かけらの国

御伽話ぬゑ

第1話

 私達2人のよくやる遊びは粉々に砕く事だった。

 罅の入ったお茶碗、湯のみ、お皿なんかは当たり前。割れた窓ガラスやビール瓶や花瓶なんて大きな物も、ゴミ置き場や家の物置なんかから集めてきては、手当り次第に粉々に割り散らした。中でも一番のお気に入りが、鏡と電球と温度計だった。体温計も中から溢れるとろっとした水銀が本当に魅力的ではあるのだけれど、いかにせ体調が悪くなった時の必需品なのと、なかなか壊れないし、持ち出したらたちどころに見つかってしまうので、手に入れるのが難しいレアものだった。

 幸い廃墟と化した温度計工場があって更には密閉して打ち捨てられていた大量の出来損ないの温度計を見つけたので、温度計と電球と蛍光灯には事欠かなかった。

 私達はそれぞれの学校が終わると、あーちゃんはランドセルのまま、私は制服のまま、この廃墟の工場に集まり、持ち寄った物や工場の秘密の部屋に転がっている危険物注意の色褪せた張り紙が引っ付いている段ボールにぎっしり詰まっている処理し損ねた失敗作の温度計を思う存分に割った。手に持ってからコンクリートの床に思いっきり投げつけ、華やかな悲鳴をたてて鮮やかに一瞬で床に広がる粉々になったかけら達は本当に綺麗で、飽きる事なく延々日が暮れるまでしゃがんで眺めていた。

「こうやって粉々になった時が、物って一番綺麗だよな」

 まだ小学生のくせにマセた軽い煙草を吹かしながらあーちゃんが呟いた。あーちゃんの口から漏れた煙がくねくねと透き通ったりして漂いながら、今こしらえたばかりの温度計達のかけらに不思議な影を落とす。

「・・・あーちゃんのパパは、もう帰ってこないの?」

 言ってしまってから、別にこんな事聞かなくても良かったのにと私は後悔した。あーちゃんはそれに対しては答えず、しばらく何も言わずにただ煙草を吹かして煙をまき散らしていた。そして時々、咽せて苦しそうに咳をしていた。煙草は体に悪い。でも何度言っても無駄だった。私達は黙ってひたすらかけらに映る色々な影や景色を眺めた。天井の屋根は朽ちしまいとっくに落ちていたので、屋根のこれでもかと言う程に錆び付いた骨組みだけの向こう側には和やかなボヤーンとした形の白い雲が呑気にゆっーくり流れていく明瞭で平和な初夏の青空が見えた。規則正しいメトロノームのように山鳩が鳴いている声が時々聞こえる。ヒバリが何事かやかましくさえずって通過した。太陽の光がキラキラと反射して綺麗で堪らないのに意気地なしの目が痛くなってしまうくらいだ。私は溜息をついて目を瞑った。

「他の女と一緒に住みたいんだと」

 あーちゃんの突然の返答に、けれど予想外でもなかった答えに、私はゆっくりと目を開けてあーちゃんの方を見ようとしたが、丁度影になる部分に佇む小学5年生にしては小柄なあーちゃんの姿は、その黒いジャンパーまでもが、まるでこの打ち捨てられた廃墟の中に捨て置かれた可哀相な小さな真っ黒に汚れた人形みたいに見えてしまったのだ。私は慌てた。あーちゃんがそのまま口をきかない人形になってしまうみたいな錯覚に陥ったのだ。

「うちと同じだね」

 あーちゃんは吸った煙を一気に吹き出すように笑って言った。

「なんで同じなんだよ。俺のバカ親父は、自分から俺と母さんを捨てて出て行ったんだ。つまり家族を辞めんだ。蛍の親父さんは死にたくねーのに死んだんだろ。全然違うじゃんか」

「うん。でもパパがいない事は事実だから」

「憖生きている方が生きてないよりもマシって事か?」

「会おうと思えば会えるからね」無気力そうに頷いた私を見つめて、あーちゃんは吐き捨てるように言った。

「どっちがとかって、わかんねーよ、俺。だってどっちにしても悲しい事に変わりねーし。悲しい種類が違うってだけで。それに、俺は親父を許せねーよ」

「それも そうだね」私は足下に転がっていた割れたかけらをまだ慣れない真新しい黒いローファーで丹念に踏み砕いた。

 太陽が無遠慮な雲に遮られて、一瞬暗くなった。私達が破壊し尽くした温度計は体内に秘めたその血のような液体に軽く濡れて、やけに生々しく散らばっていた。

「蛍、もう 行こう」

 煙草を足下で揉み消したあーちゃんにそう言われたものの、私はまるで取り付かれたみたいに目が離せなくて、その場に根が生えたように突っ立っていた。

「蛍、おい。蛍!」何事かと不審に思ったあーちゃんに腕を強く掴まれて、やっと私は我に帰った。

「大丈夫かよ。なんか魂抜けてたみたいな感じだったぞ」

「え? ううん。平気だよ」

「ならいいけど。今度、蛍の好きな鏡探してきてやるから、今日は帰ろうぜ。雨とか降りそうだぜ」

「いいじゃん。降っても。そしたら、あーちゃんと一緒にここで雨宿り出来るでしょ?」

「まぁ、それも悪かないけど・・・どうしたんだよお前」

「お前って呼ばないで! 私、そうやって呼ばれるの大嫌い!」ヒステリックに喚き散らしてしゃがみ込む私をあーちゃんは困った顔で見ていたが、すぐにわかったとばかりに言った。「今日は、あいつが来てるんだろ?」

