七話
葉桜が美しい六月上旬。もはや暑さしか感じなくなったこの頃、県ノ坂中学校では数日前に前期テストが行われた。手ごたえはあった。というか、意外と簡単だったので拍子抜けともいおうか。今日で全てのテストが返ってきたが、普通に四百点に到達した。だが、やはり苦手教科である数学と英語は、全体に比べやや低い。六時間目に配られた英語のテスト用紙を一瞥し、亜美は一息落とした。
「亜美ー。部活行こー」
クラスメイトである華子に声をかけられた。彼女の顔にやつれた様子はない。
「分かった。そういえば華子はテストどうだった?」
「ん?フツーだけど?」
「そ、そうなんだ」
「そーそー、細かいことは気にしなーい!」
普通が一番わからないよ、と内心呟き、スクールバックを肩にかける。すると、華子の肩に見覚えのないケースがかけられている。そのケースがフルートのケースだということはすぐに分かった。ということは——。
「華子、楽器買った?」
そう尋ねてみると、華子は気づいたかと言わんばかりに両手を握ってきた。
「うん!アルタスの初心者モデルだけど」
おお、と唸れば華子は胸を張った。楓も以前買ったと言っていたので、これでフルートパートの一年生は、全員マイ楽器を買えたのだろう。県ノ坂ではフルート、クラリネット、トランペットの部員はマイ楽器を買う規則となっているので、六月中までに買わなければならない。もちろん経済的に大変な生徒のため、学校備品の楽器もある。だが、見たところほとんどの生徒は自分の楽器を買っている。もちろん、島田先輩や川本先輩、久保島先輩の楽器もマイ楽器だ。何のモデルかは分からないが。華子とともに教室から出ると、扉のすぐそばに楓と未来が待ち構えていた。楓がこちらを見た瞬間、その猫目がちな瞳が見開かれた。
「……亜美!今日は一段と可愛い!もちろん華子も!」
そう言って腕をこちらに広げたが、それを完全にスルーし未来に話しかける。
「楓どうしたの?」
「緊張でみんなを可愛いって言いまわってるらしいよー」
「ああ、そうか。今日だもんね、こは先輩に見てもらう日」
ここ数週間、島田先輩と百合先輩からスパルタ指導を受け、ようやく二人に演奏を認めてもらえるようになった。本当に、怒涛な数週間だった。とはいえ、まだまだ音楽的には読み込めてはいないので、三年生部員が「まだできていない」という可能性もなくはない。そう思うと、なんだか心配になってきた。確か、こういう時は『手のひらに人を書いて呑む』三回すればよかった気がする。よし、と手のひらを見つめた瞬間、その手を思いっきり掴まれた。視線を前に向けると楓がガッツポーズを作った。
「さあさあ!行こうではないか!三年六組!」
「ええっ!まだ人いるでしょ?」
「そんなの関係ナッシング!」
そんなわけないでしょ!と内心叫びつつ、彼女のお日様スマイルを見た瞬間「まあいっか」と改心した。グイ、と腕を強く引かれ、彼女のなすままに廊下を突き進む。先程までの緊張はどこに行ったのか、楓のメンタルはもはや鋼か。楓って本当そういうとこあるよねー、という華子のセリフを聞いてもいないのか、楓はあからさまにはっ、と口に手を当てた。
「教室行く前に楽器取りに行かないと!この神尾楓としたことが……、すっかり忘れていたよ」
「今頃気づくんだねー」
未来ののんびりとした口調に、楓はその通り!と、謎な肯定を示した。やはり、普通に緊張しているのかもしれない。
三年六組の教室には亜美を含めて八人いた。教卓の前には小春先輩とすすき先輩。そして、その前に亜美たち四人は座っている。亜美たちの傍らには、やや心配そうな面持ちをした百合先輩と島田先輩が立ち尽くしている。なんというか、我が子を初めて人前に出した夫婦のような雰囲気に似ている。うん、酷似している。小春先輩はいつもの笑顔とは違う真剣な表情で、課題曲のスコアを開いた。それを見て、思わずごくりと唾を呑みこむ。張り詰めた空気に耐えかねたのか、百合先輩があわあわと口を開く。
「せ、先輩。そろそろ時間です」
「うん、そうだね。みんなチューニングは済んだ?」
小春先輩の言葉に、「はい」と返事を返す。少しだけ、声が裏返ってしまったが。
「じゃあ、ゆりっちと島さんから指示通ってると思うけど、課題曲と自由曲を通して吹いて」
「はい」
