靴下に空いた穴

御伽話ぬゑ

第1話

「雨、なにやってんの?」

 私は、さっきからずっと、蛍光灯と窓から差し込む光の反射が痛いくらいよく磨き込まれた床を隅から隅まで凝視していた顔をあげた。

 待ち合いロビーに等間隔で設置してある、濃くて陰気臭い緑色をした前のソファーに座って、腰から半分後ろに倒れた智が、植木鉢の横に目立たないように蹲っていた私をじっと見下ろしていた。

「・・・ピアス 落とした」

 私は思わず、口をへの字に曲げて呟いた。

 別に責められたり叱られたりしてる訳ではないのだけれど。反射的にそんな風にしか答えられなかったのだ。突然の問いかけには、いつもそうだ。悪い事を見つかった訳ではないのに。

「あの、青い雫みたいな小ちゃいやつ?」

 手を引っ張って私を立たせながら、低いとも高いとも取りずらい声で智が聞いてきた。

「そう」

 私が言った瞬間、智は水辺に移動するワニみたいな格好になって床に這いつくばった。大きな真顔をキョロキョロさせて、あっちこっちと頻りに動き回って探している。私は自分がなくしたくせに、ぼんやり突っ立てそれを見ていた。

「ない。何処かにあるんだろうけど」

 案外手早く区切りをつけて、さっさと戻ってきた智が言った。

「高価なものだったの?」

「え・・ううん。ただのガラスだけど。 私、あれ気に入ってたから」

「ここで、なくしたのは確実なんでしょ?」 

 再度、私に確認してきた。

「え・・・多分」

 なんだか面倒臭くなってきたので、私は適当に答えた。気に入ってたけど、高価な宝石でも何でもないし。いいや。そう思い始めていた。智が人目を気にせず、堂々と探してくれた事で満足したのか。

 いや。そんなことは特に最初から期待していなかった。

 私は誰にも気付かれずに見つけたかったのだ。自分のしたミスは、自分でこっそりと、どうにかしたかった。アクシデントに対処する囁かな達成感と自己満足。誰かがあの子なにしてるんだろうと疑問に思っても、それを跳ね返せる妙な自信があったし、放っといてという意味合いの空気を顔に出す方法も知っていた。そうとも知らないで必死になっているのは智だけだった。

 けれど、智の必死さは私への思いの現れだった。私は自分への焦燥感と智の必死さへの戸惑いと愛情の3つに頭を一瞬支配され、そのどれを優先するのか迷っているうちに面倒臭くなって、曖昧な返答をしたのだ。その返答をすることによって、智の気持ちを充分削いでしまうだろうことも同時に予測された。50%くらいの確率でそうなのだ。

「わかんないの? なら、見つからないかもね」

 いとも簡単に諦めた智。私の言い方がいけなかったみたいだ。でも、多分しか言い様がないんだ。確実にわかってなくて曖昧だから、自分でこっそりやろうとしてたんだし。

 元のソファーに戻って、同じように名前を呼ばれるのを待っているおばあちゃんとか、だらしない格好のおじいちゃん達に混じって、面白くもないワイドショーが流れるテレビに無表情で冷たい視線を向けている智。それを見て、何故か言い訳がましい言葉が次々浮かんで、悪い事をしているような気分になった。なくし物を探しているのは私なのに。ワイドショーの中で機械的に爆笑する、高低大小様々なミックスされた声がやけに耳障りに惨めに響く。なんだか嫌だな。

 仕方なく、私はまた植木鉢の横に蹲り、ワックスがかかり過ぎているテカテカした床の上に、小さな青い雫を探して目を凝らした。

 別に頼んでもいなかったし。智はただ単に面白そうだから参加してきたんだ。でも、確実に見つかりそうもなかったから辞めたんだ。智の頭の中のパソコンが、データー不足の為発見は不可能だと表示したんだろうな。だから放り投げた。まったく。親切なんだかなんだかよくわからない。

 考えてたことが聞こえたみたいに、ふと智が私の方を向いた。

「ちょっと外で煙草吸って来る」

 突き放すようにも聞こえる声のトーンでそう言って、智は颯爽と自動ドアを出て行った。

きっと待つのに飽きたんだろうな。そりゃ、そうだ。私だって病院で待たされるのは、まるで時間がソフトクリームのごとくドロドロ限りなく溶けていくようで嫌な気分になる。それに病院独特の重い暗い空気がひっそりと満ちていて、体が急に怠くなるし、息苦しい。よっぽどじゃない限り、付き添いだっていい気分でいられない。仕方ないけど。

