九話

 オーディションを前日に控えていたその日の個人練習、亜美はぼーっとしていた。緊張を通り越して、もはや放心状態になったのだ。その分時間の経過は遅く、一日が一か月あるのではないかと錯覚しそうになるくらい、その日はどこか思考が空振りしていた。フルートを構え、楽譜を眺めながら課題点を吹く。アーティキュレーションの処理は丁寧に。連符にムラがないように。意識する点は沢山あるのに、何故か集中できない。緊張常習犯の亜美には、いくらかオーディションは心臓に悪い。それにこの二ヶ月間、いろいろなことが既に起こっていた。そして、それらに目を向けていたら、いつの間にかオーディション前日になっていた。今は時間を長く感じ、そして全体的に見れば時が経つのは短く感じ、なんだか時間感覚が矛盾しているので、なおさら今の自分に当惑していた。

「おーい、大丈夫?顔死んでるよ?」

「うわあっ!」

 突然、理科室の窓越しにすすき先輩の顔が現れ、思わず椅子がギギッと軋む。本当に、心臓に悪い。彼女が不思議そうに首を傾げると、短めのボブヘアがゆらりと彼女自身の首筋に触れる。なんだか、リスみたいだ。その背後から、ポスターを大量に抱えた島田先輩も顔を出す。この二人が一緒にいるときは大抵、掲示係の任務を遂行しているときだ。

「そんなに驚くこと?ま、私は気配を消す達人だから仕方ないか」

「そ、そうなんですか?」

「いや?みんなからそういわれるからそうなんじゃない?」

 すぐさま他人事のように語るすすき先輩に、少しだけ苦笑いする。視線を落とすと、キラリと彼女のピッコロが煌めいた。すすき先輩は理科室から椅子を持ってきて座ると、ピッコロに息を吹き込む。小鳥のような細かいパッセージを聞くに、彼女の手腕を知れた。すると何故か『かえるのうた』を吹き始めた。何気に、島田先輩並みに謎な先輩だ。一通り吹き終えると、彼女は何故かガッツポーズを作った。

「よし、応援完了」

「あ、今の応援だったんですね」

「そうだよ?あ、まだ元気でない?よし、ここでダジャレを一句。!」

「わあ、なんだか涼しくなりました」

 呆れ顔を浮かべていると、今まで黙っていた島田先輩が、肩を小刻みに震わせていた。顔を背けてはいるが、ツボにはまっていることは確かだった。ツボにはまるところが、どうやら少し特殊らしい。

「相変わらず島さんは言葉遊びでツボるねぇ」

「はあ、内臓脂肪が無い象って、ふっ、どんな象ですか、あははっ、しかも亡くなるって、ははっ」

「落ち着け、島さん」

 笑いを抑えられなくなったのか、小さな声で笑い出した。しかも、しゃがむ程だから、彼も意外とその道の達人かもしれない。真っ白な耳を真っ赤にして笑うところを見て、ハッとする。そういえば、この人が小ネタで笑っているところを初めて見た。もしかしたら、すすき先輩は天才かもしれない。

「はあー」

「収まった?」

「はい、……失礼しました」

 目の端についた涙を拭うと、島田先輩は既に普段の無表情に戻っていた。どうやら、素面に戻るのは早いらしい。もしかしたらもうこんな事もないかもしれないので、脳内メモリの一番端っこあたりに保存しておこう。

「あ、そんなことはどうでもいいんだ!」

「え?」

 目を思わず丸くすると、彼女はピッコロを大切そうに手に収めた。黒々とした、小さなピッコロ。その表面には光沢があり、キーメカニズムの欠損がないところから、歴代大切に扱われてきたことが伺えた。

