第七五話 痛みー別離ー(二)
前脚の爪についた血や肉片を綺麗に舐め取り、紫色の体毛を毛繕いをしながら、グーガはくつろいでいた。目の前には、とても強い輝きを放っている者とグーガを傷つけたヒト族の子供が横たわっている。子供の方は、攻撃をしてきた時には、グーガを上回る理力を感じたが、今は僅かしか感じない。
これだからヒト族を舐めてかかれない。それで随分と配下を失ったものだ。追い詰められると思いもしない力を発揮してくる。おかげで、深い傷を負ってしまった。
彼女らには、《
ヒト族の戦士を喰い散らかしたおかげで、コアの成長には事足りている。経験上、これ以上喰らったとしても能力の向上に繋がらない。馴染むまで少し時間を空けねば……。
しかし、このご馳走は勿体無い。この二人を食せば、今喰らった戦士たちの数倍の向上を見込めるだろう。
持ち帰るべきか……。
グーガであれば、ヒト族の雌と子供を運ぶくらいは訳が無い。だが、子供につけられた傷が思ったより深い。傷の治癒に理力を集中しているが、回復にはしばらくかかりそうだ。
グーガは思案していると、別の匂いというか敵意を感知した。殺気といってもよいだろう。ヒト族の戦士が発する嫌な匂いだ。それも多数、こちらに向かって来るではないか。
『まあよかろう。もっと熟してから喰うのも一興よ』
そのままにしておくにはもったいないが、この二人は未だ成長途中のようだ。であれば、もっと成長したときに食せばよいだろう。
グーガは立ち上がり、傷を負った左前足を動かしてみるが、鋭い痛みが走る。瞬間、この傷をつけた子供を踏み潰したい衝動に駆られるが、思い留まった。
『クククッ、楽しみはとっておくべきだ。匂いは覚えたぞ。もっと研鑽を励めよ』
深く寝入っている二人に向けて、力を込めた言葉を発すると、ゆったりと森の奥へ消えていった。
◆
前方で甲高い笛の音が響いた。
クラウディウスは、大隊の前進を止めるた。前方から連絡騎兵が駆けて来るのが見えたからだ。クラウディウスの元に辿り着いた連絡士は、渋面を浮かべ索敵の状況報告をする。それを聴いたクラウディウスも、同じ様に渋い表情となった。
騎兵隊は、血の海の中に横たわっていた二人を発見したのだ。辺りには、無惨に引き裂かれた遺体が散乱し、目も当てられない。状況を観察すると、どうやら食べるではなく、殺す事が目的であったようだ。足跡を確認すると単一で、それもかなり巨大な体躯を誇っていると思われた。
後日判明した事だが、生き残っていた戦士たちからも事情を聴いた。どうやら狼一匹であり、左眼に切傷があったとの事だった。妖精族の資料に書かれた特徴から、大紫狼の王であるグーガと推定される。
英雄カインを殺した伝説の存在が現れた事で、カメリア司令部は騒然となった。このところ順調に領域を拡大してきたヒト族にとって、百年ぶりの大事だ。
すぐさまクラウディウスは、ノックスの長老会議へ『危機あり、百年前の悪夢、再び』との第一報を送った。指導階級の者は忘れていない、それだけで何事だか伝わるのだ。その後、
そうこうしているうちに数日が経ち、アウグスタが目を覚ましたとガルパルから連絡を受けた。命に別状はないと聴いていたが、やはり目覚めるまでは心配だった。爪による切傷だったが、
我々ヒト族にとって、理力は理解し難いモノだ。長い歴史で多くの者が、それによって命を奪われている。かの英雄カインでさえ、避ける事ができなかったという。
はじめ私は、規約を破り未熟な戦士だけで街の外へ出かけた事に、強く叱ろうと思っていたのだ。その理由を聞いて尚更だった。しかし、病室に入りアウグスタの様子を見るに、その気持ちは失せてしまった。彼女は、頭の大部分を包帯で覆われ、肩を落とし怯えているようだった。
「痛みはどうだい」
「……」
私は声をかけて、ベットの隅へ腰掛けたが、彼女は俯き黙ったままだった。仲間の多くが死んだ事に、彼女は責任を感じているのだろう。今までもずっとそうだった。
彼女の手を取ると微かに震えているのが分かる。
アウグスタの手は、記憶に残る妻のアエミリアの柔らかで温かい手と違い、剣だこで硬くなった冷ややかな戦士の手だ。日々の鍛錬を欠かしていないのが分かる。
「……ごめんなさい。言い付けを守っていれば、こんな事にならなかったのに……」
「アレウスたちは残念だった。彼らに報いたいのであれば生き残れ、そして、幸せになるんだ」
「そんな……」
私が握っている手を強く握り返して来る。罪悪感に心を縛られているのだろう。
「もういいんだ。前にも言っただろう。一人で頑張らなくていい、私たち大人を頼れと。私は君を娘だと思っているんだ」
「娘って……、あたし、もう子供じゃないんだから」
彼女は、私の胸に頭を預けて、鼻声で訂正を促してきた。そして、しばらくの間、彼女は鼻を啜りながら身体を震わせていた。
やがて落ち着いたのか、頭を上げた。
「でも、それは貴方も同じでしょう。ずっと働き詰めではないですか。みんな心配していたんです。だから少しでも元気になって欲しくて……」
「……そうなのか」
子供たちの前では、そんな素振りをした覚えはないのだが、どうやら私は彼女らを見損じていたようだ。子供たちは鋭いし、よく観ている。だから伝えておかないといけないだろう。
私は、左手の薬指に嵌めている銀の指輪を摩った。アエミリアと誓った日の事を思い出す。あの幸せな日々を……。
「それって、何? 何かのお
「ある意味そうかもしれない。これは、誓いの指輪だよ」
どうやら私の左手に嵌めている指輪が気になったらしい。この様な物を嵌めている者は滅多にいないし、武器を握る時、邪魔になるのではないかと思っているのだろう。
「工事も一段落したし、私は故郷に帰ろうと思う。数年前だが、出産で妻が亡くなったのだ。共に生きようとフィデスに誓ったのにな……」
「妻って?」
「古いしきたりだよ。妻は女性の事で、男は夫という。内地の田舎ではアルヴと同く、苦楽を共にし苦難を乗り越え生涯を共に過ごす事を誓い合う風習が残っている。アエミリアと私は、フィデスに誓い夫婦となった。でも、彼女は先に逝ってしまった。私は、最愛の人が苦しんでいた時に何もできず、彼女が亡くなった事も知らなかった。それに、彼女の忘形見である我が子もほったらかしにしている。薄情な夫であり父親だ」
今まで誰にも言わず、悶々としていた想いを発露してしまった。恥ずかしくて、アウグスタを見る事ができなかった。だが、止める事ができなかった。もしかしたら誰かに聞いて欲しかったのだろう。胸の内の苦しみを。
「カメリアへの任務を命令された時、私は断ろうとしていたんだ。アエミリアは、幼少の頃から病弱だった。だから私は、ささやかな人生を一緒に過ごせればよいと思っていた。けれども彼女は言った『貴方には、より多くの人を救える才能がある。だから、他の人々も幸せにして欲しい。私はずっと待っているから』と。もしかしたら彼女は、自分が長くないと思っていたのだろう」
私はそこで、深く息を吐いた。身体の中から溜めていた想いを吐き出す様に。
「君らは棄民と蔑まれていたが、そんな事はない。君らには自信が無いだけで、逆境に負けない強さがある。その証拠に、他の地域の部隊よりはるかに早く工事を完成させた。それだから共に仕事をするのが、とても楽しかったんだ。アエミリアの事を忘れるくらいにね。彼女の死の知らせが届いた時、彼女の遺言も添えられていた。彼女の希望に応える為、カメリアのみんなが幸せになって欲しいと努力した。結局のところ、それは私の自己満足でしかないんだ。私は、みんなが言うような英雄では無い」
私の本心をアウグスタは、黙って聴いてくれていた。
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