「・・・そうだよ。だから嫌なの。帰りたくないの」

 あーちゃんはまるで大人の人みたいに柔らかい猫っ毛を揺らしながら考え深気な表情で煙草を一本取り出して、ライターでぎこちなく火を点けた。煙草吸い過ぎと言い出そうとしたが、ふと思いとどまって止めて、私は不気味に薄暗くなってきた室内の、コンクリート剥き出しで元の素材に戻りつつある壁や柱を眺めた。正体不明の穴や金属の棒なんかが痛々しく突き出ている。曇はもう今日は太陽が覗くのを許してくれそうもなかった。湿気が高くなるのを感じる。いつのまにか不気味な程辺りは静まり返っていて、廃墟を乱暴な生温い風が吹き抜ける音ばかりがもの悲しく響いていた。

「なら、俺ん家来る?」

「でも、あーちゃんのママに嫌われちゃうよ。もう昔とは違うんだし。うちのママも知られたくないみたいだから、いいよ。私、1人でここにいる。平気だから」私はそう言い放つと、その場に蹲った。

「良かないだろ。こんな物騒なとこに一人だけで置いて帰れっか!」あーちゃんは、私の手を握って乱暴に引っ張って行った。

「母さんに見つかんなきゃいいんだろ?」

 あーちゃんよりも大きく年上の私の手を痛くなるくらいに強く引っ張って、軽やかな風のようにどんどん身軽に走っていく小さな体のあーちゃんは、とても私より5つも年下の小学生だなんて思えなかった。

 自宅に着くと、あーちゃんは私の靴を持って自分の部屋に私を引っぱり込んで、埃っぽい押し入れの中に私を押し込んだ。

「ここならいいだろ」

 自分の勉強机から電気スタンドを伸ばしてきて押し入れの中に入れながら、幾つかの漫画と食べかけのポテトチップとお茶のペットボトルを持ち込んで、あーちゃんもランドセルを置いて無理矢理入り込んできた。

「狭いよぉ。息詰まっちゃう」

 私はま新しい高校のブレザーが汚れるのが嫌で、その場でもそもそと脱いでワイシャツだけになった。

「少し開けとくか」

 防虫剤のキツい臭いのする布団に挟まれるようにして不平を言う私には構わず、あーちゃんはポテチを食べ始めた。押し入れの中に籠った密度の高い空気に半ばぼんやりと投げやりな気持ちになりながら、私は白熱電球に力強く照らし出された彫りの深いあーちゃんを見ていた。

「・・・どうして私のママなんだろう」ふと口をついて洩れてしまった言葉に私は思わずヤバいと思ったが、漫画に目を落としたままではあったがあーちゃんは聞き逃してくれなかった。

「どうしてって、蛍の母ちゃんが魅力的だからだろ」

「だからって、こんなのないよ。なにも考えてないんだよ」

「なにも考えてないこたないだろ。一応大人なんだから。蛍の母ちゃんもそいつも」

「私の気持ちなんてなにも考えてなんかいないよ。すごく無責任だし、虫酸が走る。それにそんな事言ったら、あーちゃんのパパだって大人でしょ?」

 ゆっくりと顔を上げたあーちゃんの痛い程真っ直ぐな真剣な瞳は押し入れの薄明かりの中でまるでビー玉のように綺麗だった。

「同じじゃねーよ。俺の親父は大人の中でも結構最低な部類だ」

「だから・・・ 同じなんだよ」

「なにが? 蛍が言ってる事わかんねーよ。なにが言いたい?」

 とっさに隠さなきゃと思った。あーちゃんに知られてはいけないのだと思った。知られたらきっと私の事を嫌いになってしまう。「・・・ううん。なんでもない」

「なんだよ。なんか俺に隠してんだろ? 蛍の母ちゃんとこの男と俺の親父が同じ部類って事か?」

「・・・うん  そう。そうだよ。 それだけ」

「そんなのわかってるよ。蛍が嫌いな奴は俺も嫌いだ」

「・・・・・・うん  ごめん」

「なんで謝んだ? 変な奴だな」そう言うとあーちゃんはまたポテチの袋に手を突っ込んで漫画の続きに戻っていった。その様子を眺めていた私はなんだか心底悲しくて溜らなかった。あーちゃんはなにも知らない。なにも知らされていないのだ。でも、私はうちに通ってくる男が誰かを知っている。知りたくなかった。私もなにも知らなかったら良かったのに。無神経で自分勝手な大人達ばかり。私とあーちゃん以外の面倒事ばかりが好きな人はみんないなくなればいいのにとも思っていた。あーちゃんに気付かれないように無理矢理大きな生あくびの真似をして、押さえきれなかった不条理な思いの雫を幾つか零して目を擦った。その拍子にふらついて後ろに手をつくと何かが指先に触れてぎょっとした。

