわたしを心中に巻き込んだと思ったら、そのせいでまたわたしの命を救う結果になるなんて……、なんて皮肉なのかしら。
ちょっと間抜けなあの悪魔に、また一つ感謝する理由が増えてしまった。
わたしは自分でも意外なほど晴れやかな気持ちで空を仰いだ。
まだどのように決着するかも分からないのに、これであとは王都に帰ってヴィタリスやメフィメレス家と対決するだけね、なんて呆れるほど能天気に。
あっ、と思い出して足元を見る。
そうだ。この鏡、どうしよう?
どうしたらいいと思いますか、と意見をお伺いしようとしてミハイル様の方を見る。
だけど、そこに立つミハイル様の後ろ姿は、先ほどまでとは一転し、張り詰めた空気を
ノイン君もそうだ。
わたしのことをかばうように背中を向けて剣を構えている。
わたしは突然空気が変わった理由を探して、お二人の背中の間から前方を覗いた。
そこにはいつの間にか大勢の武装した男たちが集まっていた。
そうして見ている間にも、一人、また一人と、石壁の陰から姿を現し、たちまちわたしたちを扇状に取り囲む。
わたしたちの背後は、言うまでもなく底の知れない泥沼だ。
逃げ場はない。
「ちっ、やっぱりしくじってやがったか」
中の一人が、壁に背を預けて絶命している男を
「アダナス兵か?」
ミハイル様の鋭い声が飛ぶ。
「ご名答。その女には死んでもらう必要がある。我が国の秘密を漏らしてもらっては困るので、その口封じにな」
「そういう筋書き、ということだろう?」
ミハイル様も腰に差していたご自分の剣を抜いて構える。
「諦めて女を差し出せ。こちらは四十人はいるんだぞ?」
「だそうだ。いけるか、ノイン?」
「楽勝っす」
ノイン君はそう言うけど、相手はあの墓地や廃屋で出会ったゴロツキたちとは違う。
オリスルトの宿敵であるアダナス兵。
戦闘のプロだ。
いくらミハイル様とノイン君でも、この人数差では……。
「なんだ。たったの四十人か。我ら王国騎士団も舐められたものだな」
よく通る軽快な声が離れた場所から聞こえてきた。
この声は、エッガースさん!
「抜け道を通って目立たずに寄越せる兵はたかが知れると思ったが、それでも予想より少ないな。ノイン、一人頭何人か計算してみろ」
生真面目そうなシュルツさんの声がそれに続く。
さらに木立の向こうから、他の騎士団の面々も駆け付けてくるのが見えた。
「えー? 俺たちが八人だから、えーっとぉ」
一人あたり五人よ、ノイン君。
「お前たち、せっかく掛かった獲物だ。一人も逃がすなよ!」
まるで数の劣勢を感じさせないミハイル様の強気な号令を合図に、戦いの幕は切って落とされた。
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