第36話 読み通り黒かった婚約者様
笑い声が止まってからも、婚約者様がご機嫌に笑っておられる様が分かるのは不思議です。
抱き締められていて、顔が見えないというのに。
「こちらにはアニス殿もいるし、兄上は私に爵位を与えてくださると言うけれど、君が要らぬと言うなら平民になってもいいと考えていたよ」
「よろしいのですか?」
「もちろん。だけど君、仕事では変装をしているから、貴族かどうかなんて関係ないのではないかな?」
まぁ、それもご存知だったなんて……。
「ふふ。やはり気付いていなかったか。私も変装していたからね」
それは驚きですね。
実は父の経営する商会が運営しているお店が市井には沢山ありまして。
そのお店で売り子などをしていることがあるのです。
はじめは市場調査やお店の監査の一環ではありましたが、今ではただ接客が楽しくて店に立っています。
身分や生まれを忘れ、様々な方に出会えますからね。
残念ながら、護衛騎士も変装してついて来るので、完全なる平民気分は味わえません。
そんな市井のお店にも、貴族の方がお忍びで来られる場合がございます。
通常貴族の皆様がお買い物をする場合には、商会の人間がお屋敷にお伺いすることになっているのですが。
それではつまらないということなのか、意外と貴族の皆様には庶民に混じりお買い物をすることを好まれる方が多くいらっしゃるのです。
けれどもいくら忍ばれましても、その身のこなし方からすぐに素性は分かります。
それをこちらは知らぬ振りをして接客していたのですが、必ず貴族のどなたがいらしたか調べはついていました。
どのような意図でお店に通われているか分かりませんからね。
ですから婚約者様は、完璧に市井の人間に溶け込めていたということになります。
「君と同じように、店によって変装を変えていたからかな」
まぁ、凄い。
ひとつのお店だけの話ではなかったのですね。
「もう正直にすべて話すけれど。どうしても君に会いたくて、君が店にいるときを調べ通っていたんだ。気持ちが悪いから婚約を解消したいとか言わないかな?」
気持ちは悪くないですが、言ってくださっても良かったのに、と思うような、思わないような。
それはそれで私の変装が失敗したということになり、悔しくもあります。
ですがそれよりも、より良い変装について婚約者様から学びたいですね。
「今度共に変装し街に出ようか。一緒にお店に出てもいいな。私にも手伝いをさせてくれるか?」
「それは構いませんが」
ぎゅうっと力をこめて抱き締められました。
まだ婚約中なのですけれど、この国の貴族としてこれは問題ないのでしょうか?
「二人きりだからさ。それでね、ローゼ。私としては、本当に爵位などどちらでも良いと思っているんだ。二人で新しい商売を始め、成功してから爵位を賜る、というのも楽しみになるよね」
すべて私の希望通りでいいと仰いますが、これは引っ掛かります。
先の誓いに反しているような気がするからです。
「爵位について、殿下のご希望はございませんか?」
「んー、そろそろ名前で呼んで欲しいなぁ、ローゼ」
そういうことを聞いたのではないのですが。
抱き締めた状態で耳元で囁かないでくださいませ。
耳が擽ったいのです。
私が答えずにいると、婚約者様はなお耳元で囁かれました。
「これもおいおいかな。そうだなぁ。どちらでも構わないのだけれど、もし爵位を得ると決めたなら、してみたいことはある」
それならば、爵位を頂いてはどうでしょうか?
私としましても、婚約者様が仰っていたように、変装して仕事を続けられるならどちらでも構わないと思っていました。
貴族としての社交は大変ですが、商品を紹介するいい機会を得られるという点では、貴族の夫人は魅力的な立場です。ただそうすると、商売に向ける時間が減ってしまいますので、それは残念なところだと言えます。
「この国の男尊女卑思想は酷いものだろう?一夫一妻制を布いて、何故そうなるのか理解出来ないが。多くの貴族が身勝手にも、夫人を虐げ、非公式に第二夫人や妾を囲っている。そしてその責も取らない。いざとなれば悪いことはなんでも女性のせいにして逃げる男が多過ぎるんだ。そこに私たち夫婦が誕生した。そうすれば、ね?」
今度の「ね?」の意味するところも分かりませんが、また狡いことを考えているような気がします。
「貴族としてお互いに愛し合い尊重し合う夫婦の形を見せ付けてやってはどうかと考えていたんだ」
「はい?」
思わず聞き返してしまいました。
誓いを受けたあととはいえ、この御人の前ではあっという間に淑女らしさを失いそうですね。
「いかに君を愛しているか、皆に語ってもいいね。それとも二人で仲の良いところを見せ付けたいかな?」
さすがにそのようなことは遠慮したいのですが。
それに見せ付けてどうなるのです?
「私はね、価値観を変えるには、あの夫婦は素敵だ、と思わせることが大事だと思うのだよ」
「そこまで考え──」
「違うよ」
私の言葉は早々に遮られてしまいました。
「貴族の考えを変えるために君を愛するのではなくてね。ただ私が皆に惚気たいのだ」
「……はぁ?」
うっかりと平民の皆様の前でするような聞き方をしてしまいました。
ついうっかりで何でも許されると思うことは嫌いなのですけれど。
婚約者様の前でなら、許されるでしょうか?
そんなこちらの憂いを吹き飛ばすように、婚約者様は体を揺らして笑います。
「ローゼ。それでいいよ。私の前ではいつも通りに」
淑女らしさを完全に失ってしまったら、貴族として生きられない気もしますが……。
そのときはそのときですね。
「相手を貴族に限定する気はないのだけれどね。二人で店を経営して、お客さまの前で二人の仲の良さを見せ付けるというのも楽しそうだ」
お客さまと称するこの御人なら、店に立つには合格ですね。
って違いました。
誰の前でも惚気ないでくださいませ。
「そうでもしていないと、君を外に出したくなくなりそうで」
「は?」
「やっと手に入ったところだから。閉じ込めて置きたい気持ちもどうしても強まっていてね。だけど君に嫌なことはしたくないから。君が好きなことを出来るよう支えながら、ついでに皆を牽制……これ以上変な男を寄せ付けないように、二人の仲の良さを存分に見せ付けておかなければいけないと思うのだよ」
「そんなことはありませんし、まず誰も寄っては来ませんよ」
「それだ。君のそういうところが心配なんだ」
「何を仰っているのですか?」
「貴族ならまだいいんだ。手順も踏まず君に近付く者なんか愚者だけだからね。まぁ、そんな愚者ももう二度と寄せ付けはしないけれど。変装中の君は困ったもので、本当に無防備だから。だからこそ、私は君を閉じ込め──」
こうして私は、この日から本当の意味で心を打ち明けられる場所を手に入れることになりました。
監禁されるのではないかという一抹の不安を覚えつつも……。
婚約破棄の命を承ったときには、まったく考えもしなかったことです。
この御人は考えていたようですけれどね。
それから──。
帝国でも結婚式を。
帝国でも爵位を。
子どもたちには帝国の婚約者を。
と騒ぐ伯父に、母が怒りの鉄槌を下し一波乱巻き起こすことになるのは少し先の話で。
この国の貴族の殿方たちが、婦人たちの変化の圧に押され変わっていくのは、大分先の話となります。
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