すすき先輩はメトロノームを指定のテンポに合わせた。一小節目の上には「Animato」と書かれていて、これは120前後のテンポを表す。ちなみにテンポが120というのは、この曲の場合六十秒間で四分音符を百二十拍数える、というのが一番わかりやすい。つまり、一秒に二回四分音符を数えるわけで、速い曲というのは一目瞭然である。カチカチとメトロノームが教室に響き、亜美に焦燥感を掻き立てさせるのに十分だった。全員構えたのを確認し、小春先輩がカウントを始めた。四のカウントと同時に息を深く吸う。最初あれだけズレていたが、二人の先輩による厳しい指導により完璧なタイミングで吹くことができるようになった。苦手としていた連符箇所も今や得意に変わっている。そして、自由曲。難度の高いこの曲は、合わせるだけでも難しい。不規則なテンポにも対応できるようになったのは、先輩二人のおかげか。
そしてフィナーレ。未来への期待を込めた旋律にこめられた真意とは何か。それは、時点では分からなかった。最後の一音を聞いて、すすき先輩がメトロノームを止めた。再び、教室に強い緊張感が走り抜ける。楓が僅かにうめき、華子が世話しなくキーをカタカタを打ち、未来は楽譜をめくりった。各々、緊張していることは確かだ。
教卓にの前に立つ小春先輩とすすき先輩を見つめ、二人の評価を待つ。最初に動いたのは小春先輩だった。小春先輩が私たちの前に来ると、一回百合先輩と島田先輩に目配せをした。どこか探るような瞳に不安が募る。再び亜美たちを見ると、小春先輩はふっと一息ついた。
「合格、かな」
その言葉を聞き、どっと安心感が教室を取り巻く。視線の隅に、百合先輩と島田先輩が安心そうに顔を見合わせたのが見えた。けど、と小春先輩が重苦しそうに言葉をつづけた。
「まだまだ、初手段階ではあるから今以上に練習して。それに、今月の下旬にオーディションもあるからね」
「はい!」
腹の底から声を出すと、小春先輩とすすき先輩は満足そうにうなずいた。すると、すすき先輩が二年生部員二人に話しかけた。
「あと、二人もお疲れ様。これからは私たちも面倒は見るけど、引き続き困ってたら教えてあげて」
「はい」
百合先輩と島田先輩の声が綺麗にハモり、チェックは案外すんなりと終わった。拍子抜けというかなんというか……。
「あ、言っておくけどこれで終わりではないからね。次はパートで合わせられるようにならないとだから」
ぐさりと小春先輩に釘を刺され、亜美は少しだけドキッとした。先輩達には全てお見通しなのだろうか。そういえば、まだパートで合わせるといえば基礎練習と演奏会くらいしかやったことがない。しかも、この場合はコンクールに向けてだ。吹奏楽部において、全体での調和を図るために事前のパート練習は必須。さすがにこれで終わりなわけではなかった。むしろ、これが初手段階というのだから、これからもっと厳しくなっていくのだろう。なんせ、十一人の先輩に囲まれるのだから。
「まあ、明後日から本格的に合奏始まるから、パート練も密なものになりますねえ」
すすき先輩の言葉に、島田先輩が冷笑を浮かべて「そうですね」と目を瞑る。なんだか、この人が笑うと嫌な予感がする。
「じゃあ、召集かけてくるから休憩でもしてて」
そう言って出ていく小春を尻目に、亜美は立ち上がった。緊張しすぎて、トイレに行きたくて仕方なかった。廊下を出てすぐに、トイレはある。すぐ手前の個室の扉を引き、鍵をかけたその時、大声で談笑する女子生徒二人の声が聞こえた。聞き覚えがあるこの声は、恐らくホルンパートの二年生部員のものだ。合奏の時、すぐ後ろの席だから覚えている。彼女たちは個室には入らず、代わりに洗面台の水が流れる音が室内に響いた。髪型でも直しに来たのだろう。
「——今日さあ、ヘアオイルつけすぎて前髪凄い匂うんだけど」
「うわマジで?だから今日花屋みたいな匂いするんだ」
「そうなの。いのりんはヘアオイルつけないだ?」
「きよっちゃんみたいなミスをしそうだからしないだけー」
「私のせいかよぉ」
「そういえば話変わるんだけどさ」
急に真剣なトーンになり、いのりんとかいう先輩部員が水を止めた音がする。何?ときよっちゃんと呼ばれた女子生徒が呟いた。
「今年、自由曲ホルンのソロあるじゃん。私、ソリスト候補だから怖いんだよね」
「ああ、去年のこともあるしねー。さすがに去年のフルートパートみたいな雰囲気は、今のホルンパートにはないから大丈夫っしょ」
「そうだね。でも確かに去年のフルート、いじめ凄かったよね」
「ねー」
自分の耳を大いに疑った。フルートパートを舞台としたいじめ。
そして、ソロの話から発展したとなると、ソロのことで何かあったのだろう。あ、とそこで思い出す。——去年ソロを吹いていたのは、当時一年生だった島田先輩だった。そうなると、ソロを巡っていじめに発展したのだろうか。いや、でもそうなると不十分な個所がいくつもある。あの人がいじめで泣く姿など思い浮かばない。それに、ここは完全実力主義。オーディションの結果が腑に落ちないわけがない。もし、自分だったらそう思うだろう。
「まっ、いのりんはとりあえずソロの練習を頑張る!で、結果を待つのみじゃない?」