 一瞬、付き合って付いてきてくれた智を可哀相だと思った。せっかくの休みをこんな陰気な所で時間を費さなきゃいけないなんて。でも、その思いはすぐ消えた。

 私は、また視線を床に戻した。ピアス。すると名前を呼ばれたので、真っ白い診察室に入って行った。

「左の耳鳴りが酷くて・・・」

 私がそう言うと、真っ白い診察室に所存なげに腰掛けていた猿のミイラみたいな乾涸びた濃い顔色をした老先生は、湛然に私の耳を調べ始めた。長細いラッパのような吹き口の部分を、残った雫がぶら下がっている耳に突っ込んで、しきりに頷きながら中を覗いている。

 なにか音でもするのだろうか?耳鳴りの音?

「あの・・・」

「特に異常は、ないみたいでっすねー はー まぁー精神的な可能性も、あっりますからー なにか、ストレスとか溜めてたりしませっんか?」

 老先生は穏やかに降る五月雨みたいな声でおっとりと言った。

「はぁ・・・ストレス ですか・・・」

 ストレスらしき要因なんて毎日のようにそれこそ無数にある。道に転がってる石みたいな感じで。

「まぁー僕なんかは、あくまで普通の耳鼻科医でっすからー 精神的な詳しい事なんかは、分野が違ってきまっすからー なんとも言えませっんがー もし、気になるようでしったらー あー 精神科にも行ってみたらどうでっすか?」

 普通の耳鼻科の老先生は、あのラッパからどんな音を聞いたんだろう。きっと異常なしって音なんだろうな。

 気になるから、あまり乗り気じゃない智を煽ててわざわざ診察に来たんだ。なのにやっぱり精神的? ストレスかい。

 薄々そうじゃないかと思ってはいたけど、診てもらったところでどうせそんな感じの決定的なことを言われるんだろうなと思って、放置していたのに、最近なんだかやたらと耳につくから、さすがに気になって来院してみたら案の定だった。

 いいんだか悪いんだか。ストレスですとハッキリ言われるのも、やっぱりねーと溜息をつきたくなる気持ちになるけど、病気ですとハッキリ言われたら、それはそれで気分が落ちる。どちらにしてもよくはない。と言うか、医者に自分が楽になる答えを求めて来るなって話になるのか。

 生来、親の気遣いのお陰で丈夫に育った私は、産まれてこのかた病気らしい病気をしたことがない。自意識が芽生えてからの入院すら未経験だ。それはいいことだと思う。でも、精神的のなんたらだけは、どうにもならない。変に通常の意識を食い散らかして、変に病気ちっくにする。変に障害ちっくにする。

 前に一度だけ精神科の病院に行った事がある。その時に、判別出来ない中途半端な症状を正直に言うと、それまで頷いて聞いていた初老っぽい薄い頭をした男の主治医は、あなたはそういう人柄のようだね、とだけ言った。そして、耳鳴りがするとか、聞こえなくなるとか、お腹が痛くなるとかの症状は恐らく精神的なものだと思うけど、気になるようなら耳鼻科とか内科を受診した方がいいよ、とあっさり言われた。もう耳鼻科にも内科にもとっくに行っていた。それで、精神的なと言われたから精神科に来たんだ。結局はよくわかんないけど、性格が色々ややこしい感じだから、色々抱え込んだり溜め過ぎたりすると連動して体が反応するって事だと私は判断した。

 要は子どものなんとなくお腹痛くて不登校と同じような原理。とっくにわかちゃいたけど、あまりに酷かったからなにか病気かもしれないと少し不安になって来た私が馬鹿だった。智に話したら、とりあえず行けって心配してくれたのも手伝って  ・・・やっぱり来なきゃよかった。

 美容院と病院に関しては経験上そう思う事が多い私はしょんぼりして、会計を済まし、外に出た。

 筋雲が引っ掻いたように伸びる真っ青な空の下の広い駐車場には色とりどりの車がキラキラ光を反射しながら停まっていて、その中でもターコイズブルー色のトラックは一番キレイな色に見えた。智はそのトラックの荷台に寝っ転がって、昼寝をしていた。