「ねえ・・・なにか後ろにあるよ」

「お、気をつけろよ。 割れたお袋の手鏡だ」

「うっそ。砕こうよ!」

「今? 止めとけよ。今度にとっとこうぜ」これじゃあどっちが年上だか良識があるんだかわからない。

「やだあー今、すぐ!ここでやろうよっ!私、キラキラするの見たくなった」

 変に空元気を発揮しようとした私がそう駄々を捏ねると、何故かあーちゃんは顔を耳まで真っ赤にして口を金魚みたいにぱくぱくさせた。まだ幼さの残るまん丸な目が可愛らしい。

「ばっ! でっ、できるわけねーだろっ!」

「あーちゃん、なんで赤くなってんの? 変なの」

 相変らず湯気の出そうなくらいに真っ赤な顔のあーちゃんは、しばらく目をしきりにパチパチさせて漫画を逆さまにして読んでいたが、思い立ったように語尾を強めに言ってきた。

「いいぜ。やろう。でも1つだけ条件がある。電気消して真っ暗にする事!」

「どういう事? 真っ暗にしたら見えないじゃん」

「真っ暗にしなきゃ見えねーんだよ!どうすんだよ。やらない?」

「やる!」私がそう断言すると、あーちゃんの顔は増々真っ赤になった。

「蛍はさ、その・・・俺の事好きか?」

「? うん。大好きだよ」

「そっか。なら大丈夫だな」

「? 何が?」

 不意に電気が消されてしっとりとした湿っぽい暗闇が辺りを包んだ。と、同時にあーちゃんの小さな手が何処からともなく伸びてきて私を抱き締めた。途端見えたのだ。キラキラする小さな何かが。

 唇に柔らかいポテチ味の何かが押し付けられた。するとまた前より何倍も明るい何かが目の前で炸裂した。これって、キス? だよね。あーちゃんの手はワイシャツの上やスカートの上から不器用に体を這い、ポテチ臭い湿り気で首筋からあちこちを這い回った。私はされるがままで、ただ目の前で正体不明に眩しく光る何かに目が眩んで、布団の間で動けなかった。急に全身の皮膚をチクチク不愉快に突き刺すような痛みを感じた。まるで大小様々な砂利の上に思いっ切り素肌で寝転んだみたいに。

「いっ、いったっ!」

「えっ? まだ痛い事してねーよ」

「痛いよっ!ヤダ! 痛いっ!」私はあーちゃんを振り払った。その拍子に、あーちゃんは呆気に取られた表情のまま押し入れの外に転がり出た。もう部屋の中はシルエットぐらいでしか判別出来ない程に暗くなっていて、窓の外には薄い夜の帳が幾重にも降りてきていた。

「ご、ごめん・・・」

 申し訳無さそうな声を出して、あーちゃんは暗い中で床に手をつけて深々と謝った。着ているTシャツがやけに白く浮かび上がって、まるで小さな石膏の塊みたいに見えた。私は籠ったような綿の臭いのする布団に息が出来ないくらいに顔を押し付けて、出来るだけ自分の体を抱え込んでいた。

「あーちゃんが謝る事じゃないよぉ。ごめん。私、もう帰るよっ」

「えっ! だって家に帰りたくないんだろ? さっきの謝るから!もうしないから。俺が悪かったから、いろよ!」

 私は何故か半泣きで大声を出して懺悔しているあーちゃんを少しぼんやりと眺めていたが、首を横に振って皺になったスカートを直して立ち上がった。途端に押し入れの上の段を区切る頑丈な板にもろに頭をぶつけて、へなへなと崩れ落ちた。

「だっ、大丈夫かよ! 頭割れなかった?」

 慌てて駆けつけてきたあーちゃんの可愛らしく細い腕に頭を乗せながら、私はあまりの唐突な出来事に目を瞬かせた。

「今・・・一瞬見えたよ。目の前が眩しくなって、チカチカした」

「そりゃ、そーだよ。星が飛ぶってやつだろっ」

「頭打っ付けても見えるんだね」

「・・・おい。変な事考えんなよ。見たけりゃ俺が鏡でもガラスでも何でも砕いてやるから、痛くなるような事だけは考えんなよ」

 微かな輪郭と声と少し震えている温かい体温だけが、あーちゃんがそこにいるのを教えてくれる。それ以外は漆黒の暗闇。ただ、押し入れの奥であーちゃんのママの割れた手鏡だけが、どこかのなにかの光を反射していた。私はその光を見つめながら、どうしてあーちゃんはあの鏡を廃墟工場に持って来なかったんだろうと不思議に思った。

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