「そうだね、私頑張るわ!」
「よし、ていうか私自由曲のホルンのトゥッティが微妙でさー、後で見てくれない?」
「ああー、ピッチ合わせづらいよね」
やがて話はそれていき、その声はどんどん遠くなっていった。その足音が完全に聞こえなくなった時、扉を開けた。——確かに去年のフルート、いじめ凄かったよね。
ホルンの先輩の言葉を思い出し、思わず鳥肌が立った。なんだろう、凄く嫌な予感がする。多分亜美の勘は、気のせいではなかった。
その日の練習は、あまり身が入らなかった。どこか空ぶっていて、どこか異質で。とにかくトイレでの会話が頭から離れなかった。楓と華子は塾があるらしく先に帰ってしまったので、久しぶりに未来と二人きりで歩いていた。重いスクールバックを肩にかけ直し、一歩一歩足を進める。何気ない下校風景が、次から次へと流れていく。眠さを抑えようと、ふありとあくびをかみ殺すと未来が軽やかに微笑んだ。
「亜美、今日凄く眠そうだよねー」
「疲れちゃって、今日は色々あったし」
「テスト返しあったしねー。亜美はどうだった?」
「四百は超えたよ。未来は?」
「じゃあ、私もそれくらいかなー」
のほほんと語る未来を見ていると、先程まで悩んでいた自分が可笑しく思う。まあ、また今度考えよう。日はとっくの昔に高い山に姿を隠したが、まだまだ日は明るい。ちなみに、山の名前はよく覚えていない。飛騨山脈で覚えているのは燕岳、穂高岳、常念岳、乗鞍岳、槍ヶ岳くらいだろうか。これらの山岳は、中信の中学校の登山学習にもよく用いられており、県ノ坂では乗鞍岳に登山しているらしい。安曇野市の方では常念岳や燕岳に登山していた学校も多くあったようだが、危険なうえ遭難する確率が高いため廃止になったようだった。
「ねえ、亜美」
珍しく真剣な未来の声に、思わず目を向けた。その瞳は、一体何を言わんとしているのか分からない程に酷く澄んでいる。何故か、島田先輩のあの瞳と重なった。瞳は宝石のように美しい青でもなければ、氷のように冷たいものでも無いのに。何、と投げかけると、彼女は意を決したようにこちらへ一歩だけ距離を詰めた。
「あの人の音、どう思う?」
「あの人って?」
そう尋ねてみれば、未来は少し眉を垂らした。
「島先輩」
「ああ、そういえば前もそんなこと言ってたよね」
未来は、百合先輩にも同じようなことを聞いていた。島先輩、音変わりましたよね、と。はっきりいって、亜美にはどこが変わったのかが分からない。去年聞いた時とそこまで変わっていないように思ったが。でも、今の未来はそんな回答を求めているように見えなかった。回答に困っていると、未来がそっと息を落とした。
「私は変わったと思った」
「……それは」
「もちろん、悪い方向に」
悲哀じみた悲鳴が、住宅街に響いた。え、と声を漏らすと、彼女と目が合った。その瞳には、何の色もない。いつものはにかみも消えている。
「あんな音、あの人の音じゃない……あんなの、違う。もっと、飛べていたのに」
先輩のことをあの人と呼ぶ未来に、少しだけ不思議な気持ちになった。だって、その言い方だと、まるで——。未来は淡く微笑むと、歩みを止めた。亜美もまた立ち止まると、彼女は秘密を打ち明けるように顔を少しだけ寄せた。
「あのね、ずっと黙ってたんだけど」
「うん」
手に汗を握りながら、亜美は少しだけ逡巡する。もしや、恋人とか言うんじゃないだろうな……、少しだけ期待してしまうけど。
「島先輩って、従兄弟なんだよね」
「えっ」
想像以上の事実に思わず目を見開く。当の本人はやや眉を垂らして、訥々と言葉を紡いでいく。
「蓮美さんって、お母さんのお姉さんで。叔母さんに当たる人なんだ。一応、血縁関係なの。あまり家族間での触れ合いはないんだけどね」
「ちょちょちょ、待って!理解が追い付かないんだけど!」
慌てて手を激しく振ると、未来はあまりにも落ち着いた口調で亜美の肩に手を置いた。これ以上の詮索を許さないように。
「今は追い付かないくてもいいよ。でも、亜美には教えておこうと思って。じゃあこっちだから」
「あ、バイバイ」
「うん、また明日」
肩から手を離すと、未来はいつものはにかみ顔を見せた。未来はくるりと踵を返し、そのまま歩いて行ってしまった。島田先輩と未来が従兄弟関係って、今更信じられますか!内心、極限まで叫んだ。って、それは置いといて。まあ、そのくらい近い関係であれば、音の変化にも気づきやすいのかもしれない。いやでも——。そこまで考えてお腹が鳴った。自分のお腹を一瞥し、再び歩き出す。
とりあえず今は、夕飯を食べよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます