02:鏡の中の悪魔

 もしかしてもしなくても、それはわたし以外にあり得なかった。

 着ている服は間違いなく、今日わたしが着てきた淡いピンク色の──艶やかな絹の光沢がお気に入りの──わたしのドレスである。それに、今まで自分の姿をこんなふうに眺めたことはなかったけれど、ベッドの上で気持ち良さそうに眠っているその顔は、普段鏡の中で見る自分の顔……そのものだった。

 驚きながらも、わたしはとっさに、色々な角度から自分の顔を覗いて観察していた。


 は、はぁー……。わたしって、こんなふうに見えてたんだー。

 鏡映しじゃない、全然別の角度から見る自分の姿はとても新鮮に見えた。驕って言うわけじゃないけど、客観的に見て、我ながらまんざらでもないなと鼻息を荒くする。

 小さなアゴに柔らかそうな頬。

 きめ細やかで白く瑞々みずみずしい肌。

 サラサラで長いブロンドも、思わず手に取って撫でたくなるほど美しい。


「はぁあ……」


 長いまつ毛で縁取りされた瞼の下には、どれほど美しい瞳が隠れているのか……。

 指でつまんで、それを確かめようとしている自分に気が付いて、ハッとその手を引っ込める。


 いやいや、違う違う。

 人形じゃないんだから。

 これはなのよ?


 そう自分に言い聞かせ、それが随分とおかしなことであることを思い出して我に返った。


 ここで寝てるのがわたしなら、は……、誰なのよ?


 そして、ようやくわたしは、今の自分が操る身体とまともに向き合うことになる。

 見覚えのある群青色の服の生地。

 パリッと糊が効いた真っ白い袖口。

 長くしなやかな手足に指先。

 そして、先ほどまでこの部屋にいたはずの、姿が見えないことを考え合わせると、導き出される結論は一つしかなかった。


 鏡、鏡、鏡っ!


 部屋の中を改めて見回して見つけた鏡台の前に歩いていく。

 歩いていく途中から、わたしは鏡の中に、よく見知った立ち姿を見つけていた。


「リカルド様だ……。わたし、リカルド様になってる……」


 放心したようにわたしが発したその声は、そうと分かってから聴けば、これは確かに、紛れもなくリカルド様のお声だった。


「どうして……?」


 そのとき、鏡面台に手を突き、打ちひしがれるわたしの視界に黒い影がよぎる。


 えっと驚き、顔を上げた。

 がいたのは鏡の中に映るリカルド様わたしの顔のすぐ隣。

 そこに小さな黒い小鬼が浮いているのが見えた。


「おっと! 見つかっちまったなァ」


 おどけた声が耳元でしたのに驚いて反射的に首を回す。

 だけどそこに小鬼の姿はなかった。


 あれ⁉ なんで?

 何度も首を横に振り、視線を鏡の中へ外へと行ったり来たりさせる。

 けどやっぱり、何度やっても変わらなかった。鏡の中では確かに自分のすぐ横に小鬼がいるのに、鏡を通さずに見た実際の部屋の中には、それがどこにも見当たらない。

 何、このへんてこ?

 あ、ああ頭、おかしくなりそう……。


「無駄無駄ァ。肉眼じゃあ俺様は見えねェよ?」

「だ、誰? あ、悪魔?」


 鏡の中に目を凝らしてよく見たそれは、絵本に出てくる悪魔の姿によく似ていた。

 細長い手足に真っ黒な肌。

 おでこの辺りには角のような突起が二本生えている。

 その顔も、目がつり上がっていて狂暴そうだけど、いかんせんサイズ感が手の平に乗りそうな程の大きさしかないので、怖い、という感覚はあまりなかった。

 でもそれは、突然おかしなことが沢山起こり過ぎて、わたしの感覚が麻痺しているだけかもしれない。


「悪魔かァ……。まあ、そんなようなもんかァ。お前にとっては、なァ?」


 わたしは鏡を見ながら、悪魔がいるはずの位置に合わせ、ワキワキと手を動かしてみた。

 けど、鏡の中のリカルド様わたしも、手がすり抜けてしまって全然そいつをつかむことができない。

 全然。なんの感触もない。どうなってるの、これ?


「おい、よせ。触るな」

「な、何が目的なの? 悪魔なら、もう間に合ってるわ!」


 本当にもう沢山。

 みんなして、わたしをどれだけ苦しめれば気が済むって言うのよ。


「フフェフェッ。さっき、どうしてって聞いてたよなァ? どうして入れ替わってるのかって。教えてやるよ。せっかく呪ってやったのに、本人に自覚がないんじゃ、その甲斐がないからなァ?」

「呪い?」


「おうよ。呪いだ。お前の今の境遇は、お前が俺様にした仕打ちのせいだと自覚してェ、存分に後悔しろォ」

「全然分からない。わたしが何をしたって言うの?」


「俺様が静かに眠っていた鏡をいて綺麗にしやがっただろォ?」

「鏡……?」


 思い当たるものは……、ある!

 ありまくりだ!


 わたしがリカルド様から婚約を破棄される口実とされたお忍びの小旅行。その目的地の寺院跡で見つけた古臭い鏡をこすって磨いたのだった。

 多分、あれのことを言ってるんだ。

 あの寺院跡には、他に祈りを捧げられそうな物も残っていなさそうだったし、これでいいかと思って……。

 せっかくだし、泥で完全にふさがってた鏡面を、少し布で磨いてやっただけなのに、あれがいけなかったって言うの?

 そのあと祈りを捧げたとき、微かに感じた悪寒みたいなやつ。

 あれが呪いだったの?


「ケッケッケッ。愛する者と決して結ばれないように、俺様が一丁気合入れて掛けてやった呪いだ。せいぜい思い知れィ!」


 悪魔はそれだけ言うと、パッと鏡の中から消えてしまった。

 人の恋路の邪魔をするにしても、なんて迂遠うえんな方法なのよ⁉

 そんなツッコミを入れる暇もない。

 わたしは慌てて周囲をキョロキョロと見渡した。


「ちょっと! どこ⁉」


 そうか鏡にしか映らないんだったと思い出し、わたしは鏡に額を押し当て中を覗き込む。

 そうして鏡を通し、色々な角度から部屋のあちこちを探ってみるけど、あの小鬼のような悪魔の姿はもうどこにも見つけられなかった。


「ちょっとー! ちょっと待ってよ。誤解よ。そんなつもりなかったのにぃ。汚い方が好きな人がいるなんて誰も思わないじゃない!」


 今度は鏡から離れ、部屋の中を見渡しながら大声で呼び掛ける。

 それでもあの悪魔からの返事はなかった。

 その代わり、女言葉でしゃべるリカルド様というのが、生理的に受け付けなくて、肌に寒イボが立つ。


「嘘でしょ……? こんなの……」


 ペタリと内股でその場に座り込むわたし。

 こ、こんなみっともない姿、リカルド様にさせちゃいけないわ。

 そうは思うんだけど、力の抜けた足腰では、すぐに身体を持ち上げられなかった。


 婚約破棄された上に、服毒自殺を偽装される企みの渦中にあって、しかも呪われてしまうだなんて……。


 まるで、一生分の不幸が一度にやってきたようだ。

 わたしはリカルド様の姿のまま両手で顔を覆い、シメジメと泣き崩れる。

 そして、ほんの少し前に、衆人環視の中、自分の身に降りかかった不幸な出来事を思い出すのだった。

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