竜騎士戦記 三人衆、不遇の少年を拾う。

日崎アユム/丹羽夏子

第1話 アシュアールは刃を握り締めた

 アシュアールが本日五十個目の芋の皮を剥き始めた時だ。

 給仕係が帰ってきて、店長とこれから来る昼食のお客様についての打ち合わせを始めた。


「皇女殿下は予定どおりに予定どおりの人数でお越しになります」


 店長が緊張した顔で唾を飲む。


「本当にここにおいでになるのだな」


 給仕係も緊張した様子で頷いた。


「門番たちがもう郊外に視察団のお姿が見えると言っていたから、そのうちこちらへお見えになるでしょう。もう少ししたら店長は玄関へ。俺も着替えてこなくちゃ」

「頼んだぞ」


 そして、店長が厨房のほうを振り向く。


「お前らは出てくるんじゃないぞ。絶対にだ」


 厨房で奴隷のようにこき使われているヤズダの民の一同が、無言でこうべを垂れた。一言言ってやりたい気持ちはあったが、アシュアールも我慢して頭を下げた。

 銀の髪に紫の瞳のヴィオリア人である店長と給仕係たちは皇女にまみえることができる。赤い髪に金の瞳のヤズダの民である自分たちは臭くてじめじめしたこの厨房に閉じ込められて存在すら知られることはない。


 壁一枚隔てたすぐそこに皇女が来る。


 この機会を逃したら皇族など目にすることもないだろう。だがアシュアールはここで食事の準備や後片付けに従事しなければならない。

 わかっていたことではあっても、悔しい。


「何だその目は!」


 店長が唾を飛ばして怒鳴った。アシュアールだったらこの店で出される料理を食べたくない。まかないを食べなければ体がもたないので仕方なく食べているが心は削れていく。


 不意に何かが飛んできてアシュアールの頭にぶつかった。石のような硬いものだったが軽く、傷になるようなものではない、と思った。だが、ぶつかったこめかみから頬にどろっとした液状のものが垂れてきた。卵だ。アシュアールははらわたが煮えくり返るのを感じた。卵を投げつけられたのだ。


 顔を上げて店長を見ると、彼はアシュアールを見下ろして「生意気なガキだ」と吐き捨てた。


「何がそんなに気に食わないんだ、言ってみろ。クビにしてやる。よその店に行け」


 アシュアールは下唇を噛んだ。そうは言うが、村で一番まともな飲食店はここだ。皇女のような身分の高い客を受け入れられるだけここはマシな店なのだ。この小さな村にはそもそも外食ができる場所が少なく、ここ以下となるといかがわしい酒場になる。もっと酷い扱いを受けることになる、母にも心配させる、そう思うとアシュアールはこの男に投げかけられる屈辱に耐えるしかなかった。


「……すみませんでした」


 そう言うと、店長がさらに大きな声で言った。


「申し訳ございませんでした、だろう」


 震える拳を握り締める。


「申し訳、ございませんでした」


 素直に言ったアシュアールに嗜虐的な気持ちが湧いたのか。男は下卑た笑いを浮かべ、こんなことを言い出した。


「床に両手両膝をつけ」


 かっとなったが、逆らえない。

 かまどの煮汁や洗い場の汚水で濡れた床を見る。

 それでも、母との生活を守るためだ。

 アシュアールは怒りでぶるぶると震えながら両膝をつき、頭を下げた。足が冷たい。


「申し訳ございませんでした」


 頭がおかしくなりそうだ。


「そこまでするなら今日のところはゆるしてやってもいい」


 安心している自分が嫌だ。


「次に俺をそんな目で見たら陰間茶屋に売り飛ばしてやるからな。早くいい子になりな」


 店長が出ていく。厨房が一瞬静まり返る。


 少しして、店長が戻ってくる気配がないのを確認してから、厨房の仲間たちがおそるおそる近づいてきた。


「ほら、立ちなさい。もう大丈夫だからね」

「今日も酷い目に遭ったな。店長はどうしてアシュアールばっかり」


 ひとりが清潔な布巾で卵を拭ってくれる。しかしアシュアールは素直に礼を言えなかった。誰も彼も店長の前では無言で見て見ぬふりをしていた。店長の前ではアシュアールを庇ってくれないのだ。どこまで信用していいかわからない。ここでうっかり愚痴をこぼせば告げ口されるかもしれない。みんな同じヤズダの民だから信用したい気持ちはある。けれどアシュアールは残飯を求めて店長に頭を下げる仲間を見たことがある。みんな生活がかかっている。なんだかんだ言って金銭的な貧しさは精神的な貧しさに直結する。それが人間の本質だ。


「大丈夫です、ありがとうございます」

「もう料理は終わったよ。お鍋を洗ってちょうだい」

「はい」


 それぞれが持ち場に戻っていった。アシュアールも流しのほうに向かっていった。


 流しには汚れた調理器具が山積みになっていた。仲間がひとり悪戦苦闘している。手伝うために汚水に手を突っ込んだ。

 指先に鋭い痛みを感じた。


「あっ、こら」


 仲間がアシュアールの手首をつかんで引っ張り上げる。アシュアールの指先に血が滲んでいる。


「包丁が入ってる。気をつけなさい」


 こんなところでもイライラさせられる。


「ごめんな、まず包丁を片づけるべきだったな」

「これだけ積んであったら底に何が沈んでいるかなんてわからないですよね」

「本当にすまん。お前は何にも悪くないのにこの店で働き始めてから踏んだり蹴ったりだな」


 ぼんやりとした頭で上に積まれた鍋を持ち上げる。


 他に働ける場所がない。商店は人件費を考えてあかの他人であるヤズダの民を雇わないし、農家に行けばもっと苛酷な屋外労働が待っている。村長のような有力者の家の使用人の枠はすでに埋まっていて誰かが死ぬまで空かないようなありさまだ。

 アシュアールは二年前十二歳になった時からこの店の厨房で働いている。給料は自分と母が二人で食っていくのにはなんとか足りるくらいの額面だ。母は糸紡ぎの仕事をしていて、その賃金で家賃も払える。ぎりぎりではあるがかろうじて親子二人独立している。こういう待遇に我慢さえできれば、ヤズダの民としては、まともな生活だった。

 しかし家を出ればヴィオリア人たちが幅を利かせている。彼ら彼女らはヤズダの民から搾取をして楽な仕事しかしない。それでいてヤズダの民には発言権を与えない。ヴィオリア帝国はヴィオリア人とヤズダの民の身分を平等であると言っているが、建前だけの話で、実態はまったくともなっていなかった。それを考えるだけでアシュアールは毎日のたうち回るような苦痛を感じる。


 特別扱いをされたいわけではない。ヴィオリア人と同じ立場になりたいわけでもない。裕福な暮らしを望んでいるわけでもない。


 ただ、もう、馬鹿にされたくない。


 それもこれもすべて帝国の、皇帝のせいだ。


 食堂のほうからにぎやかな声が聞こえてきた。きっと皇女が到着したのだ。


「ベアトリス皇女殿下の、おなーりー!」


 店長と給仕係たちの大袈裟な挨拶の言葉が聞こえる。


 皇女ベアトリスは皇帝ルドヴィグの長女だ。皇帝は彼女を目に入れても痛くないくらい可愛がっているらしい。きっと生まれた時からいいものを着て、いいものを食べ、いいところで暮らしているのだろう。

 かたやアシュアールの父親はヤズダの民の故地が帝国に滅ぼされた時に戦死していて顔も覚えていない。赤子のアシュアールを抱いて命からがら逃げてきた母親と貧しい暮らしをしている。


 悔しい。


 アシュアールはそこにあった包丁を握り締めた。肉を切るための包丁だ。ようやく大人に近づき始めて大きくなりつつあるようなアシュアールの手ではまだ余る。


「アシュアール?」


 仲間に声をかけられるかどうかのところで、アシュアールは走り出した。


「アシュアール!」


 厨房の戸を蹴り開ける。食堂のほうに出る。狭い食堂に大勢の騎士がいて給仕係の接客を受けている。

 騎士たちは包丁を持って突っ込んでくるアシュアールに気づいて立ち上がったが、それでもアシュアールの勢いを止めることはできなかった。

 店長が接待をしている。相手は銀髪の若い女性だ。さらさらのまっすぐな銀の髪に、宝石のような透き通った紫の瞳、雪のように白い肌、簡素なドレスをまとった美しい女性だった。一目でわかった。彼女が皇女ベアトリスだ。聞きしに勝る美女で、ドレスこそ華美なものではなかったが、立ち居振る舞いが上品だ。


 アシュアールは雄叫びを上げながら彼女に向かって突進した。


「死ね!」


 包丁を両手で握り締め、わずかに引いた。

 そして突き出した。


 皇女は冷静な態度で、冷徹な目でアシュアールを見ていた。


 あともうちょっとで刺せる。


 そう思ったのに――腹に大きな衝撃がぶつかった。

 気がつくと、アシュアールはあおむけで床に転がっていた。

 誰かに横から腹を蹴られた。


「おいおい少年、そりゃあまずいぜ」


 また別の誰かに手首を踏まれ、包丁を手放さざるを得なくなる。


「まだ子供じゃないか、かわいそうに」


 そして最後に、頭頂部を蹴られた。


「貴様、この方をどなたと心得る! ヴィオリア帝国第一皇女ベアトリス殿下だぞ!」


 アシュアールは口を薄く開けたまま呆然とした。

 そんなアシュアールの顔を覗き込んできたのは、ヴィオリア帝国の騎士の制服を着た、赤い髪に金の瞳の若い男三人であった。


「けしからん」


 何も言えず、何もできず、ただただ、三人を見上げていた。




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