【1章1話-2】:贅沢な悩みだった




「そんなに私凄く見えちゃうんですか?」


「もぉ、結花ちゃんの唯一の欠点と言えば自分の凄さが分かっていないことかなぁ?」


 茜音が笑う。


 そうなのだ。


 結花と花菜は事情を知らなければ姉妹と言っても通用するほどの信頼関係を築いているから、恐らくどちらが任命されても互いの恨みっこなしは予想できている。


 ただ……。結花の本意ではないにせよ、国内の学歴だけで考えたとき、卒業証書を手にしたのは中学校までというのは心許ないと言い出す者がいても仕方ない。


 短大までを卒業し、年も7歳若い花菜か、もともと結花と同級生で大親友でもある大卒の斉藤千佳ちか先生という存在がいるから、その二人を次期後任者として推す声が上がっても不思議ではない。


「それだけじゃないんだよ……」


 結花にあって花菜たちにないものがある。


 茜音と健が珠実園をここまで成長させた原動力に、結婚直前の茜音がウィーンに短期研修留学したときの縁を継続させていて、ヨーロッパ式の児童福祉のノウハウを運営方針に採り入れたことにある。


 一方の結花も結花は結婚してから3年間、ニューヨークでの生活経験を持っている。


 これが結花と他二人との最大の違いだ。


 結花も茜音に倣い、海外生活時の人脈を絶やさずに、何度も研修に出てはその経験を積み上げた。


 だから、珠実園は他の市町村の国内施設とは異なる子供たち本位のサポート施設としての特徴を積み上げていて、全国から視察に来たいという声も後を絶たない。


 でも、これは茜音と結花が自らの経験を隠すことなく活用しているものだから、本物を経験してきた二人には追いつけない。


 現在の副園長である茜音だって、その職務として甘んじることなく、彼女の特技である音楽セラピーやリトミックというものを茜音自身が担当する。


 花菜も学生時代からの小説家という裏の顔を持っているから、食堂だけでなく図書室の読書会を行ったり、子供たちだけでなく職員の個性を最大限に発揮できるような体制になっている。


 そして、結花は子供たちとの接し方や子育てに悩んだり、これから出産で不安を抱えた母親とのコミュニケーションで右に出る者はいないという。


 千佳はその結花からのノウハウを学んでいるから、今後はカウンセリングのトップとして進めていくことになっている。


 そういった、ある意味贅沢な悩みの中で最終的に結花に決定付けたのは、彼女の夫である陽人の存在だった。


 元高校教師。結花との交際をスタートさせるため人生進路を変え、予備校講師に転向。そこでは病床の結花を支えるために行っていた個人授業を積極的に展開。


 一時は一番人気の講師にまで上り詰めた。


 その地位をあっさり明け渡したのは、園長でもある健が、結花と二人で珠実園の次世代を担って欲しいと口説いたからだ。


「陽人先生も言っていたそうよ。自分を変えてくれたのは結花ちゃんだって。その結花ちゃんに協力できるなら、今の立場にしがみつくことはないって」


「陽人さんがいきなり転職するって聞いたときにはびっくりでしたよ。それも夫婦で同じところなんてねぇ」


 そんな人的準備を整え終わる頃には、健と茜音にも定年というものが見えてきていた。


 私設組織ではないから、その規定に逆らうことが出来ない。


 結花は茜音の同級生で親友である原田佳織の娘だから、自分たちには親子ほどの年齢の開きがある。その間として結花の背後に9歳年上の陽人を健の後任として据えた上で、茜音の後任を結花として、一気に若返りを図ることを決めた。


 公共施設職員の定年退職は誕生日のある年の年度末というものが多い。


 年度変わりでいきなり代表や方針が代わることは、利用者にとっても不安が大きく、あまり印象が良くない。


 そこで珠実園独自のルールで、役職としては誕生日を迎えた月末で終わらせ、職員としての定年は規定通りの年度末まで。その間に後進への引継を済ませる。その後も契約職員として残ることが可能としてある。


「でもね、わたしも健ちゃんも延長は予定してないよ。そうでなくちゃ結花ちゃんたちへのバトンタッチにならないもの」


 健と茜音は最初からそう宣言していて、年度末までで完全に引退すると告げていた。



 今年5月に60歳を迎えた健から陽人への代替わりは終えている。


 今は陽人に健がついて一つ一つを継いでいる状態。


 9月が誕生日の茜音が最近行っていた荷物整理は、今月末に自分の場所を結花に譲るための準備だったから。


 今度は自分の番。


 結花に約半年間をかけて最後の授業を行うことになる。


 立派に育ってくれた教え子へバトンを渡せる嬉しさと、終わりを迎えるというちょっぴりとした寂しさも交差する日々を過ごしているというのが、健と茜音夫妻の素直な感想だった。

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