 私は、その顔に被せてある古ぼけたハンチングを勢いよく取って、出来るだけ大きな声で終わったと言った。

 智は、驚いたらしく髭だらけの口元を僅かに緩ませ、目をこれでもかと思うくらいに大きく見開き、腰にぶら下げてる鍵束を鈴みたいに威勢良く鳴らして起き上がった。

「ちょっと、一服させて」

「精神的な事じゃないかって。それだけ」聞かれる前に、私は簡単に報告した。相手は誰かに関わらず聞かれることは好きじゃない。

 智は報告に関しては特になにも言わなかった。興味なかったのか、安心したのか、なにか思うところがあるのか。彼の思考回廊は私には掴み難いところがたくさんあるから、よくわからない。智は解られるのが嫌だし、聞かれるのも嫌だから、その方がいいらしいけれど。これが普通の付き合いじゃなかったら、とっくに別れていたかもしれない。

 一緒にいるからこそ、見えたり受け入れられたり、把握できたりする生態もあるのだ。でも、智だけではなくて色んな人がきっとそうなんだろう。

 私は基本的に人を深く知りたいと思わないし、特に興味はない。なのに、私に会った人は何故か自分の悩みや生い立ちや、他人にはあまり言いにくい内容の話をしてくる。どうして初対面の私にそんなことを話せるのだろう。

 私がホステスを経験していたと言うことを抜いても、そして人見知りをすると言うことを抜いても、普通の話題ではないと思う。それとも、案外世の中の人々は自分の悩みや生い立ちなんかの、一種気まずい雰囲気にもなりかねない話題を持ち出すことでなにかを訴えているのか。ただ単に聞いてもらいたいだけ。話しやすそうだから。そんな話題を持ち出せば相手が同情してくれて自分を可哀相だと思ったり、増々親しみを覚えたりするからだろうか。

 私には、そのどの効果も当てはまらない感情が生まれる。責任を感じるのだ。そんなのっぴきならない事情なんか聞きたくないし、聞いた所で私にはどうにもできない。かといって、他に転移することもできないし、聞きたくないから耳を塞ぐ訳にもいかない。ひたすら私の中に蓄積されていく。ほんとうに面倒臭い。

 そのうちに私はそんな触りが聞こえ始めると、無理に話題を変えたり、席を立ったりし始めた。そして、急激に私の周りに残っていく人は限定されていった。どうやら、話を聞くということ自体がなにかの条件だったようだ。

 智と初めて会った時、穏やかで物静かな感じに突飛な物言いと、時々間を抜けさせる一生懸命な可愛い人だと思った。とりあえず飽きなかった。素直な性分が本人でも気付かないくらい至る所に剥き出しになっていて、そのくせ底抜けに意地悪だったりした。おまけに自分がどうの悩みがどうのなんて話をしない。一緒にいても自然体で楽な心持ちでいられる男だった。

 3年経った今でも、その本質は変わっていないのだと思う。ただ、あまりに身近になり過ぎて、あまりに当たり前になり過ぎてきていただけ。そう思う。良くも悪くも中間地点なんだと思う。

「飯、食いに行こう。俺腹ぺこだよ」

 運転席に乗り込み、シートベルトをしながら智が言った。智がリラックスしている時の、落ち着いた低いトーンに意地悪っぽい音を含んだ声。時計を見ると、もう昼の12時を過ぎている。

「どこ行く? なに食べたい?」

 風船が割れるような華やかな音をいっぺんにラジオが吐き出して、陽気な音をたてながらトラックが動き出した。

 智は何が食べたいか必死に考え込んでいる。智にとって、お腹が減るのは待ったなしの一番大きな要素を占めている事件だった。早急な対応が望まれる。全細胞が食物を摂取するためだけに注がれる切迫感のある事柄だった。

 智は目を外斜視にして集中して悩んでいた。あまり空腹に対して無頓着な私は、その様子を面白く観察していた。可愛い人だ。

「俺、カレー食べたい。雨は? なにか食べたいの、ある?」

 思わず笑ってしまった。智はいつもカレーかラーメンなのだ。

「カレーでいい」

 ターコイズブルー色のトラックは、鮮やかな黄色いイチョウが舞い散ってくる黄金色の並木を突っ走って行く。

「これが、全部純金だったらいいのにな」

 智はご機嫌で、荒れが目立ってきた手で調子良くハンドルを右にきった。

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