「いやね。あみこって、余計なこと心配してそうだから。私も心配になっちゃってさ」

 その言葉に、首を僅かに傾げた。心配されるようなことを先輩の前でしただろうか。しばらく逡巡していると、すすき先輩はそっと肩をすくめる。

「あみこは、結構純粋そうだから。すべての言葉を真に受けそう」

「そんなこと——」

 無いです、とは言い切れなかった。確かに、そのことは自覚していた。面倒なことは、気にしないようにしているつもりだった。でもそれはその瞬間だけで、少し経てば再びそのことに対して疑念を抱く。そんな自分を、亜美は厄介に思っていた。今回のオーディションもそうだ。もし自分が選ばれて、先輩が選ばれていなかったら。もしその逆だったら、亜美は残念には思うが決して恨みはしない。でも——。ホルンパートの部員が言っていることが確かなら、去年フルートパートでソロを巡った、つまりオーディションの結果の際にいざこざがあった。亜美は、人間関係に支障が出ることが怖かった。自分の自分勝手さに、思わず嘲笑する。

「凄いですね。先輩って」

「そうだよー。だから、もっと頼ってもいい」

「えっ」

 予想外の言葉に、亜美は首を傾げた。

「確かにあみこは元々フルートそこそこのレベルだし、入部してから実力も上がってる。でもね、まだあみこは伸びる。なのに、頼らないっていうのは少し残念だなーって思う。ね、島さん」

「そうですね。コンクールメンバー入りできると思いますけど」

「そう、ですか」

 先輩二人の言葉に、頬が僅かに紅潮する。演奏が上手な人にそういわれると、少しだけ照れ臭い。だが、パートには先輩部員ももちろんいる。だからこそ、亜美は不安なのだ。自分が、頼っていいのかと。不安を抱えつつ、亜美はおずおずと尋ねた。

「あの、本当に頼ってもいいんですか?」

「いいに決まってる」

 そう即答したのは意外にも島田先輩だった。その青い瞳が一瞬こちらを捉えると、そのまま呆れたように視線を落とす。

「演奏面がままならなくても、年齢的にこっちの方が年上だし。経験の方面だと佐藤の方が劣って当然でしょ。それに今は、オーディションの合否で、人間関係が崩れるようなパートじゃない。逆に手を抜くのは失礼」

 内面を見透かされた気分になり、少しだけたじろぐ。でも、確かにそうだった。自分よりも、二・三年生のほうが長く生きているのだから経験は豊富だ。オーディションだって去年受けているし、きっと苦労もしている。手を抜こうとはしていなかったが、どこか臆病になりすぎている自分がいた。そっか、と亜美は思った。オーディションは何が起こるか分からない。

——いくら不満があったとしても、それが県ノ坂のベストな状態です。贔屓は存在しません。絶対に。あるわけがない。

 だからこそ、轟部長はそう断言したのだろう。今思うと、簡単なことだった。そう思うと、なんだかやる気がみなぎってきた。

「はい。私、全力出して頑張ります」

「それはどうも」

 すると、すすき先輩が島田先輩の背中を思いっきりグーで叩いた。ドスッと物騒な音が響いたが、彼の表情は微塵も動かない。

「島さん全部いいとこ持ってったじゃんかぁ。せっかく先輩としての威厳を示す機会だったのに。何面倒見良いとこ垣間見せてんの。罰として、残りの練習時間全部オネエ言葉で話しなよ?」

「嫌です」

「あ、なら例の六人七脚——」

「断固拒否します」

「じゃあ——」

「やめてください」

 島田先輩を翻弄するすすき先輩を見て、なるほどな、と亜美は思った。亜美とでは会話があまり成り立たなかったにも関わらず、ちゃんとした会話にはなっている。経験とはこういうことか。彼には少し強めにノッた方がいいらしい。そう考えると、最初から島田先輩との関わり方を理解していた楓と華子が超人に見える。なんだか末恐ろしいものを感じるが……。まあ、とりあえず今は明日のオーディションに向けて練習をすべきだろう。——と、楽譜を覗き込んで、亜美は先輩の名を呼んだ。

「ここ、見てもらいたいんですけど」

「お、いいねえ。見るよ見るよ」

「じゃ、ポスター処分してきます」

「アンタも見なさい」

 ふっ、と心に温かなものが広がる。頼るのも悪くないな、そう今は思えた。


 オーディション当日。土曜日である今日はよく晴れていて、どこかからか蝉の鳴き声が聞こえてくるようになった。夏の始まりを告げると同時に、今日は吹奏楽コンクールの幕開けに向けての一段落がある。フルートはトップバッターで、亜美は十五人いる中で最後から二番目だった。まあ、そこそこ無難な順番だと思うが。オーディションは二日間に分けて行われ、一日目は木管パート、二日目は金管パートとパーカッションパートのオーディションが行われる。三年生から先に行うので、既に小春先輩はオーディション会場へ移動していた。待機場所である会議室前廊下。会議室からは小春先輩のフルートの音が聞こえてきて、焦燥感が少しずつ積もっていく。いつもは元気な楓でさえも、今日は大人しかった。さすがに、場の空気は読んでいるのだろう。

「はい、おまたせ。からりん、頑張って」

「うん、頑張るね」

 小春先輩が会議室から出てきて、先輩部員がやや緊張した面持ちで入室していく。それらを眺めていたら、余計緊張してくる。小春先輩と目が合うと、彼女は口の形だけで、頑張れ、と伝えてきた。そうだ、とにかく今日は今までの成果を出すだけだ。すすき先輩、百合先輩、島田先輩と、次々にオーディションは終了していき、島田先輩が部屋から出てきたとき、ついに一年生だけが残った。互いに顔を見合わせ、楓がガッツポーズを作った。頑張ろう、とのことだろう。彼女はそのまま室内に入室し、そのまま扉は閉じた。扉をしばらく眺めていた後、楽譜へ視線を移す。課題個所は全部で三つ。一つ目は課題曲の裏旋律、二つ目は自由曲の第一楽章のテーマ部分。そして、三つ目は第四楽章のソロ後のトゥッティ部分だ。特に三つ目は運指が難しく、亜美もかなり苦戦していた部分だ。さらに、ファーストを担当している生徒はそれらに加え、ソロパートも演奏する。——とその時、的外れな音が聞こえた。課題個所の三つ目、指が回りきらなかったのか、その音は大幅にテンポからズレている。だが、すぐに持ちこたえ、何事もなかったかのように演奏は続いた。ミスをした、そう思った。それでも途切れることなく彼女は吹き切った。

「華子。行ってらっしゃい」

 ハッと思考から覚め顔を上げると、オーディションを終えた楓が部屋から出てきたところだった。彼女の顔は晴れやかで、やり遂げたという達成感に満ちていた。本当に、楓は強い。どんな時でも、可能性がなくても、全力投球する楓の姿は本当に美しい。

「うん、行ってくる」

 楓の言葉に華子はうなずくと、そのままポニーテールを揺らして入室していく。しばらくすると華子もオーディションを終え、そのままパート練習場所へ戻っていった。今残っているのは亜美と未来だけだ。一度未来の方を見ると、彼女は優しくはにかんで小さくうなずいた。亜美もうなずき返すと会議室に入室した。中には椅子が二つ向かい合うように設置されており、黒板側の席に等々力先生が一人座っていた。学習机の上には紙がたくさん置かれており、何やらたくさん書かれている。

「失礼します」

「佐藤亜美さんですね。どうぞ、座ってください」

 一度頭を下げた後席に座り、譜面を台に置く。やけに鼓動が大きく聞こえ、無理やり唾を呑みこむ。等々力先生は穏やかな声色で、言葉を紡いでいく。

「パートとファーストとセカンドどちらを吹いてるか教えてください」

「えっと、フルートパートで、譜はセカンドを担当しています」

「分かりました。チューニングは大丈夫ですか?」

「はい」

 そう返事を返すと、等々力先生はメトロノームをセットした。規則正しく刻まれる音に、さらに緊張感は高まる。ぎゅっとキーを塞ぎ、一度深呼吸をする。

「では、課題曲からお願いします。裏旋律のところから、自分のタイミングでどうぞ」

「はい」

 下唇をリッププレートにあて、穴を塞ぐようにして息を少し吹き込む。フッと空気が流れる音がし、亜美は課題個所を睨みつけた。大丈夫、何度も練習してきたんだ。

刻む拍に合わせ、亜美は一音目を吹いた。不思議と、一音目以降は徐々に緊張はほぐれていき、いつも通りに吹き切ることができた。逆に、緊張しすぎてあっという間に課題個所を吹き切ってしまったのかもしれない。ピッチも完璧だし、拍からズレていないし、アーティキュレーションの処理もしっかり行った。自分の中では、上出来だった。楽器を下すと、等々力先生は紙に何かを書きつけながら、こちらに顔を向けた。その表情はあまりに穏やかすぎて、何を考えているのかは分からなかった。

「ありがとうございました。いい演奏でしたよ。では、次の人を呼んでください」

「あ、はい」

 席を立ち、扉の前で一礼すると、そのまま扉を開けた。未来は窓の外を眺めており、その顔は少し物憂げそうだった。

「未来、出番だよ」

 そう呼び掛けると、その瞳がこちらを捉える。こぼれおちんばかりの大きな瞳には、少しだけ緊張の色が混じっていた。余計な声掛けは返って逆効果だ。笑みをそっと作ると、彼女も微笑む。そのまま彼女は扉の向こうへと歩みを進めた。その背中が扉に隠れるのを見送り、亜美はパート練習場所である三年六組へ向かった。もう、自分はやり遂げたんだ。この感情の名を、亜美は知らなかった。


 オーディション二日目である日曜日、この日は金管パートと打楽器パートのオーディションが行われていた。前半組だったトランペット、ホルン、トロンボーンの部員たちは、少しだけ開放的な顔をしていた。

「あー、やっと終わったオーディション!」

 昼の時間、三年六組で久保島先輩がそう呟く。どちらかといえば叫ぶに近かったが。フルートパートでは昼食の時間、大まかに四つのグループで食事をしている。一つは三年生のグループ。二つ目は二年生のグループ。三つ目は亜美たち一年生のグループ。そして四つ目は二年生の島田先輩、川本先輩、久保島先輩、金音先輩という、幼馴染四人組のグループだ。元々中庭の日陰スポットで集まって食べていたらしいが、最近ホルンパートの女子に取られてしまったらしく、今はここで食べているとのことだ。今更思うが、なんだか聞いてて悲しくなってくる体験談だ。

「ちょっと、うるさい。アンタってほんと極端」

「仕方ないだろ緊張してたんだから」

「良かったじゃん、阿保頭に緊張感が持てて。調律成功じゃん」

「あー、良かった良かった。でもその調律ハンマーどっかに失くしちゃってさ。おーい、どこかに阿保じゃない久保島になる調律ハンマー落ちてない?」

「ごめん、阿保なまんまだったわ。私としたことが」

 やいやいと言い合いをする久保島先輩と金音先輩を眺めながら、島田先輩と川本先輩が何かを話している。はさみと羊毛がなんちゃらと話しているが、話の内容がよく頭に入ってこない。彼らの会話は少しレベルが高くて理解できない。おにぎりを口に含むと、真っ赤な具が垣間見える。今日は梅干しだ。なんだか、オーディションが終わってからというもの、どうも心がふわふわする。練習に支障はないが、どこか気が抜けているところがあった。まあ、すぐにそんなの無くなるのだろうが。久保島先輩の気が抜けているのは亜美と同じ理由かもしれない。だからこそ、金音先輩はあまりオーディションに触れないようにしているのだろう。いよいよ来週は、オーディションの結果発表が迫っている。今年の夏は、どんな夏になるのだろうか。期待と焦りが入り混じり、亜美はわずかに苦笑した。おにぎりをもう一口かじると、梅干しの強い酸味が舌の上に転がっていった。

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